狐の好物(前)
その光景を見た途端、三郎の表情は曇った。
目を離した隙にまた屋敷からいなくなった兄の二郎を門の前で待ってから、約1時間弱。やっと帰ってきたかと思えば、二郎の後ろにあの少女が歩いていた。
(泣いていたのか)
少女は目も顔も真っ赤だった。三郎の視線に気づくと、彼女は顔を伏せた。
二郎が三郎の前で足を止める。少し遅れて到着した少女は、二郎の背中に隠れるようにして立ち止まった。
「……二郎兄さん」
「ただいま」
淡々とした声で返事され、三郎は2人を引き離すように二郎の腕を引いた。
「貴方はご自分が何をしているのか分かっているのですか!?」
小声で問う。
「当主さまには、僕が話すから」
二郎は三郎の手をするりと解き、門に触れた。観音開きの門が開くと、花がまず見たのは竹林だった。風でさらさらと揺れる緑が右にも左にも広がっている。その真ん中に、砂利と石の道があった。二郎の後ろを付いていくと玄関に着く。
「……とりあえず使用人に、その娘が使う部屋を用意させてきます」
渋々といった様子の三郎に、二郎は頷いた。
「頼む。僕は錦を呼んでくる。爺やはここに残ってほしい」
「かしこまりました」
二郎は花に左目を向けた。
「貴女はここで待っていて」
「……はい」
「すぐに戻るから」
三郎と二郎が並んで廊下を歩いていく。二郎の背中が見えなくなると、花は辺りを見回した。
(すごい……。これが貴族さまが暮らすお屋敷なんだ)
何もかも大きくて、広くて、キレイだ。これでまだ屋敷のほんの一部しか見ていないのかと思うと、10丁目ではボロボロのアパートに住んでいた花は圧倒される。兄弟が歩いて行った廊下も長くて、延々と先まで伸びている。その途中には曲がり角が幾つもあるようだった。
「花さん、お座りください」
玄関のそばには古い時計とソファーが置かれていた。腰を下ろす。フカフカだった。
「あの、梟さま」
「梟、と気軽にお呼びください」
「じゃあ梟さん。本当に大丈夫でしょうか? 私がここに来てしまって……」
さっきの三郎の顔は明らかに迷惑そうで、思い出すと不安になる。
「二郎さまが困るのでは……?」
「何も心配することはありません。二郎さまは貴女を守ってくださいます。ワタクシの時と同じように」
「え?」
「ワタクシは、二郎さまに拾われた身なのです」
ずっと宙を飛んでいた梟が床に降り、花に向き合う。
「あれは3年前の冬のこと。重い病を患い、息絶えようとしていたワタクシを拾い、治療してくれたのです。あの方がいなければ、ワタクシは町の片隅で雪に埋もれ、独り死んでいたでしょう。……誰もが恐れる病であったのに、屋敷中の者に反対されたのに、行くあての無いワタクシを側に置いてくれたのです」
「…………」
花は考える。
あの人は、本当にどんな人なんだろう?
困っている者を見捨てておけない人なのだろうか?
(……早く戻ってこないかな)
時計の秒針が響く中、ソワソワしながら二郎を待っていると、
「さぁ、どうぞ」
ふわりと声が降ってきた。驚いて隣を見ると、いつの間にか女性が立っていた。桜色の髪をひと房のおさげに結い、頭にウサギのような垂れ耳が生え、顔には優しい微笑みを浮かべている妖。
「錦さん……!」
「さぁ、使ってくださいな」
錦が冷えたタオルを差し出してくる。
「目元を冷やしてください。明日の目の腫れがマシになりますわ」
言われて、両目にそっと当てる。顔の熱はすでに引いていたが、ひんやりした感覚は気持ちよかった。
「ありがとうございます。……すみません」
「あら、何故謝るんですか?」
「私、帰ってきちゃって……」
「そんな顔をしないでくださいな。何となく、こうなる気がしていましたから」
「え?」
「二郎さんが、花さんを連れて帰ってくるような予感がしていましたの」
『ほう。我はまったくもって予想外だったわ』
「っ!?」
また声が聞こえてきた。今度は上からだ。
頭上を見上げて、花は声を失った。
声の主は、狐だった。
真っ白の毛の身体は逆さまだった。
高い天井から花たちを見下ろしているのだ。まるでそこが地面であるかのように、平然と座っている。
(13丁目に暮らす人や妖は、気配が無いの……?)
狐も錦も、駅に来てくれた二郎も。
話しかけられるまでその存在に気づけない。
不意に、花は錦にガバッと抱きしめられた。直後に、錦の手が震えていていることに気付いた。
『貴様、まだ屋敷にいたのか!』
梟が羽根をバサリと広げた。
『我がいつどこに居ようが我の勝手じゃ。ところでそこの娘。まさかまた会えるとは思わなんだぞ』
「あ、えっと、駅まで送ってもらったのに、すみません……」
「いけません、花さん。狐と関わってはダメです」
錦が会話を遮った。
『感じが悪い女じゃのう。心配せずともお主らにたいして興味は無いわ。我が欲しいのは次男坊だけよ』
『いい加減にしなさい。我が主人に手出しはさせぬ』
口を閉じたまま話す梟と狐。狐は忌々しそうに、細い目をさらに細くした。
『はっ、憎たらしいジジイめ。なぁ花よ、どう思う? こやつらは我をいじめるのじゃ。ひどいだろう? あ、そうじゃ。お前、我の話し相手にならんか?』
「……え?」
『ここで暮らすのだろう? 外から来たお前だけよ。我とまともに話してくれそうな者は』
「聞いてはなりません……!」
『二郎さまの客人に気軽に声をかけるな』
錦と梟が交互に制止するが、狐はかまわずに続ける。
『我は知っておるぞ? 人間が恐れる妖は主に2匹。それは狸と我のことじゃ』
「っ!」
母の手紙が脳裏に流れる。母も警告していた。狸と狐に会ってはいけないと。彼らが恐ろしいから、大人たちは13丁目に子供を近づけたくないのだと。
『しかし我の暇つぶし……、いや遊び相手になってくれるのなら、お前のことは絶対に食わないと約束しよう』
狐が首を傾げた。
お前も我が怖いのだろう?
お前も〝アレ〟を持っているのだろう?
我の大好物である〝アレ〟を。
人間ならば、誰もが持っているはずなのだから。
囁くような狐の口調に、花の背筋はゾッとする。狸に襲われた時のように、身体中が冷たくなって動けなくなった。
(私は、持っている)
持ってしまった。
持っている限り、この狐の脅威から逃れられない……?
『我は約束は守る。そうすれば少しは安心して13丁目で生きていけるぞ?』
頭がクラリとした。
その時だった。
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