狐の好物(後)

「去れ」



 静かでありながら凛とした響きが耳に届き、花はハッとなった。


(この声は)



 錦に抱きしめられた状態で振り返ると、ソファーから3メートルほど離れたところに、思った通りの人がいた。


「二郎さま!」

「二郎さん!」


 花と錦の声が被さる。



『おお! 二郎ではないか!!』



 狐が嬉々として天井を走り、くるりと二郎の元に着地した。


『今日はよく会うのう! 嬉し……って、ぎゃあああああ!』


 二郎は無言で狐の鼻を鷲掴みにした。細い右手はか弱そうに見えるが、狐はかなり痛そうに叫んでいる。


「去れ、と僕は言ったのだが」


 包帯と包帯の間から見える左目と口が、冷たく狐を拒絶する。


『……ふっ。本当につれない奴じゃ。しかし我はお主のそういうところが』

「去れ」

『お主のようにクソ生意気な人間を屈服させたとき、どんな顔を見せ、』

「去れ」

『ふふ、我は待ち遠し、』

「去れ」

『あ』

「去れ」

『ちょっと最後まで喋らせてくれんかのう!?』


 とうとう狐は放り投げられた。


『ぎゃっ』


 全身が壁にめり込み、廊下に雷のような大きな音が鳴る。

二郎はゆっくり近寄って、着物の裾から小刀を出した。だけど二郎が刃を向けた先は狐ではなく、自身の右手の甲だった。


『くく。それは脅しか?』


 狐はにんまりと笑った。


『血か? 血を出すのか? その血で、我を殺すのか?』

(……血で殺す?)


 狐の言葉の意味が、花には分からなかった。


「……狐。よく聞け。僕は1度しか言わない」


 狐の赤い瞳がピクリと動く。


「2度と、あの子に近づくな」

『!』


 狐の笑みが消えた。

 この男は、いつもは何も映していないかのように薄暗い瞳をしている。なのに今は何故か、鋭い光が宿っている。


 狐は壁から離れ、廊下の奥へ移動した。


『ふふ。1度しか言わない、か。ならば我は何度でも言うぞ?』


 二郎へと振り向いて再び笑う。


『いずれ食い尽くしてやる。お前の全てをな』


 そう言い残すと、一瞬で姿を消した。


 錦の手が花から解けた。彼女はホッとしたように胸を撫で下ろしていた。


「あぁ、良かった……。二郎さんが来てくれて。花さんも無事で本当に良かったです」

「錦さん……」

「狐は本当に恐ろしい生き物……。度々、この屋敷に侵入するのです」

「そう、狐に心を許してはいけない」

「!」


 いつの間にか、二郎が目の前にいた。


「決して関わってはいけない」

「二郎さま……」

「あいつの好物を貴女も知っているはずだ」

「……はい」

「あいつは危険だ」

「はい」

「そして変態だ」

『えぇ。二郎さまを執拗につけ狙うストーカー野郎なのです』

(変態!? ストーカー!?)


 それは知らなかった。花がアワアワしていると、二郎は小刀を着物の中に戻す。


「……念のために言っておく」


 二郎は口を1度閉じ、少しの間を置いて開いた。




「狸は〝人間の肉〟と〝人間の命〟を食べる。そして狐は〝人間の罪〟と〝人間の寿命〟を食べる」





〝どのような罪を好むかは分かりません。狐がその人間を気に入りさえすれば、罪の重さや軽さに関係なく食べるそうです。

そして狐がどれだけの寿命を食べるのかも、また分かっていません。1日かもしれないし、10年かもしれない。1秒かもしれないし、残りの寿命の全てかもしれないのです〟




 そうだ。母の手紙にはそう書かれていた。


(私は、罪を犯した)


 サイフを盗んだ。その盗んだお金を使って。


(お兄ちゃんに、あんな手紙を書かせてしまった)


 その全てが間違いなく罪だ。

 自分は狐の好物を持ってしまったのだ。


「約束してほしい。決して狐には近づかないと」

二郎の言葉に、


「……分かりました」


 花は頷く。


(ちゃんと守らないと)


 この人に、これ以上の迷惑をかけないように。


 狐が消えた方向の反対側を二郎が指差した。


「おいで。貴女の部屋の用意が出来た」

「あ、はい!」


 花は立ち上がって二郎を追う。

 その花の後ろには梟と錦がついてくる。


(……細いな)


 兄よりもずっと細い背中だと、花は思った。この細身の人が、狸も狐も追い払ってくれたなんて、他の人に言っても信じてもらえないかもしれない。



『いずれ食い尽くしてやる。お前の全てをな』


 狐は最後に言った。


(あの言い方って、もしかして)



 二郎さまも〝罪〟を持っているの……?



 しかし花はすぐに思考を止めた。

 そんなこと考えてはいけない。

 こんなに親切にしてもらっているのだから。


 花は頭をぶんぶん振って、長い廊下を進んだ。

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