満月の夜(後)
「……まだ起きていたの?」
「あ……」
二郎が問うと、寝巻き姿の花は恥ずかしそうに顔を赤くした。
時刻は日付が変わったばかりで、場所は花の部屋の前にある小さな庭。
兄から造血剤をもらい、弟たちを拒絶した後、二郎はまっすぐにここへ来た。すると、てっきり疲れて寝ていると思っていた少女の姿があった。
庭は仄かに明るかった。雲と雲の間から差し込んでくる月明かりの下、花は縁側に立つ二郎を見上げた。
「すみません、寝ようとしたんですけど何だか眠れなくて」
「……どこか体調が悪い?」
「違います、そうじゃないんです」
「今日は花さんといろんな所へ行きましたので。見慣れない物をたくさん見て目が冴えたのかもしれません」
花の隣で梟が言った。
彼らの向こうには低い柵が立っている。そのさらに向こうには竹林があり、夜風で揺れていた。
二郎は花に言う。
「もうじき風が冷えてくる。早く部屋に戻った方がいい」
「……はい」
「爺やも帰ろう」
(あぁ、そうか。二郎さまは梟さんを迎えに来たんだ)
明日まで会えないと思っていたので、声をかけられた時は叫びそうなほど驚いた。
花は、さりげなく二郎を上から下まで見てみる。
黒い着物に同色の羽織り。いつも通りの姿だ。顔を覆う包帯以外に、怪我をしていそうな箇所は無い。
花が眠れなかった理由は幾つかある。慣れない土地、部屋、町の刺激、兄のこと。
そして昼間、二郎の身体から血の匂いがしたことが気になっていた。
(いつもと様子は変わらない。やっぱり私の気のせいだったのかな……?)
近衛二郎という人は、とにかく感情が分からない。包帯で顔が見えないとはいえ、彼の表情や声は一切崩れないのだ。
花の兄はわりと無愛想だったけど、二郎に比べたら、まだ感情が豊かだったのだと思えてくる。少なくとも兄は、体調や機嫌の良し悪しはすぐに伝わってきたから。
花が見ている世界が変わったのは、その時だった。
縁側にいる二郎自身は何も変わっていない。変化があったのは、彼の周りの明るさだった。
思わず空を見上げると、頭の真上に大きな月が浮かんでいた。空のほとんどを覆っていた黒い雲はいつの間にかどこかに流れていて、花は今初めて今夜が満月なのだと知った。
「きれい……」
無意識に花は呟いた。まるで絵で描いたような月だ。これまでの人生で見てきたどの満月よりも美しくて、丸くて、そして明るかった。
ふっと誰かの気配を感じた。
隣に二郎がいた。彼もまた、月を見上げている。
「あぁ、二郎さま。またも
梟が下の方でそう漏らすのが聞こえて確認すると、確かに足には何も履いていない。
〝いけません、お戻りください〟と梟に注意されても、二郎の左目は空に向けられたままだった。彼の黒い髪が、白い包帯が、細い身体が、太陽とは違う柔らかな光を一身に受けているのを見て、
(あぁ、よかった)
花は途端にホッとした。
二郎が月を見ている。いや、たぶん見惚れているのだ。
(もしかしたら二郎さまも、こんなにすごい満月に出会ったのは、初めてなのかな?)
何を考えているか分からない人が、自分と同じものに目を奪われている。
そう思うと、花は嬉しくなった。
(もう血の匂いはしない)
安心する。
今の二郎からは、あの赤い匂いは完全に消えている。彼から感じられるのは、ふんわり黄色い明かりだけ。
「13丁目の町は楽しかった?」
不意に二郎が尋ねてきた。
左目は月に固定されたままで、花も二郎から月へと視線を戻す。
「はい。とても面白かったです」
「……」
「二郎さま?」
「……貴女が、あまり買い物をしていなかったから」
確かに花は、町では文房具しか買わなかった。門の前で二郎に会った時に持っていた紙袋は1つだけだった。
「あ、別に気に入った物が無かったわけではなくて! むしろ、気になる物はいっぱいあったんです。可愛い髪飾りとか、キレイなお菓子とか……」
「なら、どうして買わなかったの?」
「それは……」
「遠慮はしなくていい。貴女に渡したお金は、貴女が自由に使っていいのだから」
「……。実はお兄ちゃんがよく言っていたんです。〝気になる物があってもすぐに買うな。3日待て〟って」
兄の口癖を思い出して、花はふっと笑った。
「〝3日経っても欲しいと思う気持ちが変わらなかったら、その時は買え〟って。……と言っても、買ってもらえないことの方が多かったんですけどね。家にはお金が無かったから」
「……そうか」
「はい。この町でも、お兄ちゃんの言いつけはちゃんと守ろうと思って」
「貴女は本当に
二郎の言葉に、花は頷く。
それから少しの間を置いて続けた。
「それにあのお金は、二郎さまから貰ったお金だから」
直後、2人はまったく同じタイミングでお互いを見た。いつもより近い距離で目が合って、花はドキッとする。
「えっと、この前も話しましたけど、私は落ちている財布を盗んだことがあって……。そのことを知っているのに、二郎さまは私にお金を預けてくれたから」
嬉しかった。
(梟さんではなく、私に財布を持たせてくれた)
まるでそれが当たり前かのように、何も間違っていないことのように。
「私はもう、お兄ちゃんのことも、二郎さまのことも絶対に裏切りたくないと思ったから……、だから、あのお金は大切に使いたい……です……」
言っているうちに恥ずかしくなり、最後の方は俯いてしまう。
二郎から目を逸らしたせいで、
(え)
懐かしい感覚が頭に降ってきた。そっと髪を流れていく温もり、兄がときどきやってくれた行為。
二郎が、花の頭をぽんぽんと撫でていた。
花の瞳が見開く。目の前にある繊細そうな手首は、兄とは全然違う。だけど二郎の慈しむような触れ方は、兄にそっくりだった。いなくなった兄がすぐそこにいるかのような錯覚がして、花は呆然とする。
「……ありがとう」
二郎が口を開くと同時に、その手が離れる。
花は目が覚めたようにハッとした。
「二郎さま……?」
「……そろそろ寝た方がいい。部屋に戻って」
「ま、待ってください!」
帰ろうとする二郎に、花は慌てて話しかけた。
「〝ありがとう〟って言いましたけど、どうしてですか? 私は二郎さまに何もしていません。それどころかお世話になってばかりなのに!」
二郎がわずかに首を横に振る。
「……貴女と話していると、心が少し軽くなった」
(心が軽くなった?)
「ここに来る前に、ちょっといろいろあったから」
皆に、酷い言葉を吐いた。
消え入りそうなその言葉を、花は聞き取れなかった。
「でも貴女と話していたら、不思議と心が少し軽くなった気がする」
(イヤ)
イヤだ、と花は思った。
帰る場所が無かった自分を助けてくれた人。見ず知らずの自分を守ってくれる人。とても優しい人。
この人の心を重たくしているものがあるなんて、そんなのイヤだ。
〝少し〟ではなくて、全部なくしたい。
「あの」
花は、気付けば、
「もっと私にできることはありませんか……!?」
そう口にしていた。
それは、今まで兄に頼ってばかりだった少女が、初めて誰かの役に立ちたいと思った瞬間だった。
「……貴女のその気持ちだけで充分だよ」
しかし二郎は静かに、短く答えた。
花の頬はカッと赤くなる。
(私はバカだ)
そう言われるに決まっているのに。子供で、何も持っていない自分は無力だ。何も出来るわけがないのに。恥ずかしい。勢いで言ってしまって。
「さぁ、今夜はもう寝よう」
「……はい」
「おやすみ、花」
ぐるぐるしていた思考がピタッと静かになった。
(……あれ?)
今、〝花〟って言った……?
名前で呼ばれた……?
(え、えぇぇ!? 初めて呼んでくれた!? いつも〝
顔がますます熱くなり、自分でも驚くほど心臓が跳ねた。
二郎と梟が廊下の向こうへ消えると、花は部屋の布団に潜った。しばらく経っても胸の動悸はおさまらず、眠れなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます