モヤモヤ
「……あ、
近衛屋敷の門前で、洋装姿の二郎が呟いた。左目が見下ろす先は、紐が解けた焦茶色の靴。
「紐が付いた靴は履き慣れない」
独り言のように言いながら、紐を結び直す。梟はすかさず反応する。
「巷では〝トラッキングブーツ〟と呼ばれる物で、山を移動するのに適しております。狐の山へーー、敵地へ行くのですから、動きやすい履き物が必要かと。さぁ、ギュッと結んで下さい」
「貴方がせっかく手に入れてくれた物だけど……、紐を強く結んだら、脱ぎにくそうだ」
「脱ぐことを念頭に置かないでください」
梟はしばらく二郎の手元を見ていた。紐の形が完成に近づいていくと、梟は悔しげに目を細くした。
「……ワタクシもお供をしたいです」
「……」
梟の言葉に二郎は何も答えない。答えないことが、〝答え〟だった。
「分かっております。ワタクシでは力不足です」
「爺や……」
「近衛家で最も優れた討ち手である貴方さまと、希少な上級レベルの狐が本気で殺し合えば、中級程度のワタクシが立ち入る隙などありません。何と歯痒い。そんな状況でワタクシに出来ることなど、せいぜい無駄死にくらいです」
「爺や……」
「あるいは、貴方さまが脱ぎ捨てた履き物を
「爺や?」
「ほ、本当に言い間違えでございます! えぇ、本当に!」
「……うん。信じている」
二郎が靴紐を結び終えた。
「……貴方には、あの子のそばにいてほしい。屋敷の中に心許せる者はまだ少ないはずだから」
「はい。ワタクシは花さんを見守ります。どうかご安心を」
「ありがとう」
二郎は黒い外套を纏い、フードを目深に被る。
「二郎さま。ご武運を」
「……うん」
二郎を開いた門の内側を一瞥する。見送る者は梟だけだ。
ふっと、昨晩の弟と一族の顔が浮かんだ。ーー傷ついた表情をしていた。
しかしすぐに踵を返し、狐が待つ山へ二郎は向かった。
(う、うわあああ……!)
自身の口を両手で覆って、花は衝撃を受けていた。
机の上に5枚の紙が並んでいる。どこもかしこも赤色のペンで〝×〟が記された紙が。
二郎との約束で、花は13丁目にいる間も勉強をしている。
月城町13丁目には学校が無いため、大人が子供の教師になるのだが、花の家庭教師に名乗り出たのは
(問題のほとんどを間違えている……! うわあああ、私って本当にバカだったんだ……! お兄ちゃんの言う通りだった!)
「だ、大丈夫ですよ! 花さんはまだ14歳ですし、今からでも間に合いますわ! 一緒にがんばりましょう! ね?」
(錦さんがものすごく気を遣ってくれてる!)
机を挟んで座る錦が、花を励ますようにガッツポーズをしている。
真っ赤に染まった問題用紙は錦が用意してくれた物で、花はもっと真面目に勉強しておけばよかったと猛烈に後悔した。
(うぅ、こんな点数、もしお兄ちゃんにバレたら絶対に怒られるよ……)
そこでハッとした。
「……あの、錦さん」
「どうしました?」
「この点数って、二郎さまに見られてしまうんでしょうか……?」
若干青ざめている花に、錦はキョトンとした。
しかしすぐに、
「いいえ。これは誰にも見せませんよ」
そう言って微笑んでくれたので、花はほっと胸を撫で下ろした。
「ふふ。何だかとても懐かしいですわ」
「懐かしい?」
錦が頷くと、彼女の頭部から兎のような垂れ耳と、桜色のおさげがサラリと揺れた。
(錦さんって、とてもキレイ)
花はぼーっと見惚れた。
錦は美しい妖だ。それにとても優しく、穏やかさが顔に滲み出ている。淡い和紙みたいに儚い印象だ。だから勉強を教えてくれるのが錦だと知った時、花はすごく安心したのだった。
錦の整った唇が動いた。
「本当に懐かしい。子供の頃、二郎さんと三郎さんと一緒に勉強をしていたものですから。久しぶりに教科書なんて見ると、いろいろと思い出してしまって」
「……錦さんたちは、仲が良いんですね」
「ふふ。私と三郎さんは、二郎さんのことが大好きで、いつも彼にくっついていたんです」
錦の指がスッと教科書を撫でる。今、彼女が昔に思いを馳せていることが伝わってきて、
(いいなぁ……)
と、花は素直に羨ましくなった。
二郎はどんな子供だったのだろう。
どんな風に生きてきたのか。
……顔に巻いた包帯の理由は何なのだろう。
「……二郎さんは、本来は1人でいるのが好きなお方なんです。私たちに付き纏われて煩わしかったのではないかと、少し反省しています。二郎さんは心の内を明かさないので、実際のところは分かりませんが」
「……昔からあまり話さない人だったんですか?」
「えぇ。本当に無口で、周りの大人たちは心配しておりました。〝大きくなれば、あの性格も変わるだろう〟と言う方もいましたけど、大人になっても二郎さんは二郎さんのままです」
「……あの、二郎さまってお年はおいくつなんですか……?」
「今年で21歳です」
「っ!」
兄と同じ年齢だ。
「貴族の身分で21歳なら、結婚していてもおかしくない年齢なのですが、二郎さんにその気は無いようで……」
結婚。
それを聞いた途端、何故か花の胸はざわりとした。
近衛家は、近親婚で血を残していく一族だ。
(二郎さまの結婚相手は、近衛家の女性から選ばれるんだよね? ーーもしかして、相手はもう決まっているの?)
「では、今日はここまでにしましょうか」
花の思考が止まる。
錦の眉が申し訳なさそうに下がっていた。
「あまり見てあげられなくてすみません。実は今日は町へ出かける用事があって」
「いえ、私は大丈夫です!」
「明日からがんばりましょうね。あぁ、お土産にお菓子を買ってくるので、勉強が終わったら一緒に食べましょう」
錦が部屋から出ていった。
(〝お土産〟……か)
机の上を片付けながら、花はぼんやり考える。
(私も次に町へ行ったら買おうかな。錦さんはどんなお菓子が好きなのかな? 梟さんは団子が好きなのかな。この前、町で食べていたけど……。二郎さまは何が好きなんだろう?)
ため息が出た。
花が持っているお金は、二郎から貰った物だ。その金で彼へのお土産は買えない。
「……自分のお金があればなぁ」
あの人に、少しでもお礼が出来るのに。
錦は宿題を残していった。でも集中できない。
お金のこと、そして二郎の結婚のこと。
それらが妙に気になって、胸がモヤモヤしていた。
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