満月の夜(前)

 急に投げられてきた物を、二郎はきれいに受け取った。

 それは両手に収まるサイズの布袋ぬのぶくろだった。藤色の生地の中からジャリジャリと音が聞こえ、握ると小豆のような粒感がある。


 布袋を投げた一郎と、二郎が向かい合っているのは屋敷内にある一室。

 宴を開けるほど広々としているが、奇妙な部屋だった。東西南北の全てがふすまに囲まれ、どこにも壁は無く、無空間の感覚が狂わされる。今は近衛家当主の一郎が東に立ち、二郎が西に座っているので、上座と下座の位置だけは把握出来た。


 三郎と錦があまりに心配するので傷の治癒を優先したら、ここへ来るのがずいぶんと遅くなってしまった。時刻はもう日付が変わろうとしている。


 この部屋に来てから二郎はひと言も発していない。一郎も何も尋ねてこなかった。狐を逃がしたことはすでに知っているようだった。


沈黙の中、一郎が東側の障子をスッと開けた。外は真っ暗だった。今宵は満月のはずだが雲に隠れているらしい。黒色の画用紙を敷き詰めて貼ったような、嘘みたいな闇だった。


「その袋の中身が分かるか?」


 口を開いたのは一郎だった。眼鏡の奥の瞳を闇に向け、背中は二郎に見せた状態で。


「……造血剤ぞうけつざいです。これを飲めば体外へ失った分の血液を、体内ですぐに補完できます」


 二郎は彼特有の、淡々とした口調で答える。


 自らの血で触れた物を武器へと変える近衛の討ち手。戦うには血が不可欠だ。月並みの妖ならまだしも、狐ほどの敵が相手だと、使う血は致死量を超える可能性がある。


「二郎よ」

「はい」

「貴様は馬鹿か?」


 冷たい声が放たれた。


「私は確かに狐を殺せと命じた。だが狐の山へ行くのなら事前に報告しろ。聞いたところによれば、貴様は武器しか持っていかなかったらしいな。ろくな用意もせずに敵地へ向かうなど〝馬鹿〟としか呼びようがない。自分の能力に慢心したか? 勘違いするな。貴様は狐より強いわけではない。狐と対等であるだけだ」

「……当主さまの仰るとおりです。申し訳ありませんでした」


 容赦のない責めに、二郎は一切反論しなかった。

 一郎がため息を吐く。


「貴様の血は貴重だ。無駄死にされては勿体ない。次からはその薬を持っていけ」

「……はい。分かりました」


〝もういい、下がれ〟と、一郎が命じようとした寸前のことだった。


「……植物」

「は?」


 静かな声がして、一郎は振り返る。見れば、二郎が鼻に布袋を近づけていた。


「草と花の香りがします」

「……? それがどうした? 造血剤は鉄臭てつくさい。臭みを薄めるために薬草や花を混ぜるのは常識だろう」

「あと、兄さんの匂いがします」

「っ!」


 一郎の目が揺れた。


「造血剤の主な材料は〝近衛の者の上質な血液〟。……これは兄さんの血で作ってくれたのですね。兄さんの血に宿る〝治癒の力〟があると心強いです」

「っ!」


 切れ長の瞳はまた揺らいだが、すぐに普段通りの冷徹な光を宿した。


「さっきも言ったが、無駄死にされては勿体ないだけだ。皆が心強く思うのは貴様の中に流れる〝狐を殺せる血〟だ。ゆえに、全ては一族のためであって、貴様個人のためではない」

「……それでも感謝致します」

「……私の薬では血を補えても、命までは救えるとは限らないぞ」


 二郎は答えず、左目を布袋から一郎へと移してくる。包帯で表情が隠された顔。それでも真っ直ぐに見上げられる視線を一郎は感じ取る。


「……次はいつ、狐の山へ行く?」

「明日です」

「時間は?」

「昼過ぎに」

「……そうか」


 先日まで屋敷に篭っていた弟が連日外に出る理由。心当たりは1人しかいない。


「二郎。もしも娘が近衛家に害を及ぼす存在だと判断したら、即刻追い出す。それだけは覚えておけ」

「……あの子には帰る場所がありません。何の力も持たない子供です」

「娘がどういう存在であるかは、私が決める」

「……分かりました」


 二郎は頭を下げた。


「この薬は大切に使います。命の危険を感じた時に飲ませてもらいます」

「貴様は馬鹿か?」

「え?」

「本当に目眩を覚えるほどの馬鹿だな。命の危機を感じた時だと? ーーそれでは遅いだろう。立ちくらみ、息切れ、めまい、ふらつき、頭痛、胸の痛み、動悸、疲労感などの症状が出たら、すぐに飲め」

「……すごい。貧血の症状をそんなにスラスラと……」

「っ! だ、黙れ!」


 一郎は右手で自身の頭をおさえ、それから独り言のようにぶつぶつと呟いた。


「貴様と話していると本当に調子が狂う……。昔から貴様のそういうところが……!」

「……??」

「ええい、そのように首を傾げるな!」

「怒られた……。言われた通りに黙っていたのに……」

「心の声が漏れているぞ!? あぁ、もういい!」


〝下がれ〟と、今度こそ言おうとした。


 だが、その命令は再び言葉にならなかった。


 一郎と二郎は会話を止め、同時に南へ顔を向けた。

 直後、部屋の南にある襖が勢いよく開かれる。


 立っていたのは三郎だった。

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