市場へ

「よいですか、二郎さま。ご飯は必ず残さずに食べて下さい」

「分かった」

「決まった時間に、必ず薬を飲んでください」

「分かった」

「眠くなったら、必ずお布団で寝て下さい」

「分かった」

素足すあしで庭を歩かないでください」

「分かった」

「本日のまじないによると、ラッキーアイテムはハエ叩きです。さぁどうぞ」

「分かった」

(ラッキーアイテムが、ハエ叩き……?)


 翌朝の午前10時過ぎ。

 屋敷の門前には、ハエ叩きを差し出すふくろうと、それを受け取る二郎、そしてその光景をポカンと見ている花がいた。


「あぁ、おやつに果物を用意していますが、皮は剥いてください。手間を惜しんで皮ごと召し上がってはいけません。あぁ、それと」

「……爺やは、そんなに僕が心配なのか?」

「恐れながら、貴方さまは不精かつ不摂生なところがあります故」

「貴方にはいつも感謝している。だから彼女と一緒に、外でゆっくり楽しんできてほしい」

「っ!! な、何とお優しい言葉……! このような老いぼれに……っ」


 梟はプルプルと震える羽を大きく開いて、


「爺は感動しました!!!!」


 二郎へ向かって飛んで行った。


 だが、


「あ、こんなところに一圓玉いちえんだまが」


 地面に落ちていた小銭を拾うため、二郎がスッと屈んだ。抱きつく対象がいなくなった梟は、


「がはぁっ!!」


 ゴン!!と門柱にぶつかる。


「梟さん、大丈夫ですか!?」


 花は小さく悲鳴をあげて、


「……またなのか?」


 二郎は一圓玉を片手に首を傾げる。


「え? 〝また〟ってどういう意味ですか?」

「爺やはときどき、こうやって壁やふすまに突進してぶつかっているんだ。一体何故なんだろう?」

「そ、それは貴方さまがいつも絶妙なタイミングで避けるから……、いえ何でもありません……」

(あ、このやり取り、普段からやってるんだ)


 コホンと咳払いをして、梟は花のそばへ戻る。


「失礼しました。さぁ花さん、町へ参りましょう」

「はい! じゃあ、行ってきます」

「……行ってらっしゃい」


 二郎に見送られ、花は梟についていく。


「梟さん」

「はい?」


 門から少し離れたところで花は尋ねた。


「今日、二郎さまもどこかへお出かけするんですか? いつもと服装が違っていたから」


 彼は出会った時からずっと着物だった。だけど今朝は襟付きの白いシャツに黒のサスペンダー。和装よりもずっと動きやすそうな洋装だった。


「えぇ。所用があるようです」


 梟はそれだけ短く答え、バサリと宙を高く舞っていく。焦茶色の体の向こうには、青い空が果てしなく広がっている。今日は天気が良く、風は穏やかだった。


(二郎さま。和装も素敵だけど、洋装も似合っていたなぁ)


 似合っている。

 その言葉で思い出す。今もまさに着ている赤と黒のチェック柄の着物姿を、二郎が〝かわいい〟と褒めてくれたことを。トクンと胸が波打った。


 花は来た道を振り返る。

 遠くなった門の前には、もう二郎はいなかった。











 二郎が門を閉めた瞬間だった。



『つかまえた』



 どこからか子供のような声が聞こえ、ほとんど同時に背後から抱きしめられた。それは一瞬だけギュッと力強く抱きついて、すぐに離れていく。


 二郎が門を背にすると、視線の先に1人の少女がいた。矢羽根の柄の黄色い着物に、深緑のはかま、濃い茶色のブーツ。長い髪は白く、瞳は赤い。年齢も身長も花と同じくらいの女の子。



『今日は我の気配に気づくのが少し遅れたな? ふふ。我の勝ちじゃな!』


 初めて見る子供だったが、その正体を二郎は瞬時に見破った。


『我が変化へんげした姿はどうじゃ? 錦や花よりずっと可愛いだろう?』


 狐だ。

 性懲りもなく、また屋敷に侵入している。


『ふふ。人間の身体の使に慣れたら、お主に夜這いでもかけてやろうか?』


 そうやってクスクス笑ったかと思えば、


『ところでお主、あの娘にずいぶんと優しいではないか。妬けるのう。我はこんなにもお主を想っているというのに』


 一転して悲しげにため息を吐く。


『仕方がない。こうなればアレじゃな。〝押してダメなら引いてみろ〟作戦じゃ。ーーというわけで、我はしばらくお主とは口をきかぬ。お主からも我に一切話しかけてこないように。……あ、でも例外として、どうしても我に愛の告白をしたくなったら声をかけてよいぞ?』

「……なぁ、狐」

「って、言ってるそばから普通に話しかけてくるな! ……って違う違う。こんな奴は無視なのじゃ! 無視無視無視」

「僕はお前を殺すよ」

「無視無視、ム……シ……」


 狐の口が止まった。代わりに赤色の瞳がゆらりと動き、二郎を見つめる。

 その直後。


「ははははははははははははははははははははははは!!!!」


 甲高い笑い声が辺りに響いた。可憐な少女の姿が一瞬で消えて、本来の狐の姿をへと戻る。




「それはまた、最っっっっっ高の告白じゃな!!!!」




 狐の目の瞳孔が開き、口が弧を描き、真っ白の毛は針のように逆立った。吹き荒れる風が土煙を起こし、竹林の葉を容赦なく散らしていく。


「そうか、そうか! 珍しく洋装かと思ったら、我を狩るためにそれを着たのか! あぁ嬉しいぞ! 我と同等の力を持つ人間よ! 我が最愛の人よ!」


 狐は立て続けに言う。


 ずっとお主を待っていた。

 お主が我のもとに来る日を。

 お主を殺したい。

 お主に殺されたい。

 さぁ、遊ぼう。ヤろう、始めよう


 とても嬉しそうに、まるで歌うように。



「では、東の山で待っているぞ」


 狐は飛び去っていった。13丁目の東にそびえる山は、狐の縄張りだ。

 静かになった空間で、二郎は顔の包帯に右手を当てた。



「…………父さん」



〝ーーーー〟



 彼は続けて何かを言ったが、それは狐が残した風の音にかき消された。

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