小さな庭にて


(あれ?)


 目を開いて、最初に見えたのは焼けるような橙色の光だった。


(ここ、どこ?)


 ぼんやりと数秒考えた後、花は状況を理解した。

ここは花の部屋の外にある縁側だ。縁側の先には竹林に囲まれた小さな庭があり、濃い夕焼けですっかり染まっていた。



(って、もう夕方!? 私、寝てたの!?)


 錦に着物を着せてもらった後、花は朝から二郎を待っていた。最初は部屋の中にいたが、途中から縁側に出た。足音がするたびにドキッとしたが、それは全て使用人たちのもので、お昼になっても彼が来ることはなかった。


(お屋敷のお手伝いさんが昼ごはんを持ってきてくて……それから……)


 笹の葉がザワザワと擦れ合う音を聞いているうちに、柱にもたれかかって寝てしまった。

 カーッと顔が熱くなる。


(あーっ、私のバカ! 人様の家で寝るなんて! しかもこんなところで昼寝するなんて! 誰かに見られてたらどうしよう!? 〝これだから貧民街の人間は……〟って思われちゃうよ!)


 花が項垂れていると、


「おはよう」

「ひゃ!?」


 唐突に声をかけられて、飛び上がるほど驚いた。


「二郎さま!?」


 自分しかいないと思っていた縁側に、待ち侘びていた人が座っていた。


「いつの間にそこに!?」

「……貴女が目を覚ます1時間くらい前から」

(そんなに!?)


 この縁側は長くて、花と二郎の距離は3メートルほどあるとはいえ、ここまで気配を隠せるものだろうか。それとも自分が鈍すぎるのか。別に起こしてくれてもよかったのにと花は思ったが、すぐにハッと気づいた。


(私が起きるまで、待っていてくれたの……?)

「……調子は大丈夫?」


 二郎が淡々とした口調で訊いてくる。


「はい! 私は全然元気です!!」


 コクコクと首を縦に動かす花。


「そう。元気なら、明日は町に行っておいで」

「え?」

「ここで暮らすために必要な物を買っておいで」

「そんな、お部屋にある物だけで充分です」

「最低限の日用品しかないだろう? 貴女が欲しい物を選んでおいで。費用はこちらで出すから」

(費用!?)


 花は慌てた。衣食住を与えられているのに、これ以上の物を貰うのは申し訳ない。そう伝えたかったが、二郎が先に口を開いた。


「そうだ。〝亜麻屋あまや〟という本屋に寄るといいよ」

「本屋……ですか?」

「そこには人間の町で使う教科書を売っているから」

「!」

「13丁目にいる間も勉強をした方が良い。この町には学校が無いから、子供たちは自習をする。解けない問題があれば大人が教えている。ここで勉強をしたという実績と証明があれば、中等部卒業の単位を取得できる。きっとはる殿どのもそれを望んでいる」

「っ!」


 その名前に、花の胸はチクリとした。


「……分かりました」


 二郎の言う通りだろう。花を学校に行かせるために、兄は1日中働いていたのだから。


「町は爺やが案内してくれるよ。たぬきはもう襲ってこないから安心していい」

「はい」

「それと貴女の家庭教師には、にしきが自ら名乗り出てくれたから」

「はい」

「じゃあ明日に備えて、ゆっくりと休むといい」


 二郎が立ち上がった。


(え、もう帰っちゃうの?)


 くるりと背を向けられ、羽織が揺れる。強い西日を受ける後ろ姿を見た途端、花は漠然とした寂しさに襲われた。


(……そうか。私、この時間帯に1人で過ごしたことがなかったんだ)


 夕方になると、隣には必ず兄がいた。笑ったり、喧嘩をしながら、一緒に晩ごはんを作っていた。


(帰ってほしくないな……)


 そばを離れてほしくない。兄がいない今、自分が1番頼れる人は二郎なのだと花は痛感した。

 本音を言えば、町を案内してもらうのも、勉強を教えてもらうのも、相手は二郎がよかった。梟も錦もとても優しいのに、それでも彼が良いのだ。


 空のどこかでカラスたちが鳴いた。ノスタルジックな残響に、ますます心臓が締め付けられる。だけど花は自分を諌めた。


(ダメよ、しっかりしなくちゃ。二郎さまに迷惑をかけるわけにはいかないもの!)

「きもの」


 懸命に自身へ言い聞かせていると、ふと静かな声が入り込んできた。見れば、曲がり角のところで二郎が足を止めていた。


「貴女が着ているその赤い着物……」

「え?」

「よく似合っている。かわいい」


 花は固まった。


(え?)



 かわいい。


 かわいい……?


……かわいい!!??



 理解するのに時間がかかったのは、聞き慣れていない言葉だったからだ。


(えーーっ!? だ、だってお兄ちゃんは私のことブスとかチビとか生意気だって、いつも言ってたのに!?)


 さっきよりも顔が熱くなって、鼓動は速くなる。


 二郎がいなくなった後も、花は縁側から動けなかった。彼の静かな声が紡いだ〝かわいい〟が、脳内で何度も再生される。たった4文字に、花は思考を支配された。


(お兄ちゃんくらいの歳の男の人に、初めて〝かわいい〟って言われた……)


 再び烏が大きく鳴いたが、もう花の耳には届いていなかった。

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