庭園にて

 錦が花に着付けをしていた頃。



〝ひぃっーー!?〟


 花の部屋から遠く離れた庭園では、使用人たちが悲鳴をあげていた。


 ついさっきまで、彼らは普段通り樹木や庭石などの手入れをしていた。すると庭に面した部屋の障子が急に勢いよく開いたのだ。そこから現れたのは、近衛家当主である一郎だった。彼は何故か二郎の腕を掴んでいた。

 使用人たちは目を疑った。一郎が靴下のまま縁側から飛び出し、あろうことか庭の池に二郎を突き落としたのだ。目の前で起きた暴挙に、彼らは叫ばずにはいられなかった。



「あの娘を連れ戻したそうだな……?」



 一郎の嫌悪に満ちた声が、使用人たちをさらに震え上がらせる。言われた張本人である二郎は、ゆっくりと体を起こした。鯉たちは散り散りに逃げ、透きとおった水を吸った着物は彼の全身に貼り付いている。



「娘が自分から屋敷を出て行ったというのに、わざわざ貴様が駅まで迎えに行ったと聞いた。本当か?」

「……はい」


 池の底に座った状態で二郎は頷く。


「そうか。貴様が何を考え、このようなことをしたのかはもう訊かない。どうせお得意のだんまりを決め込むだけだろうからな。……だが、これだけは問おう」


 一郎は、雫が滴る二郎の前髪を乱暴に掴み上げた。


「貴様は、過去に近衛家が忘れたのか?」

「……忘れておりません」

「では何をされた? 言ってみろ」

「もうやめてください!」


 ここで話に入ったのは三郎だった。部屋から庭の様子を見ていた彼は、急いで兄たちのそばへ駆け寄る。


「二郎兄さんは身体が弱いのです! 冷たい水に触れて、悪い風邪にかかってしまったら……!」

「……大丈夫。お前は下がっていて」


 二郎は弟を止めると、兄を見上げて、


「……遠い昔、我ら近衛一族は、妖を討つ力を散々利用された挙句、用がなくなった途端にこの13丁目へと追いやられました」


 幼いころから教えられてきた内容を答えた。


「その通りだ。あいつらは妖の脅威が去った途端、近衛家をゴミのように捨てた。だから我らは〝一族〟しか受け入れないと決めた。同じ血が流れる者のみを生かし、助け、支え、子孫を残す。外部の者は徹底的に排除する」

「……」

「貴様は数年前、病で死にかけていた梟を拾ってきたな。気に食わぬが認めてやった。アレは妖だからだ。しかし、外から来た人間は絶対に許さぬ」

「……」


 二郎の黒い左目が、一郎の冷徹な眼差しを見返す。


「何故連れ戻した? まさかとは思うが、あの娘に惚れたというわけではないだろうな?」

「……違います」

「だが何らかの情は持っているようだな? たかが迷子に肩入れしているのだから」

「……」

「答えろ。娘への情と、一族への忠誠。どちらが大切だ?」

「……。僕は一族を愛しております」

「ほぉ?」

「しかし、外の人間を嫌いではありません」


 大きな水音が響き渡った。


 一郎が、さっきよりも激しく二郎を水面へ叩きつけたのだ。


「……三郎。警護の者たちを呼べ」


 その言葉に、三郎がサッと青ざめた。


「警備!? それって、まさか!」

「あぁ、そうだ。この愚弟を座敷牢ざしきろうへ移す」

「兄弟を監禁するつもりですか!?」

「これ以上、こいつの勝手を見過ごすわけにはいかない」


 三郎は池の中へ入り、ずぶ濡れの二郎を守るように抱きしめる。


「考え直してください! どうか、どうか……!」

「邪魔だ。退け」

「い、嫌です!」

「三郎」

「イヤだ!」

「……おい、誰かいるか! 二郎を縛り付けろ! そしてあのむすめは直ちに追い出せ!」


 その瞬間のことだった。


「当主さまの望みを叶えます」


 そう言ったのは、二郎だった。

 彼は三郎の腕をやんわりと離して立ち上がり、


「貴方の命令を1つ聞きます。……だから、あのを屋敷に置いてください」


 一郎に向かって深く頭を下げた。


 二郎の予想外の言動と行動に、物々しい雰囲気に包まれていた庭園がスッと静まり返った。


 使用人たちはポカンと呆けていた。彼らにとって、近衛二郎という人間は謎が多い人物だった。滅多に外に出てこないし、声もほとんど聞いたことがない。あんな風に誰かのために懇願し、頭まで下げるなんて。三郎もまた、瞬きを忘れたように二郎を凝視していた。



「……ほぅ? 私の望みか?」



 ここにいる者の中で、最初に冷静さを取り戻したのは一郎だった。


「この場しのぎの嘘ではないだろうな?」

「はい」


 二郎が顔を上げると、一郎の目元はピクリと動いた。


(違う)


 と、直感的に感じた。

 実兄である一郎でさえ、二郎については分からないことばかりだ。しかし今の弟が、普段の弟と何かが違っていることは理解出来た。包帯と包帯の隙間から見える左目。ぼんやりとして、感情が読めなくて、浮世離れさえ感じさせる瞳。しかし今は、そこに意志のような光がある。



二郎こいつにここまでさせるとは、あの娘は一体何者なんだ……?)



 しばらく考えた後、一郎はとある決断をした。


「分かった。そこまで言うのなら、あの娘の件は許そう。ただし、私の望みは必ず叶えてもらうぞ」

「……ありがとうございます」

きつねを殺せ」


 三郎の目が大きく見開いた。


 木々の葉をざわつかせるほど強い風が吹く。


「狐は、我ら一族の長年のてき。……そして7年前、父さまの罪と寿命を食って殺したかたき



 歴代の近衛家で最も強いと謳われる貴様の力で、狐を討て。



 一郎が言い終わると同時に、風はピタリと止んだ。

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