近衛屋敷(後)
手紙 (母親からの手紙の中略部分を一部抜粋)
13丁目では〝会ってはならない妖〟が2体います。
1体目は〝狸〟です。
身体が黒い毛におおわれ、背は天井よりも高く、お相撲さんのように大きな妖です。
この狸には大好物があります。
それは、人間の肉です。彼は特に子供の肉を好むので、大人たちはあの町へ子供が行くことを恐れるのです。
そして2体目は〝狐〟です。
身体が白い毛におおわれ、体は狸よりも小さく、まるで犬のようです。
この狐にも大好物があります。
それは、
「花さん、お腹は空いていませんか?」
梟の質問に、花は〝大丈夫です〟と答える。
「そうですか。何かあればワタクシになんなりとお申し付けください。貴女は、我が主の客人ですので」
「客人なんて。私はそんなたいした者ではありません」
「いいえ。貴女はお客様ですよ」
「お、恐れ多いです……。私なんかが貴族である近衛家の客なんて……」
「いいえ。ワタクシにとって貴女は、〝近衛家のお客様〟ではなく〝二郎さまのお客様〟なのです」
「え?」
「ワタクシが主人と認めるのは、この世で二郎さまだけですので」
言いながら、梟は花から離れた。
そのまま部屋の端へ飛んでいき、静かに障子を開ける。
「っ!!」
障子の向こうは縁側だった。
外は真っ暗で、どんな風景があるかは全く見えない。その闇を背景に、顔に包帯を巻いた男が立っていた。
(この人が近衛二郎さん)
心臓が一気に高鳴る。
(あ、会えた……!)
目的の人物が目の前にいる!
彼は無言で部屋に入り、花から2メートルほどの距離を置いて正座した。教養を感じさせる美しい動作だった。
花も急いで姿勢を直して、
「さっきは危ないところを助けてくれて、ありがとうございました!」
両手と額を畳にくっつけた。
「……顔、上げて」
静かな声が降ってきた。
花は言う通りにした。
「……身体の調子は?」
「っ、はい! もう大丈夫です!! どこも痛くないですし」
「そうか」
花は改めて彼を見た。
身長は兄と同じくらいだろうか。高くも低くもない。線が細く、着物から見える首筋や手首は色白だ。
(何だか静かな人)
声も態度も荒々しかった兄とは、違うタイプの男性だ。
花は小さく深呼吸した。
「……あの、近衛さま」
「なに?」
「〝晴〟という名前の男の人を、知っていますか?」
「……
「はい。私は、晴の妹の〝花〟です」
「…………
肯定も否定もせず、二郎はただ繰り返した。
「兄からの手紙があるんです! えっと、あれ? 私のリュックは……?」
「ワタクシが預かっております」
二郎の後ろで控えていた梟が、水色のリュックを花の前に置いた。
花は荷物の中から兄の置き手紙を取り出して、二郎に近づいて渡した。
「これを読んでくれませんか?」
二郎は受け取るとすぐに目を通してくれた。そこにはもう花を育てられないという旨と、二郎の名前と住所が書かれてある。彼の左目が文字を追う様を、花はドキドキしながら見ていた。
「……知っている」
永遠のように感じた数秒後のこと、
「僕は、晴殿を知っている」
二郎がそう答えた。花の目が大きく見開く。
「ほ、本当ですか!?」
「あぁ」
「兄とはどういう知り合いなんですか!?」
兄のことなら何でも知っている自信があった。花が知らない〝兄の情報〟は、この人物が初めてだった。
「もしかして兄は、貴方の友達……ですか?」
「違う。僕と晴殿は友達ではない」
「え?」
「僕には友達がいないから」
「そんな、二郎さま。サラッと切ない言葉を……」
梟が悲しげに呟くが、動揺する花には聞こなかった。
「では兄と二郎さまの関係は一体……!?」
「彼とは一度だけ、会ったことはある」
「一度だけ……?」
「過去に一度、僕は所用で10丁目に行った。その時に晴殿と偶然会って、話した」
「……そ、それだけですか……?」
「あぁ。それだけだ」
「…………あ、兄は1ヶ月前に家を出たんです。私が寝ている間にいなくなって、今どこにいるのかも分からなくて……」
「……僕も晴殿の居場所は知らない」
「…………」
どういうことだろう。
そんなの、ただの他人だ。
この人と兄は知り合いでも何でもなかった。
突然、世界が歪んだように感じた。
(う……)
頭がクラクラして、胸が気持ち悪くなる。
「大丈夫? 顔色が悪いようだけど」
二郎に言われるが、答えることが出来ない。
「二郎さま、もしや花さんは狸の妖気に当てられたのでは? 時間差で体調を崩すのは、人間にはよくあることですし」
「爺やの言う通りかもしれないな。今夜はゆっくり休むと良い。妖気による体調不良は一晩で治るから」
(あ)
「じゃあ、また明日」
(まって)
二郎が立ち上がって、
「おやすみ」
と、言い残して部屋から出て行った。
(お兄ちゃん……)
どうして私を13丁目に行かせたの?
どうして私をあの人に会わせたの?
全く理解出来なかった。
花は布団に倒れ込んだ。頭と胸の不快な感覚は治らない。軽い目眩がする視界で、二郎が置いていった手紙をしばらく見つめていた。
翌日。
花は布団の中で、雀の鳴き声を聞いていた。
(13丁目にも雀はいるのね……)
明け方に少しだけ眠れた。昨晩の不調は治ったが、心は晴れていない。
「これから、どうしよう……」
これを何回呟いたことだろう。未だに答えは出ない。
「花さん。起きていますか?」
障子の外から控えめな声がした。昨日会った錦だ。
「は、はい! 起きています」
「入ってもよろしいですか?」
「大丈夫です!」
障子が開いた。
「おはようございます」
錦が頭を傾けると、桜色の頭にある兎の垂れ耳が揺れた。
「朝食をどうぞ」
花の枕元にお盆が置かれる。キレイな水が入った透明の瓶に、碧い硝子のコップ。木の皿には、拳くらいの大きさの桜色の物が2つ。
「これは13丁目のみで採れる果実です。見るのは初めてですか?」
「はい」
「とても美味しいですよ。味と食感はすりおろしたリンゴに似ていて、とても柔らかく、胃腸に優しいのです。この町では身体が疲れている時は、これを食べるのですよ」
「すみません、気を遣ってもらって……」
「これを用意したのは二郎さんですわ」
「っ!」
ポカンとする花に、錦は微笑んだ。
「屋敷の近くに果実が採れる森があるのですが、朝からそこへ行っていたようです」
「そうなんですか……?」
「私は昨日から本当に驚いてばかりです。あの二郎さんが2日続けて部屋から出てくるなんて」
「……二郎さまは、外が嫌いなんですか?」
狸もそんなことを言っていた。二郎を〝引きこもりの次男坊〟と呼んでいた。
「えぇ。昔からあまり身体が丈夫ではないですし、賑やかな場所よりも静かな環境を好むお方なので。彼を部屋から出せるのは、三郎さんくらいですわ」
「さぶろう、さん?」
「二郎さんの弟です。そして兄の一郎さまを含めて、3人兄弟なのですよ」
(だから狸は〝次男坊〟と呼んでいたのね)
「その三郎さんでさえ、外に連れ出すことに毎回苦労するのに……。花さんのことになると、二郎さんは自ら部屋を出てるんですもの。それはもう屋敷中が大騒ぎですわ」
「どうして私のために……?」
錦が首をゆっくりと振って、
「……あの方の心の内側は、誰にも分かりませんわ」
立ち上がった。
「では、私はこれで。何かあれば遠慮なく仰ってくださいな」
錦が去り、再び1人になった花は、瓶からコップに水を注いだ。
(本当に、何を考えているのか分からない人……)
急に貧民街から押しかけてきた人間に、彼は何故ここまでしてくれるんだろう?
狸から助けてくれて、屋敷に泊まらせてくれて。
赤の他人なのに。
「二郎、さま……」
『二郎、さま……が、どうしたのじゃ?』
はぁ、と花は小さく息を吐いた。
「私は本当にどうすれば……」
『おいコラ。無視か?』
「え?」
両手で持っていたコップから視線を上げる。
次の瞬間、
「きゃあっ!!」
花は短く叫んだ。
目と鼻の先に、さっきまでいなかった存在がいたのだ。
「い、犬!?」
それは大型犬のような生き物だった。だけど言った直後に、犬にしては違和感があることに気づく。
その存在は、雪のように白い毛と細くて赤い瞳を持っていた。しかも体をぷかぷか浮遊させて、
『犬ではない。我は
先日、町で会った妖たちと同じように口を閉じたまま話しているのだ。子供みたいに無邪気な声だった。
『冷たいのう』
花は驚いた拍子にコップを離してしまい、残っていた水が白い毛と布団を濡らしていた。
「ごめんなさい!」
謝りながら、思い出した。
(あれ? 狐って……)
瞬間、花の顔から血の気が引いた。
〝狐〟。
確か、母からの手紙に書いていた〝会ってはならない妖〟の一体だ。
ということは、あの狸と同じく危険な生き物でーー。
「いやっ!」
花が後退る。
狐は不満げに頬を膨らませた。
『失礼な反応じゃな。安心しろ。我はお前を食ったりせん。人間の血肉は嫌いじゃ』
「で、でもあなたは……!」
『ん? もしやお前は〝狐の好物〟を知っているのか?』
「っ!」
『今、肩が大袈裟に揺れたな? ではどうやら知っておるようじゃな。……お前も〝アレ〟を持っておるのだな?』
ギクリとした花に、狐がクスクス笑う。
『ふふ。お前が〝アレ〟を持っている人間だとしても、我はお前を食わぬ。何故なら、我が心惹かれる人間は次男坊だけなのだから」
「二郎さま……?」
「うん。我はいずれ、あいつを喰う。いろんな意味でな』
「……」
『むむ。また無視か?』
「……」
『ほほう。さてはお前、二郎に会いたいのか?』
「っ!」
花の心を読んだかのように狐は言う。
『そうじゃのう。あやつなら十中八九、自室に籠もっているであろうが……』
それと、ほぼ同時だった。
「当主さまが直に屋敷へ戻られます!」
外から若い女性の声がした。
「まぁ、視察は今日の夕刻までと伺っていましたのに」
「予定を変更されたようです」
「とにかく迎えの準備を!」
複数の足音がバタバタと聞こえ、障子の右から左へ影たちが流れていく。
『……ほぉ?』
急に慌ただしくなった空気に花が呆然としたが、狐の方は楽しげに呟いた。
『娘よ。喜べ』
「??」
『二郎がどこにいるのか分かったぞ』
「説明してもらおうか」
上座に立つ男が言った。
「あの娘は何だ?」
背は高く、声は低い。年齢は20代半ばごろで、服は洋装。黒縁のメガネの奥の眼光は鋭く、下座を冷徹に見据えている。
「私の質問に答えろ、二郎」
「迷子です!」
答えたのは二郎ではなく、彼の隣に座る三郎だった。
「あの娘は13丁目に迷い込み、狸に襲われていたそうです。二郎兄さんは偶然に見つけて、助けたんです!」
冷たい視線が三郎へ投げかけられる。
「三郎、お前には訊いていない。あと私がここへ呼んだのは二郎だけだ。何故、お前までいる?」
「っ! それは……」
「お前は今年でもう18だろう。いつまでそうやって、兄の後ろにくっついているつもりなんだ?」
「迷子です」
今度は三郎ではなく、二郎が答えた。
「まだ子供ですし、狸の妖気を浴びている可能性があったので、保護しました」
「そうか。ならばもう体調は良くなっているはず。今日中に帰すのだろうな?」
「……」
「近衛家は、外の人間とは関わらない。昔からそう決まっている」
「……」
「……ほう。お得意のだんまりか?」
広い座敷に数秒の沈黙が流れた後、
「っ! 二郎兄さん!」
三郎の叫び声が沈黙を破った。
上座にいた男が瞬時に距離を詰め、下座で座る二郎の首を掴んでいた。
「当主さま……いえ一郎兄さん、やめて下さい!」
三郎が懇願するように言ったが、男はーー当主の一郎は続けた。
「もう一度、問う」
「……」
「あの娘は今日中に帰すか?」
「……」
二郎には痛がる様子はなかった。大人の手が細い首に喰い込み、顎を無理やり持ち上げる様は、見ているだけで息苦しいというのに。
〝バサッ〟
風が吹くような音がした。
音の正体を辿って、三郎はますます焦った。二郎の背後で控えていた梟が両の羽を広げている。羽根が何枚も落ちてきて、刃物のようにグサグサと畳を刺していく。
威嚇だ。
梟は、主人への暴挙に怒っている。
「梟さん、どうか収めてください!」
「三郎、無駄だ。そいつは我々の命令は聞かない」
一郎は口元を吊り上げた。
「人が留守にしている間に余計なことをして……。死に損ないの梟の次は、どこの誰か分からない小娘か? ろくでもないものばかり拾って、何のつもりだ? そんなに私を困らせて貴様は楽しいのか?」
「……」
「二郎よ。その目障りな梟に命じろ。〝羽を閉じろ〟と」
「……」
「それとも、梟を使って私を討つか?」
「……爺や」
ようやく二郎が口を開いた。
『はい、二郎さま』
「羽を……」
『羽を?』
「羽を、閉じるな」
「「っ!」」
一郎と三郎が目を見張った。
「二郎兄さん!?」
「貴様……!」
弟の顔は真っ青になり、兄は怒りでカッと赤くなる。
しかし二郎は、兄弟にかまわず動いた。
一郎の手を引き離し、畳に刺さる羽根を1本手に取る。
それを、真横へ向けて素早く放った。羽根は障子を破り、外へ飛び出す。
『痛いっ!』
直後、子供のような声がした。
次は梟が動く。
羽を大きくはためかせて強い風を生み、障子を数枚吹き飛ばす。
一郎と三郎の目は驚愕でさらに大きくなる。
障子の向こうは近衛家の中庭だ。そこにいたのは、
『うう、痛いのう』
狐だった。
白い額には、二郎が投げた羽根が刺さっている。
『うぬぅ。限りなく気配を消したというのに……』
「狐だと……!?」
「いつからそこにいたんだ!?」
『この長男と三男はともかく、やはり二郎が相手では隠しきれぬか』
水に濡れた犬のように狐が体を震わせると、羽根が地面に落ちた。
『屋敷に忍び込み、盗み聞きするとは趣味が悪い』
梟が羽を開いたまま言うと、
『違うぞ。我は人助けをしたのじゃ』
狐はムッとして答えた。
『二郎に会いたがっている子供がいたので、手を貸してやったのじゃ』
狐の隣の空間が歪む。
『病み上がりで動くのが辛かろうと思って、空間を繋いでやった。……しかし、お前たちの話が立て込んでいたから、出るに出られなかったのじゃ』
喋っている間にも空気にスッと1本の縦筋が入り、左右に開いた。
『そうじゃな? 娘よ』
開かれた歪みの中に見えたのは、布団の上に座る花だった。裂かれた空間は、花がいる部屋に繋がっていた。
『ほれ。あそこに二郎がおるぞ。話したいことがあるのなら、話せば良い』
「……」
『どうした?』
「……」
『お前は1日に何回、我を無視する気じゃ。そろそろ傷つくぞ?』
「……です」
『ん?』
「……もう、大丈夫です」
花の消え入りそうな声は、3兄弟には聞こえなかった。
『そうなのか? さっきまで会いたがっていたくせに、よく分からん娘じゃな』
花の心変わりを狐は特に追求せずに、
『では二郎が本気で攻撃してこないうちに、我は退散するかのう』
土を蹴って空へ消えた。すると空間は元に戻り、花の姿も見えなくなる。
「……二郎さま。花さんは今の話を全て聞いてしまったのでは?」
梟が囁くと、二郎は立ち上がろうとした。
「何処へ行く?」
しかしすぐに一郎に止められる。
「まだ話は終わっていない。座れ」
「……」
二郎は中庭の方を1度だけ見つめたが、無言で座った。彼は終始静かだったので、中庭からいなくなった花を見た時に何を思ったのか、誰にも分からなかった。
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