近衛屋敷(前)
お兄ちゃんと最後に話した日。
その日は、お兄ちゃんの誕生日だった。
「……ん」
頭がほんやりする。花が目を開けて最初に見えたのは、茶色の天井だった。
(……何だか良い匂いがする。草みたいな……)
それは畳のい草の香りだったが、花には分からなかった。
「お目覚めになりましたか」
「っ!?」
声がした。高齢の男性の声だ。ほぼ同時に焦げ茶色の
「良かったですね。お加減はいかがですか?」
「っ!!??」
そうかと思えばつぎは優しい声と共に、左側から女性が顔を覗き込んでくる。
花は飛び起きた。
見回すと、畳、
「……え? え?」
混乱する花に、
「ここは近衛家の屋敷でございます」
梟は丁寧に言う。
「初めまして、花さん。ワタクシは二郎様に仕える妖の梟でございます」
「っ! 〝二郎さま〟って、近衛二郎さんのこと……!?」
「そうでございます。先ほど、見事に狸の首を落としたお方です」
「あの包帯の男の人が……?」
「貴女は、二郎さんをご存知なのですか?」
女性が訊いてきた。
長い髪を緩いおさげに結った人……、いや、妖だった。薄い桜色の頭にはウサギのような垂れ耳がある。年は恐らく20歳前後。彼女は〝あ!〟と小さく呟いて頭を下げた。
「申し訳ありません。自己紹介が先ですよね。私は近衛の一族の者で〝
「……わ、私は〝花〟です。よろしく、お願いします」
花も同じように頭を下げる。
緊張気味に名乗ってから、花は尋ねた。
「私のお兄ちゃん……、いえ、兄が知り合いだと思うんです」
花は部屋を見回す。
「……近衛二郎さんは、どこに……?」
「二郎さんは自室ですわ。その、滅多にお部屋から出ない方なので……」
錦という女性は困ったように笑う。
「花さんは二郎さんに用事があるのですか?」
「は、はい」
「では呼んできますわね」
スッと立ち上がる錦に、花は慌てる。
「いえ、そんな、私の方から行きます!」
「花さんは疲れているでしょうから、休んでいてくださいな。二郎さんはきっとお部屋から出てきてくれる……はずですから」
彼女が障子を開けると、真っ暗な外が見えた。眠っている間に夜になったらしい。障子がストンと閉まると、部屋に残った梟と自然に目が合った。
「気分はいかがですか? 狸は恐ろしかったでしょう」
首を傾げる梟。
「……はい」
言われて、恐怖が蘇る。
あの巨体に見下ろされた時、もうダメだと思った。
「花さん。ご安心を。この屋敷と町には妖がたくさんおりますが、決して危害を加えません。狸のような輩が例外なのです」
「あの時、二郎さんは私を助けてくれたんですか……?」
「はい。近衛家の人間は、妖を討つ力を持っておりますゆえ」
「妖を討つ……? って、あれ? 13丁目にも〝人間〟がいるんですか?」
「はい。近衛家はずっと昔に、13丁目へ移住した人間の一族。元々は1丁目で暮らしておりました」
「い、1丁目!? あの、すごくお金持ちの人たちの町!?」
「近衛家の階級は貴族なのです」
花は言葉を失った。
貴族なんて、一生縁のない人種だと思っていた。ということは、ここは貴族様のお屋敷で……。
(うわああっ、どうしよう! 私の服ってボロボロなのに! 布団汚してるかも!?)
心配したが、花は白い着物に着替えさせてもらってた。すごく滑らかな肌触りだ。
(てゆうか、お兄ちゃんは本当に近衛二郎さんを知っているの……!?)
相手は貴族。もし人違いとか勘違いだったら大変だ。
「ささ、どうぞ」
梟の声が思考を止める。彼は両の羽で器用にお盆を持ち、硝子のコップを差し出している。
「喉が渇いたでしょう」
表面がゆらゆらと揺れる、透き通った水。無意識に手が伸びた。
「……ありがとうございます」
口に含んで、喉がかなり渇いていたことを知る 水は冷たくて、身体に優しく染み込んでいった。
窓が無く、床に等間隔で行灯が置かれている薄暗い廊下。
「兄さん!」
そこに声が響いていた。
「兄さん! ここを開けてください!」
叫んでいるのは十代後半の少年だ。
浅葱色の着物に群青色の袴、詰め襟の白シャツという、書生のような格好をしている。彼は木製の戸を叩き、金属製のドアノブを回す。 何度も、何度も。
「……くっ」
返答は無い。
少年は手を止めた。少し考えて、口を開く。
「兄さん。騒がしくして申し訳ありません。あぁ、そうだ。晩ご飯がまだですよね? 久しぶりに一緒に食べませんか? 黒蜜たっぷりの甘味がありますよ」
無反応だった。
物音すら聞こえない。
「今宵は新月ですが、提灯に明かりを灯して中庭で月見というのも良いなぁ。美味しいお酒がありますよ。兄さんと飲みたいな」
無反応。
「……温かい夜ですし、笛を吹けば蝶も鳥もやって来ますよ!」
無反応。
「…………ね、音色に惹かれて、庭に咲く花の精たちは歌い、風の霊たちは踊るでしょう。それはもう絵巻のように神秘的な光景でしょうね」
無。
「これはもう地上の者にとどまらないかもしれません! 月からは兎が下りてきて、星からは宇宙人が遊びに来るかもしれませんよ!?」
しーーーーーーーーん。
少年はガッカリと肩を落とした。思いつく限りの
(うぅ、一体どうやったら兄さんはここを開けてくれるんだ……)
思わずため息を吐きそうになると、
〝ガチャ〟
ドアが、開いた。
外開きの戸が10センチほど動いて、その隙間から部屋の主がこちらを見ている。
「兄さん!」
少年の顔がパッと明るくなった。
「出てきてくれたのですね! ありがとうございます、僕はとても嬉し」
「……ん」
「え?」
「宇宙人は、本当に来るのか……?」
(えーーっ!! 1番テキトーに言った部分に食いついてきたーーっ!?)
部屋の主はくるりと背を向ける。
「に、兄さん?」
「虫取り
「って、捕獲する気ですか!? 虫取り網で宇宙人を!?」
「押入れの奥だろうか……? 後で爺やに訊いてみよう」
「いや、その、いくら兄さんが近衛家で最も強い力を持っているとしても、さすがに相手が宇宙人となれば話は違ってくるかと……」
「大丈夫。捕れたら、お前にも少し分けてあげるから……」
「ナニを!? というより宇宙人は来ません! 嘘をついてすみません! まさか兄さんの琴線に触れるとは思わなかったんです!」
「……そうか。残念だ」
(これは、がっかりしている……のか?)
この兄の感情は分からない。淡々と喋る上に、顔面を覆う包帯があるからだ。
少年はコホンと咳払いをした。
「……ところで、
「どうしたの?
2人は真っ直ぐに見合う。
「あの娘は誰なのですか?」
少年、三郎は本題に入る。
「使用人が言っていました。二郎兄さんが急に家着のまま屋敷を飛び出して行った、と。そして帰ってきたかと思えば、気を失った人間の娘を連れていたと」
「……」
部屋の主、二郎はわずかな間を置いて、
「迷子」
と、短く答えた。
三郎はキョトンとする。
「迷子? ならば駅へ帰せばよいではありませんか。どうして近衛の屋敷へ連れてきたのですか?」
「彼女はとても疲れていたから」
「だからって」
「休ませた方が良いと思ったから」
「では娘を助けた理由は何ですか? 外に出ない兄さんが、わざわざ狸の縄張りまで乗り込んだ理由は!?」
「……」
「兄さん!」
戸を全開まで開けて、三郎は兄の肩を掴んで詰め寄った。
「僕は心配なのです! この件を当主様が知ればどうなるか!」
「三郎」
「二郎兄さんが、当主さまにどれほど責められ、どんな罰を受けることか……!」
「……二郎さん?」
割って入ってきた声に、三郎はハッとなる。
見れば、いつの間にか錦がいた。廊下の曲がり角で立っている。
「大きな声を出して、どうされたのですか?」
「……いえ、何でも……」
三郎は気まずそうに顔を逸らし、錦はオロオロしているが、
「錦、どうした?」
二郎だけはこれまでと変わらない様子で問う。
「あぁ、そうだ! 花さんがお目覚めになりました。二郎さんに会いたがっていて……」
「……分かった」
二郎は濃紺の着物に同色の羽織を重ね、裸足のまま歩き始めた。
「……まぁ」
遠くなる背中を見ながら、錦が心底驚いたという顔をする。
「これはビックリですわね。二郎さんが自ら行くなんて……。てっきり連れ出すのに時間がかかると思っていましたのに」
「……本当にそうだよ」
本当に何なのだ、あの娘は。
まさか宇宙人なんじゃないだろうな?
馬鹿げた考えが浮かんで、三郎は今度こそ大きなため息を吐いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます