13丁目へ
『まもなく終点です。終点に到着致します。降りの方は忘れ物など無いようーーーー』
車掌のアナウンスが中途半端なところで止まった。
瞬間、少女はドキリとした。
視線を感じて顔を上げると、やはり車掌と目が合った。40代と思われる彼は、まるで幽霊でも見たかのような顔で見返してきている。
少女はとっさに車窓の向こうに広がる田園へ目線を逃した。出来れば話しかけられたくなかったが、車掌の足音は近づいてきた。
「……あの、お嬢さん?」
頭上に降ってくる声。さっきの事務的なアナウンスとは違い、その声には戸惑うような響きがあった。
(まぁ、そりゃ驚くよね)
と、少女は思った。
車内には、彼女以外の乗客はいない。
汽車が
「どうしたんだい? もしかして途中の駅を乗り過ごしたのかい?」
心配そうに問われて、少女はもごもごと口を開いた。
「あ、その、えっと……」
「お母さんやお父さんは誰もいないようだけど、君は1人なのかい?」
こくりと頷くと、車掌はさらに驚いた顔をした。
「そうなのか……。うーん。君の名前は?」
「は、〝
「花さんの年齢は?」
「14才です」
「どこから来たの?」
「……月城町」
この国の首都にある巨大都市の名だ。
1丁目から13丁目までの区域に分けられていて、全体の面積は首都の3分の2を占めている。
ーーだが、
(中身は全然違うわ)
地図上では1つの町でありながら、月城町はまったくバラバラの町だった。
1丁目から2丁目の住民は富裕層。
3丁目から9丁目までは中間層。
そして、
「月城町の何丁目から来たの?」
「…………10丁目です」
10丁目から12丁目は貧民層だ。
こんな有名な比喩がある。
ーー〝月城町には3つの異国がある〟
月城町では区域によって住人の生活レベルに格差がある。町並み、家の造り、公共の設備、教育水準、税金、就職率、失業率。同じ町の存在しながら、1丁目から12町までは先進国と発展途上国ほどの違いがあるのだ。
花の顔が少し熱くなった。自分の出身を答えるのが恥ずかしくてたまらなかった 。10丁目は、11丁目と12丁目に比べて特に貧しくて治安が悪く、外部に嫌われるからだ。
「花さんは、まさか家出してきたのかい?」
貧民街では家出をする子供は確かに多い。でも花は違うので、慌てて首を横に振った。
「じゃあ、やっぱり途中で乗り過ごしたのかな?」
もう一度、横に振る。
「でもこの次は終点だよ? 君は、そこが一体どんな場所なのか分かっているのかい?」
今度は縦に振った。
うーん、と車掌が困ったように唸る。
「ふむ。これは参ったなぁ。どうしたものかな……?」
「あの」
「ん?」
「私は、大丈夫ですから」
「いや、大丈夫って……」
「そこには私の……いえ、私の家族の知り合いがいるんです。これから、その人に会いに行くんです」
車掌はポカンとした。
「〝人〟だって?? 人に会いに行くと言っても、あそこはーー」
車掌が言い終わるより先に、辺りがふっと静かになった。
汽車が停まったのだ。花は、膝の上に置いていた水色のリュックを抱えた。
「ここで降ります!」
「あ、ちょっと!」
車掌の止める声を無視して立ち上がる。無人の車内はすんなりとドアまで辿り着けた。本来なら車掌が開閉する手動ドアを、花は自分で開ける。
外へ出ると、簡素な駅が目に飛び込んできた。
「待ちなさい! 危ないぞ! その駅はーー」
一瞬、青色のベンチが見えた気がするが、今は周りを観察する余裕はない。背後から車掌が追ってきているのを感じて、花は走り出した。
(ごめんなさい、ごめんなさい)
心の中で謝りながら、周囲の景色に目もくれず、とにかく走った。あの人は心配してくれている。
だけど、ここへ来た事情を訊かれたくなかった。
言いたくない。
だって言ったところでどうにもならない。この状況は変わらない。自分には、もうこうするしかない。
「はぁ、はぁ……!」
何分か全力疾走して、花はようやく立ち止まった。その場でうずくまる。心臓は破れそうなほどバクバク鳴っていた。
(つ、疲れた……!ここまで来れば大丈夫だよね?)
まさかもう追ってきていないだろうと、後ろへ振り返った。
すると、
「え?」
花は固まった。
彼女が見たものは、青色のベンチだった。
気のせいだろうか。あのベンチを、さっきも見たような気がした。
周りを見渡してみる。花がたどり着いたのは、ずいぶんと簡素な駅だった。
色が禿げた青色のベンチ。古くなった屋根。狭いホーム。線路は有るが、汽車はもう無い。線路の向こう側には淡い黄色の花畑が地平線まで広がっていた。
「えっと……、とりあえず駅から出て、町へ行かないと」
とりあえず抱きかかえていたリュックを背負う。ピンクの上着のポケットからゴムを取り出して、腰まで伸びた金の髪を1つに結び、走って乱れていた茶色のキュロットを直すと、
「よし!」
花は気合を入れて歩き始めた。
意気揚々と出発して約30分。
花は再び地面にうずくまっていた。
「一体どうなってるの……?」
一面の黄色い花畑を見ながら、泣きそうな声を出す。
これで何回目だろう。
どんなに駅から出ようとしても、青色のベンチが置かれたホームへ戻ってきてしまうのだ。
右へ行っても、左へ行ってもダメだった。駅周辺は塗装されていない土の道で、それはどこまでも直進だ。真っ直ぐに進んでいるはずなのに、必ずここへ帰ってくる。
こんなこと、ありえない現象だ。
「……まさかこれが〝13丁目〟なの……?」
ベンチの横に立てられた、錆だらけの看板を見上げた。
〝月城町13丁目〟
消えかかった文字でそう書かれている。
不思議な町。
絶対に近づいてはいけないと、昔から母に言われ続けていた町の名前。
(お母さんの言いつけを破ったから、バチが当たったのかな……?)
駅には誰もいないし、何故か時刻表も無い。風の音だけが聞こえている。
花は焦ってきた。
(どうしよう。私には帰る場所は無いのに)
キュッと両膝を抱える。
花は1ヶ月前、家族に捨てられた。
7つ歳上の兄で、唯一の肉親だった。
ある朝、起きるとベッドの横に封筒が置かれていた。中には短い別れの手紙、13丁目へ行くための切符、そして
〝お前を育てることに疲れた〟
手紙を読んだ時はとても信じられなかった。
兄がいなくなる前日、花は兄とケンカした。だけど今までもたくさん言い合いはあったし、ちゃんと仲直りもしてきた。だから今回もすぐに帰ってきてくれると思っていたのだ。
7日経っても兄が戻る気配はまったく無かった。
嫌でも現実を受け入れるしかなくなった。隣人の家で世話になっていたが、10丁目ではいつまでも他人の世話をする余裕なんて誰にもないのだ。
だから思い切ってーー半ばヤケになって、この町へやって来た。兄が残した名前の人物に会うために。
「会うどころか駅から出ることも出来ないよ、お母さん……」
母の顔が思い浮かぶ。
5年前に病死した母は、明るい人だった。暮らしが貧しくても常に笑っていた。花も兄も、母のことが大好きだった。
「お母さん、私はどうすればいいの?」
鼻の奥がジンとして、目が潤む。
涙がこぼれ落ちる直前のことだった。
「……?」
花畑で、何かがふわりと舞った。
色は黄色だった。最初は花びらが風で飛んだのかと思ったが、よくよく見るとそれは蝶だった。
羽をヒラヒラ動かしなが線路を越え、こちらへ飛んでくる。そしてまるで余所者を観察するように、蝶は花の周りを漂った。
ーー〝ねぇ、おにいちゃん〟
不意に、昔のことを思い出した。
〝おにいちゃん! 花もペット欲しいよ。わんちゃんか、ねこちゃん飼いたい〟
小さい頃にそうねだると、兄は大きなため息を吐いた。
〝ばーか。無理に決まってんだろ。あいつらのエサ代がどれだけかかるか知らねぇのか?〟
〝えー!〟
〝鳴き声うるせーし、それに病気持ってるかもしれねぇし〟
〝やだー! 欲しいー!〟
〝ったく……。じゃあ蝶でもいいか?〟
〝え?〟
〝蝶は静かだしな。兄ちゃんが採ってきてやるよ〟
兄は笑った。
〝それにお前は『花』だから、蝶が似合うぜ?〟
笑いながら、花の頭をポンポンしてくれた。
ーーハッとした。
蝶が、花から離れていこうとしている。
「待って」
花は無意識に立ち上がった。蝶はゆっくりとホームの右方向へ飛んでいく。
「ねぇ、待って」
自分でも理由は分からないが、花は夢中で蝶を追った。
(おねがい)
行かないで
私を置いていかないでーーーー!
花が願った瞬間、蝶はふわりと溶けるようにいなくなった。そして、さらに次の瞬間ーー。
「……うそ」
花の視界に信じられない光景が飛び込んできた。
それは町だった。
駅は跡形もなく消え、どれだけ歩いてもたどり着けなかった町が目の前にある。
花は見入った。町は市場のように、道の両端に店が建ち並んでいる。どれも古い木造で、看板には読めない文字が書かれていた。店員も客も着物姿で、2本の足で立っている。しかし、人間は1人もいなかった。
頭に獣の耳が生えている者。
頰にピョンと跳ねた髭がある者。
尻に長い尾が付いている者。
店の屋根に届くほど背が高い者。
彼らの髪は赤や青、緑に紫と、毛髪としてはありえない色ばかり。黄褐色の地面には5メートルほどの蛇が這っているが、誰も気にしていない。
花はごくりと唾を飲んだ。
小さな手が微かに震えていた。
(ここが、13丁目ーー)
こんな有名な言葉がある。
〝月城町には3つの異国がある〟
これには続きがあった。
〝月城町には3つの異国がある。ーーそして、1つの異世界がある〟
月城町13丁目は、不思議の町。
同じ空の下にありながら、他の町とは何もかもが違う。
生活水準を比べることすら不可能なほど、異質の世界。
だから誰も近寄らない。
未知の町を恐れ、忌み嫌う。
そんな不思議な町で、花の生活は始まったのだった。
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