色無地

増田朋美

色無地

色無地

暖かくて、のんびりした、そんな言葉がふさわしい日だった。もうすぐ、雨ばかり降って、じめじめとした梅雨の季節に入るから、嫌だなあと言っている女性たちも多かった。梅雨の季節が到来すると、本格的な夏がやってくる。夏は暑いから嫌だという人が多いが、中にはものすごい解放的で嬉しいという人も多いはずである。

そんな中で、製鉄所では、相変わらず、水穂さんにご飯を食べさせようと、ブッチャーと杉ちゃんが奮戦力投しているところだったのであるが。玄関先から、

「こんにちはあ。浜島です。」

と女性の声がした。

「はれえ、だれだろう。」

と、杉ちゃんが言うと、

「あたしよ。浜島です。お箏教室の帰りに寄ってみたの。右城君いる?」

やってきたのは、浜島咲であった。何も指示はないのに、彼女は、どんどん四畳半に入って来てしまった。そこで杉ちゃんの隣にご飯のお皿があったのをみて、

「はああ、又、ご飯を食べようとしているんですね。きっとまた、ご飯を食べないで、何とかしてくれと言っているんでしょう。それじゃあだめよ。ちゃんと、右城君は右城君なりに、みんなの思いに応えてあげないとね。」

と、にこやかに笑って言った。

「ほんとだよ。いつまでも、ご飯を食べないでせき込んでばっかりいては困るわな。はまじさんが言ってくれて本当によかった。じゃあ、今度こそしっかり食べものは口に入れてくれよ。」

と、杉ちゃんが言って、水穂さんにかぼちゃの煮物を食べさせようとする。この時ばかりは、水穂さんも食べなければならないと思ってくれたようで、杉ちゃんから差し出されたかぼちゃの煮物を口にしてくれた。

「よし、食べてくれ。もう一口だ。」

と、杉ちゃんが言うと、水穂さんはもう一度かぼちゃを口にしてくれた。

「じゃあもう一口食べような。頑張って完食してくれよな。」

できるだけ明るく、杉ちゃんはかぼちゃを食べさせようとしたが、今度は、反対のほうを向かれてしまった。

「右城君、食べさせて貰っているんだから、ちゃんとそれに応えてあげてよ。杉ちゃんが一生懸命作ってくれたのよ。」

咲はそういったのであるが、水穂さんはどうしても、ご飯を食べようとしなくなってしまうのだ。幾ら、食べろ食べろと言っても、彼は食べようとしなかった。

「あーあ、二口たべたらすぐこれだ。どういうことなんだろうな。どうして何も食べてくれなくなっちゃうのかな。」

「まあだめねえ。こんなおいしそうなかぼちゃの煮物作って貰ったのに、食べる気がしないとはどういうことでしょうか。おいしいそうなものは見ただけで食べたくなるのに、なんで何も食べる気がしないのかな?」

杉ちゃんがそういうと、咲も嫌そうな顔をしていった。

「はまじさんの言う通りだ。一生懸命食べて貰おうと工夫したのにさ。まあ、それでも食べ物を口にしないのは、まぎれもない事実なので、これから又食べて貰うように、何とかしなければならないな。」

直ぐに答えが出てしまうのも、杉ちゃんのすごいところだった。

「まあ、庵主様の教えで、分別するなという言葉がある。それは、もう仏法としてちゃんとあるんだから、もうくよくよしない。それで事実を曲げちゃいけないよね。よし、これからは、また食べるように工夫をしよう。」

その考えの出典は、どうも庵主様が観音講で教えてくれた事らしいのであるが、いずれにしても杉ちゃんの頭の切り替えが早いということは、咲もブッチャーもすごいなと思ってしまうのであった。同時に

、水穂さんが又せき込み始めるので、杉ちゃんは超スピードで水穂さんに薬を飲ませなければならない。これが成功するのはまれである。大体はせき込んで生臭い、赤い液体を吐いてしまう。そして、畳を汚すか、布団を汚すかの事態になる。今回はブッチャーが近くにいて、水穂さんの体を支えてくれていたから、薬を飲ませることには成功したが、これで失敗したら、畳の張替え代がたまったものではない。畳の張替えは手作業なので、結構な出費になるのであった。

「よしよし、今回は、止まったぞ。畳の張替えは、大変な出費だからねえ。」

ブッチャーはやれやれという顔で、水穂さんを再度布団の上に寝かせてあげて、掛け布団をかけてやりながら、そういうことを言った。今回は、幸い薬がすぐ効いて、せき込むのは静かになった。中身を吐く事もなかった。

「其れよりはまじさん、一体今日はどうしたの?」

と、杉ちゃんが聞くと、

「ええ。あたしね、お箏教室の仲間とうまくいってないのよ。」

咲は、小さな声で言った。

「うまくいっていない?どういうことですかね?」

と、ブッチャーは聞き返すと、

「ええ。着物の事でね。お箏教室にきていく着物の事なんだけど、あたしどうしたらいいのかな。主宰の苑子さんは、理想的なのは色無地だって言うんだけど、逆にほかのお弟子さんたちに言わせると、色無地は、気取っているとか、年寄の着るものを真似して生意気だとか、そういうことを言うのよ。それで、あたしが色無地はやめて、別の小紋を着て行ったらさあ。今度は苑子さんから、ちゃんと着物を着てくれないと困りますって言われちゃうし。」

と咲は、苦々しく言った。

「まあそうだねえ。確かに、はまじさんの立場は、お箏教室のメンバーでもないし、ただの手伝い人としか見られていないんじゃないの。苑子さんは、お前さんのことを、大事なメンバーだと思っているから、色無地を着てこいって言っているんだと思うけど、ほかのお弟子さんにはお箏ではなくフルートで参加しているから、メンバーに見えないんでしょうね。まあ、そういうことですな。」

と、杉ちゃんが直ぐに即答した。ということはやっぱり、自分は、お箏教室のひとりとして認めてもらってないのかなと咲は思った。

「でも、浜島さんがいなかったら、尺八パートを吹いてくれる人がいなくなるわけだし、お弟子さんは本物の箏曲を堪能できません。浜島さんも、自分はちゃんとやっているんだって思って、色無地を着ていった方が、それは良いと思いますよ。」

と、ブッチャーがそういうことを言った。色無地とは、柄を入れないで黒または白以外の一色で染めた着物の事であるが、地味な着物のわりに、格は高くて、礼装としても使うことができる着物である。和のお稽古事、つまり、箏曲や茶道などを習っているのであれば、色無地の着用が義務付けられる事もある。最も最近は着物の形をしていれば、なんでも良いとしてくれる教室が増えているが、依然として、色無地にほこりを持ち、着用し続けている社中もある。

「でも私、困ってるのよ。周りのお弟子さんから、年寄と同じ恰好をするなと言われ、苑子さんからは、ちゃんと色無地を着用した方が良いと言われて。あーあ、あたしは、どっちがいいのか、分からないのよね。」

「まあそうだけど、今着ているのは、小紋の着物でもないし、色無地でもないよな。なんで総絞りの着物を着ているんだ?総絞りと言っても、有松絞みたいなカジュアルウェアではなくて、京鹿の子絞りと呼ばれる、一寸格の高い着物だな。絞りというのはね、もとはと言えば、芸人みたいな女性の間で流行したこともあり、また紋を入れられないことから、あまり格の高い着物では無いと言われるけど、このくらい、細かい柄が入っているんだったら、ちゃんと小紋のひとつとして、着れると思うがな?」

咲が着ている着物を見て、杉ちゃんが言った。今回彼女は、総絞りで、鉄線を描いた、赤い着物を着ている。

「鉄線の柄というと、大器晩成だ。鉄の女と言えるかな。ははは。」

「杉ちゃん、そんな変な冗談はよしてちょうだい。これを着るのにさんざん迷ったのよ。小紋でも色無地でも叱られるから、絞りならいいかなと思ってね。それで今日着てみたら、苑子さんには格の低い着物を着るなと言われ、ほかのメンバーさんからは、絞りなんて高価すぎると言われて、顰蹙をかったのよ。全く、着物って、難しいわねえ。何を着たら理想的と言われるのかな。」

と、咲は大きなため息をついた。

「まあ確かにそうですね。いずれにしても、着物を着ているというだけで、今は一寸、注目の的になってしまう時代ですしね。それで、何か言いたくなってしまう人もいると思いますよ。」

水穂さんが小さな声で言った。

「じゃあ何よ、どうすれば、理想的と言われれるように成れるかしら?」

咲が聞くと、

「多分なれないと思います。どんな恰好をしても、着物を着ていれば何か言われると思います。色無地でも小紋でも、振袖でも。必ず何か、言いたくなる人はいるでしょうから。」

と、水穂さんは答えた。

「俺もそう思います。着物警察って言うんですか。それは本当によく遭遇しますもの。若い人が伝統文化に興味を持つと、必ず何か言いたくなると思いますよ。だって、若い人と言いますと、自分の事しか考えない悪い奴というイメージがまかり通ってますからね。」

ブッチャーが、腕組みをしてそういうことを言った。

「俺も、着物を通販サイトで売る側として、そういうお年寄りの対策を、しっかりサイトに表記させたいと思っていますよ。幾ら、綺麗な着物を着ても、若い奴なのに、しっかりしていると言うところを見せなければ、若い奴にまつわる、偏見は払しょくできません。」

「ほんとだ、ほんとだ。若い奴は、できないやつというか、ダメな奴と思っているのが年寄だ。理由は知らないけど、高度経済成長とか、そういうもんを経験してくる奴は、今の若い奴がだらけているように見えちゃうんだろうね。」

杉ちゃんもブッチャーの話しに付け加えた。

「まあ、そういうこととして、とにかくね、絞りは紋を入れることができない。これはわかるね。礼装というのは紋を入れて着るもので、それができない絞りは、カジュアルになって、お稽古には着用できないよ。それはちゃんと、調べておこうな。日本の文化ってのは、教えてもらえるようで教えてくれないからな。なんでも自分で調べればいいってわけでもないが、自分で間違っているのを知らないでいると、大変な目に会うんだ。着物を今風にアレンジしちゃう奴もいると思うけどさ。完璧に良いと思われることじゃないと、許容されないんだ。困った奴らだねえ。」

「杉ちゃんありがとう。右城君も。おかげで私は一寸、勇気出たわ。これで、お弟子さんに何か言われても、あたしはあたしなりにやっていると思って、着物をかうことにします!」

と、咲は、一寸苦笑いしていった。

とりあえず、今日は、咲も結論を出して、とりあえず、家に帰った。其れから数日後の事である。咲は、今度は小さな花柄を隙間なく敷き詰めた小紋の着物を着て、お稽古場に出た。その時のお稽古は、お箏教室の主宰者である苑子さんと、三人のお弟子さんと一緒に行われていた。咲はあくまでも尺八パートを、フルートで吹くだけの手伝い人だった。今回の曲は箏曲としては、非常に有名な春の海である。みんな知っている曲だから、お弟子さんたちは、直ぐに覚えてしまっていた。

「今日は、皆さん、小紋を着てくれてとても嬉しいんだけど。」

と、苑子さんは、またお弟子さんたちに言う。

「できれば、羽二重を着てきてくれると、嬉しいんだけどな。無理にとは言わないけど。できればここは、お箏教室なんだし、ただのお遊びとか、コンサートとかそういう娯楽とはわけが違うのよ。それをちゃんと考えて、着物を着て貰いたい。」

それを言うと、お弟子さんたちは嫌そうな顔をする。もし、これが大手のお箏教室だったら、変な指導者がいると言ってやめてしまう人もいるだろう。でも、お弟子さんたちがやめないのは、山田流を習えるお箏教室がほかにないのと、流行りの沢井箏曲院のロックのリズムのような音楽性が嫌で、ここへきているのだ。

「たかがお箏教室と思わないで。お箏教室でも、しっかりしきたりにはしたがって貰わないと。それに、今はやりの沢井箏曲院の人たちが着る着物とは違うんだって、はっきりしめしたいの。そのためには、正当な羽二重を着てくる事が必要なの。それは、やっぱり、お箏を習うためには、意識してもらわないとね。」

苑子さんの顔は優しいが、口調は厳しいものであった。

「先生、どうしてあたしたちは、色無地の羽二重を着てこなきゃならないんですかね。私、インターネットの通販でさんざん探しましたけど、何もありませんでしたよ。」

「そうですよ。それになんで柄のない着物が理想的で、かわいい着物は格が低いんですか?かわいいものを着て、楽しくお稽古した方が、こっちもいいと思ったんですけど。」

二人のお弟子さんは相次いでそういうことを言い始めた。

「そうね。楽器と着物が喧嘩しないように、色無地を着るのが、通例になっているのよ。それは、古き良き時代から、そういわれていることだから、したがって貰わないとね。」

と苑子さんは、理由を答えるが、

「それでは分かりません。なんで、色無地っていうんですか、こんな地味なのを着てこなきゃならないんですか。着物を着ていくんだから、おしゃれに好きなようにしてもいいんじゃないんですか?」

と、お弟子さんのひとりが言った。

「そうですよ。もう昭和の時代は終わりました。そんなド昭和的なこと言っているの、先生だけですよ。」

もう一人のお弟子さんが言った。それは咲もそう思うのだった。もう着物を着るということは、特別なことになりつつある。だから、着物を着ていっただけで、ほめられる時代でもある。日常的にどうのこうのということは、多分ない。たまに日常的に着ている人もいるが、そんな人は少数民族に

なっている。

「苑子さん、もうルールを変えましょうよ。着物は色無地じゃなくたっていいじゃありませんか。着物を着ていくと言うだけでも、お年寄りから声をかけられる事もあるんですよ。」

と、咲が、みんなを代表して、そういうことを言った。

「着物だって、簡単に買えるものではないじゃないですか。確かにリサイクルとかでは簡単に買えるかもしれないけど、リサイクルは、サイズが合わないとか、そういう事もあるし、それに、苑子さんが理想だという着物は、なかなかみつからないでしょう。」

「そうですよ。浜島さんの言う通りです。だって、あたしだって言われたんですよ。着物屋さんに。まだ色無地は、着るのが早いから、買わないほうがいいって。お箏教室だと言ったら、変な教室だと言われちゃうし。」

と、ひとりのお弟子さんが言った。確かに彼女の言う通りだった。着物を買うとなると、一大事になってしまうことがある。クーリングオフとかそういうものが一緒になる場合もある。リサイクルの着物屋は、比較的着物のルールにうるさくないと言われているが、其れでも寸法が合わないとか、難癖をつけられることが多い。お箏教室に行きたいから着たいと言っても、色無地を着て、お箏教室に行くというケースは、もう時代が変わったからと言って、片付けられてしまい、目的の着物を買えなかったという事も多い。

「そういうことであっても、お箏教室はお箏教室です。その通りの着物を着てもらって、ちゃんと着物を着てもらわないと、お箏教室の伝統が崩れます。」

と、苑子さんは言っているが、

「苑子さんは、ただ、伝統を守りたいという気持ちに固辞しすぎているような気がします。」

と咲は言った。

「もう、着物なんて、作ることだってできない時代ですし。新しいものを求めても、もう新しく作ることもできませんよ。そういうことじゃないんですか。其れなら、今あるもので丁度いいじゃありませんか。この間の、浜島さんが着ていた絞りの着物だって、そうですよ。先生は、格が低いって言って怒りましたけど、それは、間違い何じゃないですか。あたしはそう思っています。いろいろ着物のことを調べれば調べるほど、着物は確かに素晴らしいんですけど、作り手の人たちは皆お年寄りで、作れる人がどんどん減っているそうじゃないですか。先生は、そこをお忘れなんじゃありませんか?」

と、今まで黙っていた三番目の女性が、小さいけれど鋭い調子でそう答えた。

「私も、確かに、浜島さんの着物を見て、驚きましたが、後で調べてみたら、絞りというのは大変古い技法で、高度な技術が必要だと分かりました。そんなものを先生は、格が低いと言って、お叱りになるのは一寸、ひどいんじゃありませんかね?」

「でも、絞りというものは、売春とか、そういう物に従事している女性が着たりしていたものです。お稽古ごとに使うものではありません。」

苑子さんはちゃんと理由を言った。

「そうかもしれませんが、そんなことは遠い昔です。江戸時代のことを今さら、この時代に持ち出すのもおかしいと思うんですけど。」

と、咲は苑子さんに言った。

「いいえ。この方針は変更しませんよ。浜島さん、それを言うなら、私たちがやっている古典箏曲は、江戸時代につくられた物。それを、今の時代だからって、変更してはいけません。江戸時代から変わることない音楽を、変わらない服装で演奏すること。これは、大事な事じゃないかしら。」

そう頑固に言う苑子さんに、咲は何処かかわいそうなというか、苑子さんが悲しそうな表情をしているように見えた。何だか、どうしようもないものとひとりで戦っているような、そんな表情に見える。

その日の夕方、咲は、もう一度、製鉄所を訪れた。四畳半に行ってみると、水穂さんが、布団で寝ているのが見えた。よく見ると、水穂さんの着ているものは、銘仙と呼ばれる着物である。江戸時代には目専と呼ばれて、大変貧しい人の着物でもあった。

「そうねえ。右城君は、それを着ないと、いけなかったのよねえ。確かに、うちのお箏教室では、銘仙なんか着ている人は絶対にいないわ。」

咲は、水穂さんの着物を見て、思わずつぶやいた。

「やっぱり着物ってのは変えちゃいけないのかな。」

ひとつため息をついた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

色無地 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る