第6話
白い肌は柔らかく、驚くほどやすやすと、刃を受け入れる。
自分の肉体に埋め込まれたものを見下ろすル・スラは、大きな目を更に大きく見開いて、瞬きを忘れたかのようだった。きっと、今、自分の身に何が起こったのか、理解できないのだろう。
そんな彼女を黙って見つめる事に耐えられなかった俺は、顔を反らし、喉が切れるほどの大声で、言葉にならない言葉を叫びながら、短剣を引き抜いた。
傷口から静かに伝っていた血液が、突然、噴き出す。
温かな赤い雨が降り注いだ。主に、俺の上に。そして俺や、俺の周りを、あっと言う間に血の色に染めていった。
生々しい血の匂いが、俺を包み込む。
ル・スラの細い体を支える力が失われた。ゆらり、と一度大きく揺れると、彼女は柔らかな草の上に、仰向けに沈んでいった。
地面の上に、ル・スラの体から流れ出る血が広がっていく。おびただしいほどの赤が、草や土を飲み込んでいく。
苦痛を浮かべた蒼い瞳が、真っ直ぐに空を見上げた。けれどその目は空ろで、もう何も映していなかった。
「ル……」
名を呼ぼうとして開いた唇から、血の味がした。とてもではないが名前を呼ぶ気が失せて、俺は呆然と、ル・スラを見下ろした。
赤く染まった草の上に放り出された細い指が、終わりを嘆いてあがくかのように、わずかに動いている。土を抉り、草を掴むだけの力もないというのに、精一杯。その折れそうなか弱さは、何よりも強い生命力を伝えてくるような気がした。
だというのに、蒼い髪の中で小さく揺らぐ薄紅と薄黄色は、まるで手向けの花のようにそらぞらしい。
「ル・スラ!」
リ・マーが叫ぶ。あれだけ警戒していた俺に見向きもせず、ル・スラに一目散に駆け寄った。
ル・スラはリ・マーにとって、なんなのだろう。仲間なのか、友人なのか、妹のようなものなのか。なんであろうと、大切な存在である事は間違いないのだろう。草に溶けそうな翠の瞳から零れ落ちる、清らかな涙を眺めながら、俺はぼんやりとそんな事を考えた。
涙が止まらないのは俺も同じだった。リ・マーが流すものとは違い、薄汚れたものだが――感情の根源が今にも消えようとしているのが嘘のように、俺の中で悲しみは膨れあがり、両目からあふれ出るのだ。
ふと思う。こんなふうに泣くのは、今日が最後になるのだろうか、と。
もう悲しい想いはしたくないと思って、俺はここに来た。この世界から、悲しい事をなくしたいと思ったからだ。そして、俺は間もなく、目的を成し遂げるだろう。ル・スラの命が耐える瞬間に。
もう、悲しみのあまり苦しんで泣く事は、なくなるのだ――
「はっ……」
俺の唇から、笑い声が漏れた。
「はは」
笑うしかなかった。顔に張り付くぎこちない笑顔が歪んでいく事を自覚しながらも、精一杯。
笑わなければならない。これは、喜ばしい事なのだ。だから、喜ばなければならない。
そうやって俺は、自分の非情な行いを、正しいのだと思い込もうとした。正当化してしまえば、自分の心を支えられる気がしたのだ。
「馬鹿だな」
俺の乾いた笑い声を引き裂くように、冷たい声が響く。
それは、俺をここまで導いた少年の声だった。
俺はゆっくりと振り返り、声の主の姿を探す。
すぐそばに立っていた。静かな、痛いほどに冷徹な眼差しを、ル・スラへ落としていた。
「君は本当に馬鹿だ。ル・スラが消えても、悲しいと思う心が消えるだけで、君が今まで悲しいと思っていた事柄が、なくなるわけじゃないのに」
イ・イルは、唇にうっすらとした笑みを貼り付けながら、俺を見下ろした。
壮絶との言葉が似合うほど鋭く、そして美しい、微笑み。
俺は硬直した。それから少しして、震えはじめた。手は力を失い、血まみれの短剣は草の上にすべり落ちた。
じゃあ、俺は。
「俺は、なんのために、ル・スラを」
「知らないよ、そんな事。君が勝手にやったんじゃないか」
軽蔑にも似た冷たさを秘めた声で言い捨てたイ・イルは、ル・スラを指し示す。
「ほら、ごらん」
導かれるままに、俺はル・スラを見下ろした。
もはや指先すら動かなくなった蒼い髪の少女の姿が、弱々しく掠れはじめている。きっと、すべてが消える時が、ル・スラの終わりなのだろう。
跡形もなく消えてしまうのだろうか。
それはあまりに寂しくなかろうか――そうしてしまったのは、俺だけれど。
「ル・スラ……」
「彼女が消えて、象徴する感情が消えた時、別の感情が君の心を占めるだろう。きっと、狂うほどに強く。そうなったら、君と僕は、もう言葉を交わせないかもしれないね。これまでの君とル・スラみたいに」
俺は手を伸ばす。できないと判っていて、それでも、消えゆくル・スラを引き止めようとした。絶対に、引き止めたかった。
消える瞬間、俺の手が、ル・スラの指先に触れる。
ル・スラが、笑ってくれた気がした。気のせいかもしれないけれど。
「悲しむという逃げ道を失った君にできる事なんてもう、ひとつしか残されていないんだから」
それが、俺が耳にした、イ・イルの最後の言葉だった。
sorrow 桂木直 @s_katuragi
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