第4話

「えっ飛び込むの⁉ ここから⁉」


 裏返った声でわたわたと両手を振って、有り得ないと主張する佐藤さん。

 現在はもう沙希と呼んでいる。


「死ぬ!」


「いや、死なんから」


 何とかなだめて説得して、やっと覚悟を決めたようだ。

 腹をくくってからの佐藤沙希の男勝りに潔い一面を、ここ数年で健一は知っていた。


 レギュレーター(呼吸器)とマスクを装着する。


「よし!」と沙希が気合いを入れて、二人で海に飛び込んだ。


 ザボンッと跳ね上がった水飛沫の下へ下へと潜っていく。


 沙希はおっかなびっくりだったが、ようやく慣れてくると健一よりはしゃいで泳ぎ回っていた。


 ライセンス不要のダイビング初体験コースという形で参加しているので、インストラクターのベテランダイバーが付きっきりで教えてくれる。

 沙希の弾けっぷりはその安心感もあったのだろう。


 健一には三時間弱のコースでは多少物足りないかと思っていたが、沙希が楽しんでくれたのでかなり充実感を感じていた。


 日が傾く前に引き上げることとなった。


 ダイビングスーツを服に着替えてから、海の家のベンチ(おそらく縁側と呼んだ方が正しい)に並んで腰掛けた。


「楽しかったね~。疲れたね~」


 まだまだ興奮が冷めない様子で沙希が伸びをする


「びっくりしたやろ、潜った時の海は。外から景色としてみるのと違う感じやし」


 健一が自慢げに肘を沙希の腕にあてると、「うーん」と唸ってから沙希は首を横に振った。


「すっごく感動した。けど、びっくりはせんかった」


「何で?」


「いつも見てる色やったからやろうねぇ……」


 夕焼けの寂しさと夜の心許なさを混ぜ合わせた波がザザン……と音を立てて揺らめく。


 沙希は眩しそうに目を細めて、風になびくまだ少し濡れている髪を耳にかけた。

 中学の頃は肩につかないショートカットだったが、今は肩甲骨に触れる長さになっている。


「あの青が健一の色やもんね。実際に見れて嬉しかった」


 言った後に照れくさくなったのか沙希がはにかんだ。


 ベンチの上に無防備に置かれた沙希の手を健一が反射的に握りたくなり手を伸ばすと、


「あ!」と沙希が何か思いついたようだ。


「な、何?」


「今、健一の顔が直接見たいっちゃけど。ちょっと無感情になってみて」


「何で? ……どゆこと?」


 健一が怪訝に思うと、「涅槃像みたいに」と注文が追加された。


 一生懸命にこぶしを握り期待一杯に瞳を輝かせる沙希。

 ……かわいい。

 いやまぁそれは置いといて、とりあえず、


「…………こう?」


「全然ダメ。無表情にはなっちょっけど、無感情は出来ちょらん」


 ダメ出しをされた。たぶん沙希がかわいいのが悪い。


 沙希は「うーん、どうやったらいいっちゃろぉ」と唇を尖らせ、何やら悩み出したが、


「さーき! 写真撮ろう。せっかく夕陽きれいやっちゃし」


「そうか、その手があった!」


 ……何が?


 沙希は若干受け答えがおかしいことがある。


 肩を寄せ合い写真に二人で映る。


 藍色にまばらに散らばったオレンジの光。


 海の潮の匂い。波の満ち引きの音。

 沙希の髪のシャンプーの香り。

 健一のTシャツがはためく温度。息遣い。


 底へ潜るほど包み込んでくる海のような幸福感。


 全てが写真に閉じ込めきらずに溢れてくるもの。


 付き合い始めてから今でも察しの良すぎる沙希を健一が傷つけてしまうことはしょっちゅうだ。


 反対にちょっとしたことに敏感な沙希に健一がイライラしてしまう瞬間もある。

 沙希が自分以外の誰かに気を遣っていると気づくとやはり嫉妬する。


 それでも沙希の笑顔の種類が健一だけに向けられる、屈託なく弾けた笑い方に切り替われば、つい浮かれてしまう。


 気が付くと夕陽は沈み、星が点々と煌めく夜が滲み広がっていた。


「ねえ星、きれいやね。暗いから海自体が生き物みたい……」


「うん。すげえ」


「今日、ここに連れてきてくれてありがとね、健一」


「うん……。沙希もありがと。来たいって言ってくれて」


 この先、二人の関係がどうなっていくか分からない。いつか別れる時が来るのかも想像がつかない。


 ただこの海の青だけはそれぞれの一部に構成され、心の片隅に色褪せることなく残り続けることは確信していた。





<完>


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青色 @kazura1441

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