第一話「一年、四月、悲劇」


   0


 好きな人にふられたら人はどうするのだろうか。俺にはそういった経験がないのでわからない。いや、ふられた経験が無いとか、そんな嫌味ったらしい意味では当然ないけれど。

 もしあなたがふられ、しかしその相手と部屋で二人きりになってしまったら、あなたには何か行動を起こす勇気があるだろうか。否、この事件に於いては狂気というべきか。


   1


 二〇一八年四月七日。昨日俺たちは入学式を終え、晴れて高校生になった。そして今日は土曜日だから俺の部屋でゲームをしようと玲が言った。

「たっはー。カヅは強いねー」

 玲が伸びをしながら言った。

 田中玲。二〇〇二年生まれ。一五歳で嶺明高校の一年生。黒髪の女子生徒でその髪は肩より少し上で短く切り揃えられている。ボブカットというやつだ。身長は一六〇センチほどでクラスの女子の中ではやや細身なほうである。

「強いのはレースゲームくらいだけどな」

「そんなことないよー。テトリスとかも強いじゃん?」

「頭使う方が楽なだけだよ」

 反射神経のるアクションゲームは苦手だ。好きなんだけどな。

「玲、そろそろ飯食いに行かないか。もう一時だ」

「いや、ボクはまだやってるよ。お腹空いてないしさ」

 そうか、と言って俺は鍵をかけずに部屋を出た。

 寮の建物を出るとすぐ向かいに食堂がある。寮生は全学年合わせて七、八〇人ほどで、ぱっと見てその三分の二はいた。見慣れた顔もあったが、挨拶を軽く交わすだけで適当に空いた席を探し、一人で昼食をった。最近は魚をあまり食べていなかったので、さば味噌煮みそしるという弱冠じゃっかん一五歳にしては若干じゃっかん渋めのメニューを選んだ。食べ終えたので食堂を出ようとすると、クラスメート数人に声をかけられた。皆中学時代も同じクラスだったから、特に積もる話はない。今年もよろしくね、とかそんな他愛たあいもない話だった。

 部屋へ戻ると玲が床にトランプを並べていた。どうやらソリティアをやっているらしい。

「んー。何回やっても詰んじゃうや」

 そんなことを言いながら、ただひたすらにソリティアをやっている。しかも何かを食べながら。それには見覚えがある。

「あ、冷蔵庫のおにぎりもらったよー」

 またか。


 そういえばさ、と玲が呟いた。

「カヅは知ってる?音楽の先生の噂」

 知るわけがなかった。昨日入学したばかりでまだ音楽教師に会ったことすらないのだ。

「逆にお前は何で知ってるんだよ」

「元四組の未羅みらちゃんが言ってたんだよ。ほらあの子二つ上にお姉ちゃんがいるじゃん?そのお姉ちゃんが吹部なんだってさ。それでこの学年の三、四、五組だった人には伝わってるみたい」

 須東すどう未羅。元嶺明中三年四組(今のクラスは知らない)。中学時代は生徒会副会長として俺たちと一緒に活動していた。ちなみにこの学校の三、四組はお金持ちクラスで学費が他のクラスよりも高く、彼らのおかげで俺たちが無償で通えているといっても過言ではない。

 それでね、と玲は続けた。

「音楽の先生、夕霧ゆうぎりっていうんだけど、その人が夜な夜な音楽室で何かしてるらしいのよ」

「楽器の点検でもしてたんじゃない?」

「ううん。ボクも最初はそう思ったんだけどね。未羅ちゃんの話じゃそこから女の人の悲鳴が聞こえてくるらしいよ」

「悲鳴、ね…… 」

「ま、あくまで噂だけどね」

 そう言って玲はゲームに戻った。

 俺はこの話はあまり重く受けとめないことにした。


   2


 ガタン。

「あ、今晩は。すみません、ちょっと忘れ物を……困りますよね、本当……。……あはは」

 ジャッ。

「え、なんですか?それ……。え、ちょ、やめ…………あ」

 バッ。ジー、グイ。

「あの……なぜこんな……。いえ!わかりました!……はい。ん……んっ……」


   3


 二〇一八年四月一八日。一年生への部活勧誘かんゆうが始まり、この五組からも何人か活動に励む人がでてきた。ちなみに俺は金がかかるので部活に入る気はない。親がいないとどうしても家計が苦しくなってしまう。今はバイトで手一杯だ。

「カヅ?」

「へ?」

 ぼーっとしていた時に話しかけられたものだから、思わず間抜けな声がでてしまった。

「どうした?しん

 俺に声をかけたのは更刃こうば眞だった。眞は茶色がかってツンツンした髪が特徴的な男子生徒で、中一の時から特に仲が良い。更に恋人と仲が良いことで有名で、学年内では有名なカップルだ。ちなみに彼の髪は天然で尖っているのかワックスで固めているのかはわからない。

「生徒会長が放課後、生徒会室に来いだってさ」

「会長が?」

 なぜ会ったことのない人間に呼びだされたのだろうと思えば、そう言えばうちの高校の生徒会には中等科で生徒会長をやっていた者を特別役員として組みこむ制度があったことを思いだした。

「なあ、会長どんな人だった?」

 と、俺は眞に訊いてみた。

「さあ。さっき職員室で氏原うじはらから聞いただけだから」

 氏原勇希ゆうき。この一年五組の担任だ。きっと彼女のことだからのほほんとした口調で「会長のはた君が呼んでたわよぉ~」とでも言ったのだろう。

 まあ結局人伝ひとづての印象ってのはその人の主観が入るからな。実際に会って自分の主観を通して見た方が俺にとっては正確な印象だろう。


   4


 生徒会室は特別教室棟三階の端のほうにある。普通教室棟三階にある一年五組からは渡り廊下を歩いてすぐだ。

 ドアを開けると、一つだけこちらを向いた机が窓に背を向けて部屋の奥側に設置されており、その席に一人の男性が座っていた。彼は両ひじを机について腕を組み、微笑びしょうしているように見える。

「その席に」

 彼が指した俺の目の前にあった席は、彼の机と対面するようになっている。俺が指示どおり座ると、彼が話し始めた。

「君は左から回り込んで座るタイプなんだね」

 いや別に、適当だったんだけど……。

「いやね。そういうタイプは銀行の通帳を机の右側の引き出しの奥に隠す人が多いんだよ」

 なんだよそのでたらめ。と思う反面、俺は内心ドキッとした。確かに俺は鍵のついている右側の引き出しの奥に通帳を隠している。

「ご察しの通り冗談だ。だが通帳の隠し場所は当たったのだろう?」

 ……。

「ふふっ。君の瞳はわかりやいねぇ。まるで君の心を透かしているみたいだ」

 なんなんだよまじで!怖すぎるだろ!

「いやいやいや、すまなかったね。本題に入ろうか。カヅ君?」

 彼が少し笑いながら言った。

 なんで俺の渾名あだなまで知っているんだ。

「そんなことはいいんだよ。どうでも」

「心と会話するの……やめてもらっていいですが」

「君がわかりやすすぎるんだよ。——私は生徒会長の畑玖太郎きゅうたろうだ。よろしくね、佐倉さくら和友かづとも君」

「よろしくお願いします。畑さん」

「早速だが君には明日から特別役員として生徒役員会に入ってもらう。そこにあるプリントに後で目を通しておいてくれ」

 机上には両面印刷のプリントが二枚あった。

「何か質問は?」

「いくつかあります」

「どうぞ」

「他の役員の方はどうしたんですか?」

 この生徒会には他に三名の役員がいるはずだ。

「今日は早めに帰ってもらった。君と二人で話したくてね」

「はあ……」

 さっきから見透かされている気がしてならないけれど。

「じゃあ、次の質問です。高校の生徒会って具体的に何をすればいいんですか?」

「なに、ほとんど中学と変わらないさ。でも一つ中学ではなかった仕事がある。それは——」

 畑さんは少し間を置いてから言った。

「お悩み相談・事件解決といったところかな」

「事件?」

「まあ実際はそんな大それたものじゃないよ。生徒に依頼された些細ないさかいや争いを、和解の方向へ持っていくだけだ。私の予想だと近々大事件が起こりそうだけれど、もしかしたらもう既に起こっているかもしれない。もちろんそれに私達が介入するかは別の話だけどね」

 さっきからこの人は何らかの超能力を持っているのではないかと思わされる。

「勘が鋭いとは言われたことがあるよ」

「……心と会話するのを止めてください」

「君がわかりやすいんだってば」

 やれやれといった感じで畑さんが言った。

「さて、君は入るかい?この生徒会に。一応拒否権もあるんだ。特別役員が設置されて二三年、そのうち七回しか行使されていないけどね」

「割とあるじゃないですか……」

「たった三分の一だ。で、どうするんだ?」

「やりますよ。もちろん」

「ほう」

 畑さんは少し意外そうな顔をした。そんなに意外だろうか。

 俺が生徒会に入ることを決めたのは少し面白そうだからだ。もしかしたら、普通経験し得ないことに巡り会えるかもしれない。そう思ったからだ。

「ふふ。好奇心は大事だよ」

 もう驚くまい。むしろもう慣れてしまった俺に驚くべきなのかもしれなかった。

「じゃあ明日の放課後、皆を紹介しよう。また来てくれ」

「はい。さよなら」

「また明日」

 教室に帰ったらすぐに寝よう。今日はなんだか疲れた。

「ああ、それと——」

 畑さんが振り向いて言った。

「生徒手帳は常に携行けいこうしておくように」

不思議な人だ、と俺は思った。

もう一七時半を過ぎていた。


   5


「カヅも会長に似たとこあるよねー」

「俺が?」

 その日の二〇時、食事を済ませて自室に戻った俺は玲と通話をしていた。寮生は少ないため、男子も女子も同じ寮に住んでいる。といっても、二三時以降の男女間の部屋移動禁止というおきてがある。(監視は甘いようだが)だからこそ部屋が隣同士の俺達もこうして電話をしている訳だが。

「カヅってさ、時々めっちゃ鋭い時あるじゃん」

「そうか?」

「えぇ⁉自覚ないの⁉」

「あるわけねーだろ……」

 人と話していて俺鋭いな、となる人はいるのだろうか。畑さんは自身のことをどう思っているのだろうか。少し気になるけれど。

「じゃあ生徒会入るんだ。また」

「うん」

「がんばってね。もしかしたら夕霧先生のことについて言われるかもよ?」

「ああ、怪しいってやつか?でも怪しいだけだろ?」

「怪しまれてるってことはそれだけ不審な挙動があるってことだよ?」

「まあよくわかんないけど」

 その後も暫く雑談をして、一時頃に通話を切った。


   6


「いや……!やめ……あっ……」

 ガタッ。

「ひっ」

 タッタッタッ。

「はあ……」

「な……んで……。なん……で……」

「もう……やだ……こんなの……」

 ──────────。

 ガララッ。


   7


 翌日の放課後、生徒会室に入ると畑さんの他に二人の女子生徒がいた。女子の制服のリボンは学年によって違う。三年生は黄色、二年生は赤色、そして一年生は水色だ。二人の女子生徒はそれぞれ黄色と赤のリボンをつけている。ちなみにカラーは男子の制服にも入っている。俺の学ランには水色が入っているし、畑さんの学ランには黄色が入っている。

「やあ、遅かったね」

 畑さんが言った。

「早く来たつもりだったんですけどね」

 畑さんは微笑して、

「いや冗談だ。彼女達が早すぎるんだよ」

と言った。

「畑さんも早くないですか?」

「私はホームルームが終わったとほぼ同時に教室をでたからね。まあそんなことはどうでもいいさ。一人足りないがメンバー紹介といこうじゃないか。友花ゆうか

 友花と呼ばれた女子生徒が畑さんに向かって頷いて、俺に会釈えしゃくをした。

「副会長、三年二組の奈津なつ友花です。よろしくね。佐倉君」

 畑さんが不気味すぎたからか、奈津さんが常識人のかがみかと思った。畑さんは心外だとでも言いたげだ。

 奈津さんは天然物であろう茶色のロングヘアーで、身長は一六〇センチくらい。少し胸のあたりの肉付きが良さそうな普通の女子生徒といった印象だ。

「二年一組事務長の木野きの悠生ゆうき。よろしく」

木野と名乗った彼女は少し小柄で細身だ。ストレートな髪を肩の辺りで切り揃えている。少しあごを引いており、鋭い眼光はまるで俺をにらんでいるようにも見えるが畑さんほど怖くはない。

 畑さんは何でそんなに怖がるのさ、という目で俺をじっと見ている。だって心読まれるのって怖いじゃん。

 俺も自己紹介をしようとして口を開いたが、

「すみません。トイレに行っていて遅れました」

と一人の男子生徒によってそれははばまれた。

「ああ、そうだと思ったよ」

と畑さんが言った。

 俺は彼が来たのが唐突だったのでただ呆然ぼうぜんとその光景を見ていたが、彼はすぐ近くにいた俺に気づいた。最初は彼も頭に疑問符を浮かべていたけれど、すぐにはっとして俺に声を掛けた。

「あっ。もしかして君が特役ってやつか?俺は会計長、二の二の木元きもと恭兵衛きょうへえっていうんだ。よろしくな」

 俺はそれで我に返り、皆さんに挨拶をした。

「よろしくお願いします。一年五組の佐倉和友です。これから特役としてがんばります」

「さあ、挨拶はこれくらいにして仕事にとりかかろう。特役の席は私の隣だ。カヅ」

 畑さんが言った。

 座席は一応決まっているらしく、畑さんの右隣には奈津さんが座った。俺と奈津さんの席の前には一つずつ机が垂直になるように置かれていて、それぞれ木野さんと恭兵衛さんが座っている。机は全てアルミ製の大きな物だ。

「会計長は前月の収支を計算する。分野が細かく分かれていてやることが多いから、普段はそれだけで仕事が終わる事務長は委員会での仕事を管理する。すぐに終わることが多いから会計長の仕事を手伝う。私は各クラス日誌から欠席人数などを集計して記録する。あとは他にもあるから基本的には自分の仕事だけで終わる。ここまではわかったかい?」

「よし。じゃあ次の説明だ。特役は副会長の補佐をする。目安箱に入っている投書を争いの仲裁・意見・ゴミの三つに分けてくれ」

「ゴミ?」

「悪戯をする連中が多いんだよ。投書の殆どが落書きだ」

 そんなにあるのか。

「いやまあ量自体は少ないんだ。投書があまりない。だから大抵会計長の仕事を手伝って終わりになる。勿論もちろん、意見が出てくれば五人で議論する。これで説明は終わりだ。質問は?」

「ありません」

「よし。じゃあ投書を選別してくれ」

 はい、と言って一枚目の投書を開いた。俺が開いた一枚目の投書だった。正直、一瞬目を疑った。



    解決してほしい事件があります

    明日の十六時半にお伺いします

            三―五 湯奈河


   8


「——私は一昨日の夜、学校へ行きました」

 二〇一八年四月二十日。湯奈河ゆながわ愛美あみと名乗る三年の女子生徒が生徒会室に来た。そう、彼女こそが件の投書をした人だ。昨日はその後、奈津さんと二人で投書を確認したが、畑さんが言った通り落書きが殆どだったが、奈津さん宛の差出人がわからないラブレターもあった。余談だが、畑さん曰く「友花はモテる」らしい。確かに彼女は整った顔立ちで胸も大きく優しい性格だから、男子からの人気はかなり高そうである。

 奈津さんと俺は投書を選別した後恭兵衛さんの仕事を木野さんと共に手伝い、それが終わると畑さんも交えて五人で湯奈河さんからの投書について軽く話しあった。とは言っても事件内容について詳しく書かれてはいなかったため、話し合うことは特に無かったが。

 そんなわけで彼女がここへ来るといった当日——つまり今日、生徒会室では役員全員が皆彼女の話に耳を傾けているという状況であった。

「私は書道部で、六時半ごろまでずっと活動していました。夜もけてきて寮に帰ろうとしたらその途中、腕時計がないことに気がつきました。父から貰った大切な物なので、学校に取りに戻ろうと思いました。学校に戻るとまだ事務室に人が居たので、許可をもらって学校の中に入りました」

「事務員さんは何をしてたんだ?」

 畑さんが訊いた。何かひっかかるようなことでもあったのだろうか。

 湯奈河さんは少し眉をひそめながら答えた。

「確か何かの作業をしていたような気がします……。すみません。あまり覚えてなくて……」

「いやすまない。事務にそんなに遅くまで人が居たっけなと思って」

「確かいつも八時頃までは作業しているはずよ。玖太郎」

 奈津さんが畑さんの誰にむけたものでもない問いに答えた。

「そうだったか。ごめん。つづけて」

「はい。中に入ったあと、私は書道室に直行したんです。誰も居ない学校は少し怖くて、早く腕時計を取って帰ろうと思っていました。でもその途中——」

 湯奈河さんはその『事件』とやらを思い出したのか、少し言いよどんでから言った。

「女の人の悲鳴、みたいなものが聞こえてきて、何か抵抗しているように聞こえました。何かあったのかなって思って、見ようとしたんですけど、その後すぐに男の人のドスの効いた声が聞こえてきて、私、怖くなってしまって時計も取らずに帰ってしまったんです。  私がちゃんと確認すれば良かったんですけどそんなこと考えてる余裕がなくて、それで今回相談することにしたんです」

 湯奈河さんは次第に険しい表情になっていって、その心情が言葉にも表れているようだった。一昨日のことを思い出して、あたかも追い詰められているかのような表情をしている湯奈河さんの話を黙って聞いていた畑さんが、彼女に語りかけるようにいった。

「わかった。その案件、必ず解決してみせよう。生徒の不安を取り除くことも、生徒会役員の仕事だからな」

「——ありがとうございます」

 彼女の口調は暗いままだったが、心なしか表情は少し明るくなった気がする。

「じゃあ、解決のためにもいくつか質問をしたいとおもっている。大丈夫かい?」

 畑さんが言った。

「……はい」

「じゃあまず、君が学校に戻った時事務室には何人居た?」

「一人……だけでした……」

 畑さんの目の色が変わった。奈津さんもほんの少し体が動いた気がした。やはり事務室に何か引っ掛かる部分があるのだろうか。俺が新入生だから何も感じないのかともおもったが、二年生のお二人も特段思う所は無いようだ。

 畑さんは質問を続ける。

「それじゃあもう一個、さっき道中悲鳴を聞いたと言っていたけれど、どの教室から聞こえてきたか覚えているか?」

「いえ……はっきりとは覚えてません……。でも、位置を考えれば美術準備室か音楽室だとおもいます」

「音楽室?」

 その場にいた全員がこちらを見た。

 思わず声を上げてしまった。

「どうした?カヅ」

 畑さんが言う。

「いや。何でもありません」

 俺がそう言うと、畑さんは怪訝けげんそうな顔をして湯奈河さんの方へ向き直った。

 思わず声が出てしまった。音楽室。悲鳴。男性の声。事件。夕霧。これらの言葉が俺の脳裏に浮かんだ。そして俺は二週間前玲と交わした会話を思い出した。


『音楽の先生、夕霧っていうんだけど、その人が夜な夜な音楽室で何かしてるらしいのよ』


   9


「どうするの?玖太郎。まさか夜の学校に潜入する気じゃないでしょうね?」

 そう言ったのは奈津さんだ。

「まさかって言われても……それ以外に方法がないだろう。明日は土曜だし、できれば今日中に解決してしまいたい」

「それって五人全員でやるんですか?」

 木野さんが訊いた。

「いや、私と恭兵衛とカヅでいこうと思ってる。今回の被害者は女性のようだしな。二人はそれでいいか?」

「俺は構いませんよ」

「俺からは一つ質問が」

「どうした?カヅ」

 俺はさっき感じた疑問を口にした。

「さっき湯奈河さんが事務室には一人しか居なかったって言った時、畑さん何かに気づいたような顔をしてましたよね?奈津さんもです。事務室に人が一人しか居なかったことが、そんなに不自然なことだったんですか?」

 畑さんは少し驚いたような顔をして、

「君も人の心を読むようになったか」

と言った。

「いや、そういうわけじゃありませんけど」

 奈津さんはじっと俺をみながら顔の下半分を隠している。視線が痛い。別に読んだのは表情じゃないんだけどな。

「実は事務員っていうのは常に二人待機しているはずなんだ。うちは曜日ごとに担当者が違う。水曜日は確か——」

前田まえださんと浴皮よくかわさんよ」

奈津さんが言った。

「そうだ。事務については一般生徒はあまり把握していないが、会長と副会長は知っておくべきだからな。だから私と友花は知っていたわけだ」

「じゃあもしかしてそのうちのどっちかが……」

と木野さんが言った。

「ああ、それも少なからず念頭に置く必要がある」

と畑さんが答えた。

 つまり容疑者が夕霧だけじゃなくなったわけか。

「じゃあ私は校長に深夜滞在の許可を貰って来る。そのあいだ四人で今日の仕事をやっておいてくれ。終わり次第友花と悠生は下校、恭兵衛とカヅはここで私が帰ってくるまで待機するように」

 そう言って畑さんは生徒会室を後にした。


   10


 それから俺達は今日の仕事にとりかかった。木野さんの事務長としての仕事は今日は無いらしく、最初から恭兵衛さんの仕事を手伝っていた。俺は一人でまた目安箱の中にある投書を選別していた。じゃあ本来この仕事の正式な担当者であるところの奈津さんは何をしていたのかというと、それは至極当然なことで、本来畑さんに任されているはずの生徒の出欠状況の整理や生徒会活動日誌の一部を記入しているようだった。俺の仕事はすぐに終わった(今日は九つの投書のうち六つは奈津さんへの、三つは畑さんへのラブレターだった。頼むから目安箱には入れないでくれ)ので恭兵衛さんの仕事の手伝いをしたが、ものの四〇分で終わってしまった。木野さんはもう仕事が終わったので帰り、奈津さんもその後二〇分程で仕事を終わらせて帰路きろについた。時刻は一八時頃で、畑さんが交渉に行ってから一時間が経とうとしていた。


「カヅは中学の時、何か部活やってたか?」

 椅子に座って呆けていた俺に、恭兵衛さんが唐突に話し掛けた。俺は素直に答えた。

「いえ、何もやってませんでしたね……。私両親が居ないので、金がかかるのはちょっと……」

「親が居ない、か……。うちの学校、結構多いよな……」

 うちの寮は待遇が良いためか、孤児が割と多い。一年生だけでも五人はいる。それでも兄弟姉妹がいるひとも居るから、所謂いわゆる天涯孤独てんがいこどくの身というのは俺と玲くらいだった。それでも恐らくそこらの学校よりは多いだろう。そもそも学費も払えないしな。

 恭兵衛さんは俺に気を遣ってか話題を変えた。まあ別に親が居ないことに今更劣等感など感じないし、遣われる気が勿体もったい無い気もするけれど、やはり親が居る立場だと親が居ない人に対して気が溢れ出てしまうのだろうか。溢れんばかりの気を遣ってしまうものなのだろうか。まあそんな予想が的外れであることを、この後俺は知ることになるのだけれど。

 ともかく恭兵衛さんは自身の中学時代への話を始めた。

「俺さ、中学のころは柔道部に入ってたんだ」

「──外部入学なんですか?」

 嶺明中に柔道部は無かったはずだ。

「ああ。元々は北広島の方に居たんだ」

 ちなみにうちのクラスには外部入学の生徒はいない。

「まあ帯広に来たのは親の仕事の都合もあったけど、他にもう一つ大きい理由があってさ」

 恭兵衛さんの声のトーンが少し落ちた。

「俺が昔通ってた中学、しかも柔道部である日盗難事件があったんだ。被害者は同じ学年の男子で、もっと言うと俺の一番の友達だった。財布を丸ごと盗まれたんだって。犯人がわからず三日くらい経って、俺が加害者なんじゃないかって言う奴がでてきた。部の中から、誰からともなく。もちろん俺はやってないし、そうだと主張もしたけど……皆は『あいつと一番仲がいいのはお前だし、お前が一番隙を窺えるだろ』って言って誰も信じてくれなかった。財布にあったカードも想い出の品も全部盗まれて精神的に弱っていた被害者の奴から、顔もみたくないって言われた。いい奴だったのに。いや。今もきっといい奴だ。俺以外の誰かにとっては」

 恭兵衛さんの声が震えているのがわかった。

 しかもそれだけじゃなくて、と恭兵衛さんは続けた。

「学校中で俺は犯人扱いされた。先生に呼び出されて、身に覚えの無い悪事で謹慎処分を受けて、犯してもいない罪で親を呼ばれて、やってもない非行を反省する文章を書かされた。帰ってからもお袋に文句を言われた。なんであんたはまともに育ってくれなかったんだ。エリート大学に入ったお兄ちゃんを見てお前は何も思わないのかって」

 恐らく事件の日まで仲良くしていたであろう親友の裏切り。

 恐らくその前日まで愛を注いでくれたであろう母の裏切り。

 彼との友情が、母親の愛情が、剥製はくせいの仮面のように表面的ではかなく散りるものだったと知った時の衝撃。失望。絶望。それを経験したことのない俺は、恭兵衛さんに同情できない。同情できるだけの想像が、つかない。

「ちなみに兄貴はこの事件については何も知らない。東京の大学だったし、司法試験の勉強で忙しかったしな。——俺の周りは敵だらけだった。何もしてないのに誹謗ひぼう中傷ちゅうしょうの嵐だった。でも、親父だけは違った。俺の言い分を聞いてくれて、そして何より信じてくれた。それが嬉しかったんだ」

 たった一人でも、味方についてくれた。

しばらくして犯人は分かったけど、俺と皆との間の溝は深いままだった。被害者のやつとも話さなかったし俺を犯人呼ばわりしてたやつらとも話すことはなかった。皆あれだけ言った手前、声をかけられなかったんだろ。そりゃそうだよな。お袋とだって、滅多に会話をしなくなったんだから」

 何も言わなかった。何も言えなかった。黙って話を聞く俺に、恭兵衛さんは笑顔を向けた。

「俺さ、親父みたいに誰かを信じられる人間になりたいんだ。裏切られても俺はいい。もう慣れた。裏切るよりも、信じたい」

 恭兵衛さんはどこか楽になったような顔をした。彼は、この話を誰かにしたかったのだろうか。自分の過去を。自分の夢を。


   11


 一八時半を少し過ぎたころ、生徒会室の戸が開いた。畑さんが白髪の男性とともに戻ってきた。

「校長に許可を貰った。明日は休日だし、今夜はずっと学校に居よう」

 畑さんが言った。

「遅かったですね」

と恭兵衛さん。

「少し訳があってな……。重要な話だから後で話すよ。とりあえず第九多目的室に行こう」

「あ、あの」

「どうした?」

 俺は素朴な疑問を口にした。

「その方は、誰ですか?」


 俺達は生徒会室から渡り廊下を通って、一年五組教室の隣にある第九多目的室にいた。どうやら倉庫のように使われているらしく、色々な物が雑多に置かれていた。

「生徒役員会顧問の金家かねいえ数郎かずおだ。二年の地理の授業を担当している。よろしく」

「先生は生徒指導もしている。今日は付き添いで残ってくださることになった」

 畑さんが補足した。

「一年五組、特別役員の佐倉和友です。よろしくお願いします」

「ところで、どうしてここに来たんですか?」

 恭兵衛さんが訊いた。

「いや、ちょっと武器が欲しくてね」

「武器?」

 恭兵衛さんが理由を訊きたげな顔をした。

「もしかしたら犯人が何かしてくるかもしれないだろ。皆適当に棒を持ったら行こう」

「その前にいいですか?」

 畑さんは発言した俺を見て、理解したように喋り始めた。

「さっきの恭兵衛の質問に答えよう。さっき湯奈河さんが事務員は一人しか居なかったと言ってただろう?金家先生に聞いたら、昨日の朝はちゃんと二人居たらしい。つまりこれは──」

 昨日の事務員——浴皮さんか前田さんのうちどちらかが犯人だということだ、と彼は結論づけた。

「さて、そろそろ行こうか。もう一九時だ。それに今日の事務担当はあの二人だ。今日も音楽室での犯行が為される可能性は高い」

 俺達は部屋を出た。


 普通教室棟の三階、一年生の教室群の前を歩く。一年一組教室の前を通り過ぎた第八多目的室の前には、左に大きなホールとも言える廊下がある。普通教室棟と特別教室棟を繋ぐ廊下だ。一階ならば右手に玄関が見えるが、三階であるここには手前から図書室、被服実習室、調理実習室がある。俺達はその反対側にあるこの学校唯一の階段を下る。(非常階段は他に四つほどあるが)するとすぐに職員室が現れた。現れたと言っても、勿論本当に出現したという意味ではない。視界に、という意味である。そのまま左折すると二階の特別教室棟に着く。事件現場とされる音楽室はこの大きな廊下の突き当たりにある。畑さんが「犯行が始まるまでは犯人がわからないから、それまでは身を潜めていよう」と言ったので、俺達は隣の美術準備室に入った。

 俺達は耳を澄ませた。

 小さな悲鳴を聞き逃さないように。

 男性の低い声を阻まないように。

 俺達は聞いた。

 ドアが開く音を。女性の悲鳴を。

 聞こえてしまった。

 隣からではなく、上から。

「上か!」

 誰かが叫んだ。

 俺達は走った。階段を駆け上がった。突き当たりにあるドアを開いた。そこには──


  下半身を露出した男性がたっていた。



   12


 化学教室の床には三人の女性が転げられていた。三人とも裸で、目隠しに猿轡さるぐつわ、両手両足は後ろで縛られている。それは、凄惨であると言わざるを得ない状況だった。

「ちっ……」

 男が舌打ちをした。

「浴皮……」

 畑さんが呟くように言った。

 浴皮が左の胸ポケットを二回叩いた。

「家庭科の上清うわずみ先生、三の五蓮川はすかわかれん、二の五久凪くなぎアオイ。」

 畑さんが三人の名前を列挙した。

「この一週間学校に来てなかった人たちだ」

「俺が監禁していたからな」

「なぜだ」

「話す必要がない」

「監禁したのはその三人だけか?」

「俺が監禁したのはその三人だけだ」

 ん?その言い方……なんだ?なぜそういう言い方を?

「それで?お前らは何しに来た?」

「お前を捕まえにきた」

 恭兵衛さんが言った。

「そう簡単に捕まえられるか?」

「三対一だ」

「ほんとかな?」

「どういう意味だ?」

「お前らの敗因は、犯人が一人だと思い込んでいたことだぜ」

 後ろで物音がした。

 振り返ると、金家先生が倒れていた。

 スタンガンを持っているその人を見て、畑さんが言った。

「前田……!」

 前田は鼻で笑った。

 そしてスタンガンを俺に向けた。

「皆殺しだ」

 前田が言った。

 彼が俺にスタンガンを当てようとした瞬間、彼の伸ばしかけられた右腕が折られた。彼の右腕に拳をぶつけたのは、三〇代の男性だった。

「ここだったか……。ずっと音楽室に居たんだけどな」

 彼は俺達に向き直って言った。

「怪我は無かったか?君達。まあ金家先生は気絶してしまったようだけど」

「夕霧先生……」

 恭兵衛さんが言った。

 この人が夕霧か。身長は一八〇センチはある長身で、縁のついた眼鏡から鋭い眼光が覗いている。眼鏡の色は暗くてよくわからない。

「音楽室で俺が何か良からぬことをしてるって噂が広まってるから、音楽室で犯人を捕まえようとしてたんだが……上で物音がしたからこっちへ来たんだ」

「場所なんて選んだつもりはねーよ」

 いつのまにか下を履いていた浴皮が言った。

「まあ本当は水曜日に楽器点検をしたときに人の気配がしたからなんだがな」

 夕霧先生が言った。

「その時は前田だ。人影に気づいて隠れたんだろうぜ。あいつの女は一人だしな」

「まあ話はこれくらいにしようぜ。この場を片づけて警察を呼ばないと」

「これからお楽しみの時間のはずだったのになあ」

「うっせえカス」

 言うが早いか、夕霧先生は殴りかかろうと浴皮のほうへ突っ込んだ。しかし、その動きは突然止まった。浴皮はそばにいた女性を人質にとった。彼もまた、前田が持っていたものより少し小さめのスタンガンを持っていた。

「ふっ……。さすがにお利口さんだな。せんせい」

 彼はスタンガンを彼女の首につけた。

「電流の強さは俺次第だ」

「……要求は?」

「ハッ。話が早えじゃねえか。そうだな……とりあえず先生は帰ってくれ。抵抗するなよ。下手したら俺の手がこいつを殺しちまうかもしれねえ」

 夕霧先生は悔しそうな顔をしたが、この場は素直に引くしかなかった。彼が教室を出たその刹那、浴皮が叫んだ。

「前田!」

 前田が起き上がり、左手で持っていたスタンガンを夕霧先生に向けた。夕霧先生が膝から崩れ落ちた。

「二対三。もうこいつは要らねえや」

 そう言って彼女の首に電流を流し込んだ。

「蓮川!」

 畑さんが叫んだ。

 蓮川と呼ばれた彼女が、机ほどの高さから落とされた。鈍い音がした。彼女の体は痙攣けいれんを続けている。辺りに焦げくさにおいが立ちのぼった。

 前田が教室に入り、こちらに迫って来る。

「子どもは黙って眠れ!」

 そう言って前田がスタンガンを振りかぶった。それを見て恭兵衛さんが狙っていたかのように、いや、恐らく狙って、彼の開いた左脇を棒で突いた。前田はスタンガンを落とした。

「隙だらけだったぜ……」

 恭兵衛さんはすばやくスタンガンを拾い、体勢を崩した前田の首に電流を流し込んだ。その後ですぐ教室の外に投げやって、代わりに持って来ていた棒を拾った。

「はっ。弱え奴だな」

 浴皮が言った。

「まあ三人くらい何とかなるだろ。子ども相手だしな」

 仲間とは言えど、仲良しこよしというわけではないらしい。

「カヅ、人質を脇に寄せて解放してやれ。恭兵衛、二人で行くぞ」

「はい」「やりましょう」

 俺と恭兵衛さんがほぼ同時に言った。

 二人が同時に襲い掛かる。浴皮はその斬撃を屈んでかわし、二人の腹に肘打ちを入れた。

 俺は上清先生を教室の端に寄せながらその様子を見ていた。「畑さん!恭兵衛さん!」と言いかけたが、畑さんが俺に視線を送って「人質を助けろ」と目で語った。俺は久凪さんを抱えて上清先生の隣に運んだ。裸の女性に触れるのは普通なら躊躇ためらうだろうが、生憎あいにくそんなことを言ってられる状況ではなかった。後は蓮川さんだけだが、彼女はあの三人の足元に倒れている。さっき浴皮に机くらいの高さから落とされていたから、もしかしたら彼女の下半身は怪我をしているかもしれない。その上彼らの戦いに巻き込まれてしまったら怪我なんてかわいいものでは済まないかもしれない。ここはむしろ彼女のためにもバトルに参加したほうがいいのかもしれない。でも見ている限り二人がかりでも劣勢だ。

 そんなことを考えていた時、浴皮が隙を見せた。畑さんと恭兵衛さんが俺とは逆サイドから攻撃していたおかげで、浴皮の背中がこっちを向いていた。俺はそばに置いていた棒を手に取り突進した。

「うぉおおおおおおおああああぁぁぁぁ!」

 そんな叫びとともに俺は背中の中心を突きにかかった。

 しかし浴皮は俺の腕を蹴った。後ろ回し蹴りで俺の右手を蹴って、持っていた棒を弾き飛ばした。

「……っ!」

 蹴りが重い。手首が外れそうだ。いや、外れているかもしれない。まあ俺は脱臼したことがないし、脱臼していたならもっと痛いのだろうから、そんなことは恐らく当然戯言にすぎないのだろうけれど、それにしても彼の蹴りは重たかった。

「よそ見すんな!」

 畑さんが浴皮に言って襲い掛かった。浴皮はそれを避ける。

 勝ち筋が見えなかった。三人がかりでもあいつは苦にしていない。

「……くそっ」

 誰か助けを呼ばなければ。このままだとやられてしまう。

「どうした。疲れたか?なら——」

 浴皮が畑さんを殴り飛ばした。畑さんは隣にあった机にぶち当たる。

「畑さん!」

 浴皮はそう言う俺のほうに向き、俺の脇腹を蹴飛ばした。俺は一メートルほど机の間を飛ばされ、顔をドアの方に向けて倒れた。その時俺が見た光景には、いるはずの人物が居なかった。

「カヅ!」

 恭兵衛さんが言ったが、浴皮に突き飛ばされた。

「そろそろ一人ずつ処分するか……」

 そう言って浴皮は俺のそばへと歩いてきた。その気配を感じて俺が振り向くと、彼はもう既にスタンガンを振りかぶっていた。

「死ね!」

 浴皮がそう言った瞬間、そばにあった机の下から人影が出てきて彼の首筋に電流を流し込んだ。浴皮はやはり痙攣し、そして異臭を発しながら膝から崩れ落ちた。

「すまないね、みんな。油断して気を失ってしまった。怪我をさせてしまって申し訳ない」

 金家先生が言った。

 スタンガンで浴皮を気絶させた金家先生が言った。

 自分のせいではないのに申し訳なさそうに、金家先生が言った。

 それから倒れて動かない浴皮に向かって、金家先生が言った。

「これを使うのは初めてだったから、上手く強さを調整できなかった。すまない」

 或いはもう死んでいるかもしれない浴皮に向かって、そう言った。

 そして突然外でサイレンがなった。いや、正しくはサイレンが大きくなっていたのだろう。夜中だからか音は小さいが、おそらくパトカーと救急車だろう。いくら音が小さいと言っても寮まで届きそうな音である。

「私が呼んだ。畑君、立てるか?できれば一緒に来てもらいたいのだが」

「残念、ですが……立て、そうに……ありません……」

「わかった。なら無理せずここで待っていてくれ。木元君はどうだ?」

「大丈夫です」

 恭兵衛さんが立ちながら言った。

「じゃあ一緒に来てくれ。警察に場所と状況を伝えなければならない。君も被害者の一人として──」

「わかりました」

 二人は教室を後にした。


「怪我は……ないか……?」

「それはこっちの台詞ですよ……。救急隊員の方が来るまで大人しくしててください」

 俺がそう言うと、畑さんは感謝の籠ったような目をした。

 まずそこの二人を解放しないと……。俺は縄を解いて猿轡と目隠しを取った。

 俺は浴皮の体に目を遣る。もう死んでいるのだろうか。蓮川さんと同じような反応をして——そうだ!蓮川さん!

 俺は急いで蓮川さんの元へ行き、手首を取って脈を取ろうとした。が、そんなことをしなくても結果は見えているようだった。手に取った手首が異様に冷たい。暫くの間全裸なのだから冷えてしまったとかではない。確認のために上清先生の体温を測ろうとしたが、

「カ……ヅ……」

と畑さんが俺を呼んだ。

「はい?」

 俺が振り向くと、畑さんは一点を見つめているようだった。俺と畑さんを結んだ延長線上のを見ると、久凪さんが窓を開けていた。なにをする気だ?

「 …… ……  ……  …… ……」

 何か呟いて、そして。

 窓枠に上って。

「やめろ!」

 俺の叫びは、届かない。

 飛びかかっても、もう遅い。

 久凪アオイは外に降りた。否、落ちた。否、墜ちた。

 ここは三階。そして下は、コンクリート。

 下を見る。

 彼女はもう、ヒトではなくなっていた。


   13


 二〇一八年四月二三日。月曜日。あの日から三日が明けた。

 警察は逮捕した前田からこの事件の経緯や動機を聞いていた。

 俺達が聞いた話では、浴皮が主犯らしい。二週間程前から犯行に及んでいた浴皮を前田が発見したのは水曜日──湯奈河さんが学校に戻り、夕霧先生が楽器点検をした日。その日前田は浴皮の情事を——他人を巻き込んだ慰めを、偶然にも発見してしまった。そして浴皮が上清先生にふられたことを知って、浴皮が涙ながらに語ったのを受けて、同情してしまった。──とのことである。

 浴皮は今月の頭、ずっと密かに気持ちを寄せていた上清先生にその想いを伝えたが、先生は想いには応えられなかった。彼女に深い愛を向けていた浴皮は、二週間程前校内の巡回をしていたとき、偶然遅くまで被服実習室に残っていた彼女を襲った。凶器のスタンガンは防犯用に事務員に支給されていたものを使っていたらしい(普通は警棒のようなものを持たされそうなものだが)。その後二人の女子生徒は偶然彼の犯行を目撃してしまったことで、浴皮に捕らえられたらしい。湯奈河さんももしかしたら被害者になっていたかもしれない。かくして三人の奴隷を抱えた浴皮を発見してしまった前田もずっと想いを寄せていた英語科の二木にき先生を木曜日に拉致し、行動をともにすることになった。——とまあ、今回の事件概要はこんな感じらしい。


 ここからは後日談といこう。

 主犯の浴皮は、金家先生のスタンガンによる攻撃によって死んでしまったらしい。金家先生は正当防衛が認められ罪には問われなかった。共犯の前田は金家先生と夕霧先生に怪我を負わせたため傷害罪、ということらしい。俺は法に詳しいわけではないためあまりわからないけれど。

 被害者の上清先生は退職し、病院に通いながらパートで生計を立てるらしい。二木先生は前田からの謝罪を受け、一ヶ月の休業の後復職するそうだ。蓮川かれんさんは浴皮による電撃で亡くなってしまった。久凪さんも自殺してしまったから、巻き込まれただけの二人は何とも不運だ。いや、当人の立場に立てば、そんな言葉では済まされて良いものでは決してないだろう。

 その久凪アオイさんの自殺の動機について。俺はあの時浴皮に乱暴されたことが原因だと思っていたが、どうもそれだけではないらしい。畑さん曰く、家庭の事情も大きく絡んでいるとのことだった。去年の暮れに両親が離婚した久凪さんは、親権を有することになった母親に邪魔者扱いされ、半ば強引に入寮させられたらしい。家にいた時は母親に散々文句を言われていたというから、それは不幸中の幸いかと思ったのだが、実際は入寮中でもストレスが溜まっては娘でストレスを発散していたそうだ。実の母親に嫌われるというのはどういう気分なのだろうか。久凪さんは寮や学校では楽しそうに振る舞っていたが、やはり心の傷は深かったのだろう。彼女のクラスメート達は言った。「笑顔が絶えることが多かった」と。そして今回の一件で精神が崩壊してしまったのだろう。クラスメート達は悔やんでもいた。「私達がもっと気にかけてあげれば」と。でもきっと彼女達はどう足掻いても久凪さんを助けることはできなかったのだろう。それは俺や畑さんもそうだ。きっといずれ自殺していた。あの時躊躇いもせず飛び降りた彼女は、もうこの世に未練がなかったのだから。親権が父親にあったら良かったのではないかとも思ったが、畑さん曰くどっちにしろ邪魔者扱いされていただろうということらしい。

「っていうか、何でそんなこと知ってるんですか」

「さあな」

 ……この人は何をどこまで知ってるんだろう……。

「すまんな、皆。特に友花。大変だろう」

「玖太郎が謝ることじゃないよ」

「玖さんは早く治すことだけ考えていてください!」

 余談だが、畑さんは恭兵衛さんから「玖さん」と呼ばれている。木野さんからは「会長」呼びだ。

「骨折って、気持ちで治るもんでもないだろ?」

 苦笑いしながら畑さんが言う。

 畑さんは肋骨を二本折られたらしい。今日は生徒会のメンバーでそんな畑さんを見舞いに来たのだ。

「治る治るって思ったほうが、治らないって思うよりいいじゃないですか」

 俺がそう言う。

「って言うか、俺を励ましてるけれど、君にそのままその言葉を返してやるよ。恭兵衛」

 さっき畑さんを励ましていた恭兵衛さんも、実は腕の骨折で同部屋入院していたのだ。まさに特大ブーメランである。

 よく考えてみれば、あの時骨折しながらも先生と一緒に歩いてたんだよな。よくもまあ動けたもんだ。

「まあいいじゃないですか。俺は玖さんとエロい話で盛り上がるのも楽しいですよ」

 笑いながら言う恭兵衛さん。

「あんまそゆこと言うなよ……。友花も悠生もいるっていうのに……」

 それは私のイメージじゃない、と言いたげだ。というか顔に書いてある。

「ふふっ。あんな趣味持っといて何言ってるんですか」

「やめろ!」

 畑さんが顔を真っ赤にして言った。どうやら意外にもムッツリなようだ。

「俺はムッツリじゃない!」

 あーまた心読んだー。

 一人称が変わってるし。

 っていうかそろそろ話題変えないと、木野さんがおもっきりドン引いてる……。

「それはいいけど」

 と奈津さんが言った。

「玖太郎も誕生日には治ってないとパーティー開けないわよ」

「ずれても開いてくれよ……」

「開くけどさ、なるべく当日のほうが良くない?」

「まあそうだな」

「会長の誕生日っていつなんですか?」

「五月八日だ。ゴールデンウィーク明けだな」

「治ってても、連休中は無理しちゃだめだからね」

「わかってるよ。そもそも私はそんなに出歩かないほうだしな」

「ならいいけど」

 そう言って奈津さんは反転し、俺と木野さんのほうへ向いた。

「じゃ、帰ろっか」

 奈津さんはドアへ向かって進んだ。俺達も部屋の外へ出る。

「お大事に。会長、恭兵衛」

「これ以上怪我しないように気をつけてくださいね」

 奈津さんはドアを閉めながら畑さんに言った。

「じゃあねー。ムッツリスケベ」

 からかうようないい笑顔だ。

「だから俺はムッツリじゃない!」

 楽しい仲間達だな、と思った。


 曇っていた空は、いつの間にか晴れていた。

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赤い青春 城夜 @JunN-yOh

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