それは言葉にできない

宇土為 名

それは言葉にできない






 ──ああ、似合いそうだ。

 仕事帰りに、ふと目に付いたそれに足を止めた。眺めていると、課長、と後ろから声が掛かった。

 篠原は振り返った。

「大野くん、お疲れさま」

「お疲れさまです。何見てたんですか」

 大野はひょいと篠原の横からショウウィンドウを覗き込んだ。

「へえ、こういうの好きなんですか」

 意外そうに言われ、篠原は苦笑する。

「僕のじゃないよ。ちょっとね」

 行こうか、と促すと大野はそこから離れがたそうにしながらも、篠原の横をついて来た。

「あ、プレゼント?」

「見てただけだから」

「えー教えてくださいよー」

「駄目」

 やんわりと断ると、残念そうに大野は肩を竦めた。

「まあいいですけど。ところで、今日のあれ、…聞きました?」

「ああ聞いてます。正式にむこうの意見が通ったそうだね」

「すいません」

「大野くんのせいじゃないでしょう」

 項垂れた大野にそう言うと、大野は深々とため息をついた。

「いやーなんかもう…、任してくださいって大見得切っちゃったのにすげえ情けないなあ、と」

「大丈夫。すぐに挽回できますよ、大野くんなら」

「ええー…それはそれでプレッシャー…」

「やること山積みだよ」

「ああーいやだあー」

 以前から支社との間で意見が分かれていた新製品の広告について、今日ようやく決着がついたと篠原に連絡が来たのは、別の商談で社外に出ている時だった。やはり読み通り支社の意見が通ったか、と──交渉に当たっていた大野とその課内主任には悪いが──篠原は妙に納得していた。今支社でこの件の陣頭指揮に立っているのは、以前本社にいた切れ者の営業課の人間だ。切れ者過ぎて上司に嫌われ、疎まれて支社に出向扱いになった彼は、この件で自分を飛ばした上司に一矢報いようとその才能をいかんなく発揮していた。篠原は彼をよく知っている。同期入社でカリスマ性のある人間だ。少し人間性に問題はあるが憎めない人物だ。

 その彼が全力を出してきているのだから、こういう結果になっても篠原は驚かなかった。

 むしろなんだか清々しい気分だ。

「ちょっと課長、なんか嬉しそうじゃないですか?」

「そう?」

「え、もうちょっと悔しがって!?」

「悔しがってるよ」

「全然そう見えません」

「はは」

 思わず声を出して笑うと、大野が一瞬目を見開いた。

「なんか課長、…雰囲気変わりましたよね」

 篠原は大野を見る。

 にやりと意味ありげに笑う大野に、篠原も笑みで返した。

「きみは変わらないね」

「今どき」

 どうってことないでしょ、と大野が呟いた言葉に、胸が軽くなる。

「大野くんがいてくれて助かります」

「そうでしょう」

 屈託のない声で大野が言った。篠原を覗き込むように、少しだけ腰を屈めて見上げる。

「それで? さっきのはやっぱりプレゼント?」

 好奇心丸出しの目に、篠原は苦笑した。



 カミングアウト、とまで大袈裟なものではなかったが、篠原は文子と岩谷から脅すような言葉を向けられたその翌日には、会社の上層部に自分の事情を相談という形で打ち明けていた。彼らが万が一にも脅しを実行したときの保険でもあったが、篠原はもう随分前からそのことを考えていた。

 話をした上司は面食らったような顔をしていたが、表面上は穏やかに話し合いは済んだ。その反応はおよそ篠原の予期していたものとなった。

 篠原の勤める会社は比較的歴史の浅い総合商社だ。取り扱う品物は多岐に渡るが、とりわけ革新的な商品、特にまだ誰も注目していないようなベンチャー企業にいち早く目をつけ、その企業の商品を取り扱うことで、目新しいものが好きな客層を多く取り込み、数多ある老舗企業との格差を図ってきた。柔軟に、流動する世の中に寄りそう社風、その経営陣や上層部に提携する外資系企業からの出向者が3分の一を占めるのは、海外への販路を拡充する上で必要不可欠なことだった。また、そうした外資系企業はマイノリティに対する理解も、日本の一般企業に比べれば格段に進んでいる。大野が言ったように、今どきそれくらいのことでと鼻先で笑えるようでなければ、これからの世界では生き残っていけない。

 その一方で篠原の同期の男のように、上に立つ者次第で行く末が決まる旧体制的な部分も持ち合わせているのが実情だ。

 岩谷が皮肉交じりに真琴に指摘したように、社会はまだ過渡期にある。



 相談という名のカミングアウトを済ませてから一ヶ月、社内ではすでに篠原のことを知る者が多くいる。相談役の上司が口外などするわけもないが、こういった人の秘密ほど噂は広まりやすいものだった。

 大野や石嶺──自分の部下たちには自分の口から話した篠原だったが、彼らの反応からして特段変わったこともなかった。彼らの内心はともかく、表面上は今までと変わりがない。実に拍子抜けするほどに、いつもの日常だった。

 だがもしも彼らが自分を忌避し、仕事に支障をきたすようなことになれば、篠原はいつでも会社を辞める覚悟でいた。

 今はまだ投げ込んだ石に水面が凪いでいるだけで、いつかその反動が来るかもしれない。

 それは今日か、明日か──

 いつでもあり得ると、篠原は心に留めている。

「あっ、記念日?」

「けっこうしつこいね」

 食い下がる大野に堪えきれず、篠原はそう言って笑った。


***


 玄関を開けて中に入ると、奥のほうに人の気配がした。

 夕飯のいい匂いにつられ、廊下を進む。

「ただいま」

 リビングのドアを開け、キッチンにいる真琴に篠原は言った。

「おかえりなさい、早かったね」

 にこりと笑って、真琴が付けていたエプロンで手を拭いた。

「いい匂いだね」

「うん、増村さんにレシピ教えてもらって作ってみたんだ。先に着替えてきてよ、すぐ出来るし」

 温かな湯気が立ち上る。

 すらりとした立ち姿に銀色の髪。少し使い込んだ紺色のリネンのエプロンは、以前洋食店で働いていた時のものだそうだ。

 この格好で接客をしていたのなら、さぞかし人の目を集めていたことだろう。じんわりと嫉妬のような感情を覚えて、篠原は微笑んだ。

「じゃあ着替えて来ようかな」

「うん」

 自分だけを見て真琴が笑う。食べ物の匂いに包まれたその体を抱き締めたいのを我慢して、篠原は着替えに行った。



 毎週末金曜日の夜からの週末を、真琴は篠原の家で過ごしている。休みが日曜日しかない彼と一緒にいる時間を取りたくて篠原が提案をし、この形に落ち着いていた。こちらの家からのほうが少しだけ事務所に近いのも利点だった。月曜の朝、真琴はここから事務所に向かう。

「それで、最後に生姜を追加で入れるのがポイント」

 肉を口に運び、篠原は頷いた。

「うん、美味しい」

「ね、ほんと。聞いてよかった」

 事務所の増村に教えてもらったというレシピは豚の生姜焼きだった。たれに漬け込むと焦げる、と真琴が零した愚痴を聞いた彼女が、漬け込まずに作るやり方を教えてくれたようだった。とろりとたれが絡んだ肉は、生姜がしっかり効いていてとても美味しい。

 誰かと向かい合って食事をとるという行為が、こんなにも心地の良いものだとは思わなかった。新しく買ったテーブルの上で交わす会話、並んだ食事、なによりも目の前に真琴がいることがたまらなく幸せだと思う。

「片付けは僕がするから」

「え、いいのに」

 食事を終え、食器を持って立ち上がろうとした真琴に言うと、驚いた顔をした。いいから、と笑うと、篠原は真琴の使った皿を片付けた。

「えと、じゃあ俺、コーヒー淹れようかな」

 ふたりで週末を過ごし始めて一ヶ月、ここに来ている回数も少なくはないのに、なにもせずに座っているのがまだ落ち着かないのか、真琴はそう言って食器を洗う篠原と一緒にキッチンに立った。

 ケトルをコンロに掛け、ドリッパーを取り出し、フィルターをセットする。折り目を付ける指先が、男とは思えないほどすらりと長い。軽く折り曲げた薄いグレーのシャツの袖から覗く腕は、重いカメラを構えるためかしっかりと引き締まり、綺麗な筋が浮いている。

 ほんの少し俯いた顔、シャツの襟から見えるうなじに、篠原はぞくりとした。

「──」

 あ、と真琴が言った。

「そうだ、あのさ、今日渡瀬さんにお菓──」

 びく、と真琴の体が跳ねた。

 引き寄せられるようにそのうなじに唇を這わせた篠原が、濡れた手のまま、真琴を抱きすくめる。

 軽く唇で挟んで、柔らかな肌を吸った。

「あ、…っ」

 真琴、と耳元で囁く。

 腕の中にすっぽりと納まる体が愛おしい。愛おしくて、たまらない。胸に這わせた指でボタンを外した。みっつめで手のひらを滑りこませ、アンダーの緩い首元から肌に触れた。

「コーヒーは後でいいから」

 腕を伸ばして火を消す。

 小さく震えた恋人の体が、発熱したように体温を上げた。



 こんなにも自分の中に人を愛おしいと思う気持ちがあるなんて知らなかった。

 まるで思春期の子供のようだ。

 求めても求めてもきりがない。

「真琴、…まこと」

 顔を隠してしまう腕を掴んで、ベッドに押し付ける。恥ずかしがる姿が欲情を煽る。

「どこ見てるの」

「は、ん…っ、ん」

「そう、こっち見て…いい子だね」

 逸らした視線を合わせると、真琴の目に快感の涙が溢れた。上気した頬に零れるそれを舌先で掬い取る。

「あ、りょ、じさん…、あ」

 篠原の腰に縋るように巻きついた足が、もどかしそうに揺れている。

「も…、もお、や」

「嫌?」

 意地が悪いと分かっていて問うと、覗き込んだ目が、くしゃりと歪んだ。あ、あ、と身を捩ろうとしてもがく体は、両腕を捉えられていて思うように動けない。

 じわ、と目尻に涙が溜まっていく。

「や、も、もう、…っ了嗣さ…」

「もう、何?」

 ひくっと真琴の喉が鳴った。

「おねが、い、も、うご…、いてぇ…っ」

 はくはくとあどけなく息をする唇の間から赤く濡れた舌が見えた。

「──」

 凶暴な熱が、背筋を駆け抜けていく。

 緩く当てたままだった前立腺の膨らみを、切先で抉った。

「ア──あああああ…! あーっ」

 散々絶頂を焦らされた真琴の先端から白濁したものが一気に溢れた。

 引き攣ったように仰け反る体の奥深くに、篠原は自分の熱を沈めていく。

「ひ、あ、…っあ、ああ」

 痙攣する体を抱き締める。弓なりに反る背に浮いた背骨を撫で下ろし、柔らかなふたつの丸みを手のひらで左右に開いた。もっと奥深い繋がりを求めて篠原は強く腰を押し込んだ。ぱん、と体がぶつかる音が響く。

「いああ、っ、やあっ…だめ、だめえ…いっいってる…っ」

「真琴」

「ふあ…!」

 奥に篠原のものが当たる。その場所を篠原は擦った。

「あーっあーっ」

「大丈夫…気持ちよくなるよ」

 押し付けたまま頬や首筋に口づけを落としていく。真琴の呼吸が落ち着くのを待って、また緩やかに抽挿をはじめた。穿つたびに、真琴の声が甘やかになっていく。

「…っい、ん」

「気持ちいい?」

「ん、…あ」

 上気した顔で真琴が頷いた。

 もっと、もっと。

「あ、あ、あ、っん、んん…!」

 喘ぐ口を唇で塞ぐ。

 欲しい。

 甘く上げる声さえも、全部欲しい。

 全部、全部。

「ああ、あ、いあ、あ」

 熱く柔らかく蕩けた真琴の中を篠原はゆっくりと掻き回した。纏わりつく襞が離すまいとするようにきゅっと締め付ける。感じている。もっと感じさせたい。甘い声をもっと聞いていたい。とろとろと蕩けさせて、なにも考えなくて済むように──

「……」

 篠原は深く挿し込んだまま体を起こすと、ベッドに膝立ちになり、細い腰を掴んで引き寄せた。

 抱え上げた右脚の内腿に舌を這わせた。下から上になぞり、脚の付け根を吸い上げた。びくりと真琴の体が跳ねた。

 あ、と上がった高い声に、自分の理性が溶けてなくなる気がした。

「好きだ…」

「ア──」

 篠原は真琴が感じ過ぎて涙をこぼす場所を攻め立てた。溢れ出した粘度の高いローションが、ぐちゅぐちゅと卑猥な水音を立ててシーツに零れていく。

「や、や、あっ、も、や、あ…っ」

「駄目だよ…気持ちいいって言って」

「あ、あ、あ、ああっ…りょ、じさ…、い」

 真琴は片手でシーツを握りしめ、もう片方の手で篠原の胸に触れた。肌を緩く掠めるばかりの指を、篠原は手首を掴んで引き寄せ、自分の頬に当てた。

「真琴」

「……」

 涙に濡れた目で真琴が篠原を見上げている。

 その目を見ながら手のひらに口づけると、真琴が泣きだしそうな顔をした。

「う…」

 俺のこと好き? 

 俺が好き?

 その表情だけで問いかけてくる。

 不安なのか、いつもそうだ。

 いつも篠原の気持ちを確かめている。

「好きだよ、…きみが好きだ」

 こめかみを伝って落ちる涙を追って、篠原は真琴に覆い被さり、細い体を強く抱き締めてゆらゆらとゆりかごのように揺さぶった。



 真夜中、喉の渇きを覚えた篠原は、真琴を起こさないようにそっとベッドに身を起こした。

 うつ伏せて安らかな寝息を立てる体を優しく撫でて、部屋を出る。

 足音を立てずにリビングに行く。明かりを点けずとも、部屋はほんのりと明るかった。開けたままのカーテンの向こうの夜空には、少しだけ欠けた月が浮かんでいる。

 明日には満月だ。

 冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出してキャップを捩じった。口をつけ、ふっと息を吐いたとき、目の端に何かが留まった。

 テーブルの上に置いたままだった自分の携帯を篠原は何気なく手に取った。タップすると着信通知が一件。時間を見る。少し考えて、篠原はそれをリターンした。

『どうも』

 数回の呼び出し音であっさりと相手が出た。

「すまない、気がつかなくて。遅くに悪いね」

 もう真夜中を過ぎている。それでも昼間と変わらない声に、篠原は苦笑した。

『いーや、こっちはまだ仕事中だし。こちらこそ休日前に失礼』

「いや」

 笑いを含んだ声を返すと、高橋は小さく鼻を鳴らした。篠原の休日前に真琴がここに来ていることは分かっているのだ。

「今は眠っているから、大丈夫だ」

『…ああそう』

 どうでもよさそうに高橋は言った。

 岩谷の一件があって以来、篠原は高橋と連絡を取り合うようになっていた。

 岩谷のその後の動きなどを高橋が知らせてくれたのがはじまりだった。そのうち言葉もお互いフラットなものに変わり、今では良い友人となっている。

 高橋は人を引き付ける人だ。いわゆる人たらしで、相手の心の弱さを包むような、懐の柔らかさを持っている。

 きっと真琴も、辛い時期に、随分彼の存在に救われたに違いない。

『ま、それなら都合がいいけど。調査結果が出たってのを知らせておこうと思って』

「そうか。随分仕事が早いんだな、ありがとう」

『どういたしまして』

 先日、篠原は真琴に内緒で、谷上登和子の調査を高橋に依頼していた。

 自分たちと不思議な縁で繋がっていた祖母の友人は、真琴を幼いときから見てくれていた水戸岡家の家政婦だ。不在な両親に代わり、ずっと真琴に寄り添っていた人。言ってみれば、彼女は育ての親も同然の人だった。

 真琴の元に戻ってきた登和子の写真を眺めながら、あるとき、ぽつりと真琴が言った。

『そういえば俺、登和さんが死んじゃったことも全然知らなかったんだよね』

 その死を知ったのは、彼女が亡くなってから半年ほど過ぎたころだったという。

『手紙が来たんだ』

『手紙?』

 うん、と真琴は頷いた。

『家族の人が書いたって思ってたけど、…今思えば、そうじゃなかったのかもね。便箋にひと言だけ、〈さる日に、谷上登和子は永眠致しました〉って』

 いつ死んだのかも分からない。

 どこで死んだのかも知らない。

 水戸岡の家を登和子が辞めてしまってから、一切の連絡は彼女の方から断たれていた。

『知ってたらきっと、俺が会いに行っちゃうって分かってたんだよ、きっと』

 甘えてばかりだったから、と真琴は笑っていた。

 寂しそうに笑う横顔に胸が痛んだ。

 それならばせめて、墓の在処だけでも知ることは出来ないか。そう思って、篠原は高橋に連絡したのだった。

『六月だな』

 唐突に高橋がそう言った。

 何のことかと一瞬沈黙した篠原は、それが登和子の命日の月だと思い当たる。あとひと月ほど先だ。

「休みをもらうよ」

 げえ、と高橋は呟いた。

『マジかよ。こっちは人手不足だっつうの』

「二日ぐらいどうにかなるだろう」

『ふつかああ?』

 せめて日帰りにしろよと高橋は声を上げた。篠原は笑ったが、譲るつもりはまるでなかった。


***


 週が明けた。

 午後の会議が終わり篠原が課に戻ると、大野が篠原を見つけ、駆け寄ってきた。

「お疲れさまです」

「おはよう、お疲れさまです」

 朝礼には所用で出られなかった篠原は、大野と顔を合わせるのはこれが今日初めてだった。

「何かありましたか?」

 大野の後ろには主任である田所もいる。何事かと篠原は訊いた。

「プロジェクトの広告差し替えの件なんですけど」

「ああ、はい」

 先日支社のほうの案が通った新製品の販売プロジェクトだ。本社で用意していた広告は全面差し替えとなり、以前支社が提案してきたもので検討されることが決まっていた。今日は主任以下大野を含むプロジェクトグループがその精査に当たることになっていたはずだったが…

「今日決定すると聞いていますが」

「それが──ちょっと…」

 田所が心底困ったように眉を八の字に下げた。

「確定していた第一候補が辞退すると申し入れてきまして」

「辞退?」

 支社の出した第一候補は、イワヤタケルだ。

 顔に感情を出さないようにして、篠原は訊き返した。

「どうしてまた、急ですね。理由は?」

「それが…」

 田所は篠原に一歩近づいて声を落とした。

「どうやら──スポンサーからの圧力のようです」

 圧力。

「それは…」

 篠原が言いかけたとき、課長、と声が掛かった。

「受付から、お客様がいらっしゃってます」



 受付に下りると、篠原を見て、受付の女性が「あちらです」と示してくれた。礼を言い、篠原はゆっくりとそちらに足を向けた。

 一階エントランスの端に商談用にと置かれたいくつかのソファセットの一番端に、その人物はいた。ゆったりとソファに沈み込むようにして座っている。

「よお」

 篠原を見て、片手を上げた。

「久しぶり」

「相変わらずだな」

 口の端を持ち上げて笑う仕草を見るのが久しぶりだった。篠原はテーブルを挟んだ向かいのソファに腰を下ろした。

「ちょうどよかった。今話がしたいと思ってたんだ」

「あーいいタイミングだろ。オレもその件で来たんだ」

「じゃあ会議室に──」

「いや、ここでいいって」

 立ち上がろうと腰を浮かせた篠原を、男が制した。篠原と同じ歳ほどの、ある意味対照的な印象の男は、支社に出向させられたくだんの元本社営業課の人間だ。プロジェクトの支社側の陣頭指揮を取っている。

「上に上がってあいつと鉢合わせんのも鬱陶しいしな」

「まあ、そうだな」

 あいつとは彼──宮重みやしげを出向させた元上司のことだ。

 篠原は近づいて来た受付の女性にコーヒーをふたつ頼んだ。

「圧力がかかったって?」

 女性が遠のいてから、篠原は言った。

「ハ、どっかの企業からな。まあオレが言わなくてもおまえ、心当たりあるんじゃないの」

 イワヤタケルに対しての圧力。

 思い当たるところか…

「あるかもしれないが、そっちは既に縁は切れているよ」

「そう言うと思ったね」

 運ばれてきたコーヒーがテーブルの上に置かれていく。その間ふたりは黙り込み、立ちのぼる湯気を見つめた。

「じゃあ元嫁側じゃないってことか?」

 篠原はカップを持ち上げてひと口啜った。

「やるとしたら、イワヤ本人にだろう」

「──」

 宮重は目を丸くした。

「あー…あの噂はマジだったわけか」

「噂って?」

「デンコーグループの役員の娘とのデキ婚」

「役員ではないな」

「じゃあなによ」

 篠原が横目に見ると、宮重ははっとしたように目を見開いた。

「え、おまえ、それマジか」

 答えるかわりに篠原は宮重を見ながらコーヒーを飲んだ。あらら、と呟きながら宮重もコーヒーを口に運ぶ。

「マジなのかー」

 宮重が驚くのも無理はない。デンコーグループは篠原の元妻、文子の父親の一族が作り上げた会社だ。十年ほど前に同族経営の泥沼から脱却を図り、今では経営陣を内外からの実力のある者に置き換えて、創業者一族は身を引いた。今は文子の父が会長職に就くだけとなっている。だから篠原が役員ではないと言ったそのひと言で、それが創業者の娘であると宮重には分かったのだ。それだけの影響力を持つ者──会長の娘はふたり、次女が文子だ。

 ちなみに長女の夫は会長の秘書であり、役員の全秘書を統括する立場にある。

 高橋から、岩谷のその後の動きを篠原は知らされていた。

 岩谷は文子と別れていた。

 文子のお腹には彼の子供がいたが、それを岩谷は認めなかったという。

 順調に行けば、今は安定期に入っているころだ。

 授かった小さな命を持ってしても、岩谷は誰にも寄る辺を求めなかったということだろうか。

『本当に俺の子ならね』

 別れ際に吐き捨てた岩谷の言葉を思い出す。

 彼に対し真琴との因縁も含め良い印象はまるで待ち合わせてはいないが、ひどく虚しい言葉に聞こえた。

「ところでさあ」

 かたん、と宮重がカップを置いた。

「おまえのほうの噂なんだけど」

「僕?」

いるって」

 もう支社にまで広まっているのか。

 くすりと篠原は笑った。

「いるよ」

「え」

「噂は本当のことだ」

「あー……、あーそう」

 隠すつもりなどない。

 言いたい人間には言わせておけばいい。

「だから縁を切ったんだ」

「あー」

「そうだよ」

「そーかー」

 しげしげと篠原を眺めながら宮重は言った。

「え、何でそんな普通なのよ」

「僕にどうしろと?」

 あー、と宮重は頭を抱え込んだ。

「…畜生、負けた」

「何が?」

「賭け」

「賭け?」

「賭けてたの! おまえの話で!」

 篠原は呆れて言った。

「人の噂の真偽で賭けるな」

「オレのいちまんえーん!」

 馬鹿だね、と吹き抜けを仰ぐ宮重に篠原は苦笑した。


***


 その後、プロジェクトは見直され、候補者も一新されることになった。支社との合同戦略会議で宮重が新たに候補として推したのはふたり、本社ではひとりにまで絞った。最終的には三人がそれぞれ思う商品のイメージを好きなように撮影をしてもらい、それをこちらが選別するという形に落ち着いた。時間的な余裕はあまりなかったが、十日間の期限ののち、選ばれたのは元鳶職から転職してカメラマンになったという三十二歳の異例の経歴の持ち主だった。

「よくこんな逸材を見つけてきたな」

「あーそれな」

 聞けば彼は、宮重がよく行く定食屋の顔馴染みで、相席をするうちに親しくなり、今回の縁を結んだということだった。

 さすが元営業というべきか、人の縁を拾うのが上手い男だ。そんな宮重は篠原の部下の大野をいたく気に入ったようで、主任ともどもよく支社に呼びつけられては色々と無理難題を押し付けられている。支社も本社もあったものではない。

「課長、宮重さんと同期って聞きましたよ! もうあの人どうにかしてくださいよっ」

「大丈夫、悪いやつじゃないよ」

「いやいやいや、充分最悪ですよ!? 俺の話聞いてますか?!」

 部下の扱いにかけては宮重のほうが勝っている。

 篠原は仕事ではそつがないが、周りとコミュニケーションを取るのは苦手な方だ。表情も顔に出にくく、何を考えているか分からないと言われたことも少なくない。今はただ、大野をはじめ、いい部下に恵まれているのでその苦労が少ないというだけだった。

「大野くんに見込みがあるから、宮重も構うんだよ」

 思ったことをそのまま口に出し、にこりと笑うと、大野は面食らったようにぽかんとした。



 五月が終わり、六月になるころには仕事はひと段落を迎えようとしていた。あとは映像が仕上がるのを待つばかりとなった。

 総務のほうから有給消化を申請してくれと再三打診され、部下の石嶺からも上司が働き詰めでは部下が休むに休めないと愚痴をこぼされていたので、篠原はかねてからの思い通り、遠慮なく六月の下旬の平日の二日間に休みを入れた。

 その日は登和子の命日だ。

 海辺のホテルを予約していた。


***


 会社を出て、人の中を歩く。

 週末の街中はどこも人で溢れていた。

 定時より随分時間は過ぎていたが、繁華街の店はどこも遅くまでやっている。

 篠原は充足感で満ちていた。今日ようやくプロジェクトの要である映像が完成したのだ。先ほどまでその試写を社内で行っていたのだ。

 こんなことがあるのだとつくづく思う。

 スーツの上着の中で携帯が鳴った。

 表示を見て、珍しい人からだと通話を押した。

「──はい」

『了嗣か』

「はい、お久しぶりです。…森田さん」

 相手は一瞬黙ったが、すぐに気を取り直したようだった。

『元気そうだな』

「ええ、そちらも、お変わりなく?」

『ああ、私も家内も元気にしているよ』

 家内、という言葉に篠原は目を伏せた。

『了嗣が元気だろうかと心配していたから、電話してみただけだが』

「そうですか」

 お義父さん、とは篠原はもう呼ばなかった。

 彼もそのことは重々承知している。

「僕は元気にしてますよ」

 文子から自分の性的な嗜好について脅された後、篠原は母親の再婚相手──森田に連絡を取って事情を説明した上で、自分とは完全に縁を切るように進言した。もともと母の再婚時には、篠原は成人していたこともあって森田の籍には入ってはいない。だが、森田が自身の後継者の候補の中に篠原を入れているのは周知の事実だった。森田の会社の役員クラスは皆それを知る者ばかりだ。もしも万が一にでも脅しが実行された場合、森田の会社は少なからずダメージを受ける。昔気質の古い会社だ──体質も、新しい血が通っているとはいいがたいのが現状だった。穿つ見方をすれば森田のワンマンで、それをよく思わない者も多い。そういう者はここぞとばかりに、手のひらを返すときを静かに狙っているものだ。隙を見せてはいけないのだ。

 母親が掴んでいる幸せを、自分のせいで壊すわけにはいかないと篠原が言うと、森田は分かったと頷いた。縁は完全に断ち切ってくれるように念を押し、実際森田は篠原の言うことをすべて聞き入れてくれていた。

 それでも、時折寂しくなるのか、こうして電話を掛けてくる。

 前妻との間に子供がいなかった森田は、篠原が思うよりもずっと、自分を実の息子だと思ってくれていたのかもしれない。

 今ではもう、ずいぶんと離れてしまったけれど。

『そうか。…なあ、了嗣』

「はい」

『そのうち、食事でもしないか…その、おまえがよければ…』

 彼らが自分の向こうに小さな子供を夢見ていたことは知っている。

 叶えてあげられない。

 もうなにも出来ないけれど。

「…そうですね」

『そうか、そうか』

 森田は嬉しさを声に滲ませていた。

『家内が喜ぶよ』

 その声を聞きながら、心の中でいつか真琴を連れて会いに行けたらと願う。

 通話が終わり、篠原はふと足を止めた。そこは煌々と明るいショウウィンドウの前だった。

 少し前に見た、あの店だ。

 ショウウィンドウの中を覗く。

 まだそれはそこにあった。

 篠原は店のドアを開け、中に入った。



「おかえりなさい」

 家に帰ると、真琴が奥から駆け寄ってきた。

「ただいま」

「あのね、休み取れたよ!」

 嬉しそうに笑う。平日に休みを取って登和子の墓参りに行かないかと誘ったのは三日ほど前だった。

 休みが取れたのが信じられない口ぶりで真琴は言うが、それは裏で高橋に了承を取り付けていたからだ。だが篠原が約束を取り付けずとも、高橋は真琴には甘いので結果は同じだったかもしれないが。

 篠原は微笑んだ。

「そう、よかったじゃないか」

「うんっ! 言ってみるもんだね、急だったのにあっさりOKしてくれてさ、びっくりだった」

「そうか」

「お祝いだからさ、今日は肉じゃがだよ」

 と真琴が笑った。



 抱き合う最中に、真琴がその目で問いかけてくる。

「あ、あっ…」

 いつものように、言葉を求めてくる。

 不安なのだ。

 言わなければ伝わらないと分かっている。

 俺のこと好き?

「真琴、好きだよ…すきだ」

「ん…っ、あ、やぁ…、あ」

「きみだけだ」

 じわりとその目に涙が浮かぶ。

 俺が好き?

「…きみだけだよ」

「ひ、っ、い、あ…! あっあっあーっ」

 真琴の中を篠原は抉るように擦り立てた。感じ過ぎて逃げる腰を強く抱き寄せて、抱え上げた脚ごとベッドに押し付けた。

 奥の奥に当たる場所を緩やかに先端で愛撫すると、仰け反った細い首から甘やかな声が上がった。

「ア──、ひっ、あ、も、い…っ」

「真琴、まこと…っ」

「りょう、じさ、おれ、…っおれ」

「好きだよ、ずっと、きみが好きだ」

「う、う…、あ」

 零れた涙を追いかけて耳朶を食む。びくりと真琴の体が震えた。

「好きなんだ」

 好きだよ、と言葉とともに舌を差し込んでいく。

 感じやすい体はそれだけで身を捩って悶えた。

(好きだ)

 瞼を閉じると、今日仕上がった映像が頭の中に流れ出す。

 それは篠原が既視感を覚えるほどにどこかで見た光景だった。

『…これは』

 魅入られたように映像を目で追う篠原の横にいたカメラマンの彼が、嬉しそうに言った。

『これは、俺が転職するきっかけを作ってくれた写真家へのオマージュです』

 色褪せた青い色彩。

 フィルムが焼けついたような光彩。

 斜めに切り取られた画角。

 ──ああ。

 これは真琴の写真だ。

 彼の部屋にたった一枚だけ残っていた、あの海の──

『その人、今ではもう写真をやってないのか、全然名前を見ないんですけど、いつかまたやってくれないかなって思ってるんです。これを見て──って言ったら、すげえおこがましいですけど』

 照れたように彼は頭を掻いた。

『…イワヤタケルに似ているとは思わないの?』

 純粋に篠原は訊いてみた。

『まさか、あいつの方が真似したんですよ』

 彼は嫌そうに顔を顰めた。

『誰も言わねえけど、あいつがミトを真似したのは皆…知ってるやつは知ってますよ。それで何であんなにもてはやされてんのか納得いきませんね』

『…そう』

『俺はいつかミトが帰ってきてくれるって思ってます。本物はこんなもんじゃない。実際に見たら、篠原さんも絶対好きになりますから』

 自分のことのように興奮して話す彼に、篠原は微笑んだ。

『そうだね、僕も見てみたいよ』

 いつか、きっとそのときは来るだろう。

 来週、真琴と出掛ける二日間に、篠原はあのフィルムを渡すことに決めていた。

 ずっとタイミングを探していたのだ。

 ようやく、その日が来る。

 どんな言葉で言おう。

 言い出せていない思い出を、どうやって伝えよう。

 真琴はどう思うのだろう。

 誰にも言わなかった──言えるはずもない。だって自分でさえ気づかなかったのだから。

 あのときから。

 あのときからずっと。

「きみだけだ」

 肩に縋る左手を取って、篠原はその手のひらに口づけた。

 左手の薬指に唇を押し当てる。

「な、に…?」

 涙の浮かんだ目で真琴が篠原を見ていた。

 篠原の目頭が熱くなり、目尻を拭うように汗が伝って落ちた。

 まるで涙のように真琴には見えたとは、篠原は気づけない。

「かわいいね、真琴」

「…え、あ」

「好きだよ。きみが好きだ」

「どうしたの…?」

 唇の下で真琴の指がぴくりと跳ねる。

 綺麗な手だ。

 この手が、篠原を見つめるその目が、人を惹きつけてやまないものを作り出す。

 真琴は気づいていない。

 それがどんなに凄いことなのか。

 どれほど自分が誰かに愛されているのかを。

 帰りに買い求めたものは、きっとこの指に似合うだろう。

 出来上がるのは出発の前日。

 それも一緒に渡したら、真琴はどんな顔をするのだろう。

 言葉にできないこの想いを、どうか受け取って欲しい。

「…なんでもないよ」

 篠原は微笑んで、真琴の唇にそっと口づけを落とし、祈るように深く唇を合わせた。

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それは言葉にできない 宇土為 名 @utonamey

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