第4話(完結)

和尚の話は朝食の後、長々と続きいつの間にか昼時になっていた。

その話を聞いてしっていたのかどうか、いつの間に支度をしたのだろう。

きちは三人分のお昼を用意しておいてくれた。三人が思い思い考えながら無口に昼食をとった後、ヘンリと勇作は昼過ぎになってしまったので、もう遠くまで行く気もしないで、それかと言って寺の中で座っている事も今は辛く二人は寺を出て、ブラブラと山寺の裏の坂道を斜めにジグザグ登りながら、滝の方へ歩いて行った。

ヘンリは、ここですれ違ってまおさんはあそこで立って滝に打たれていたと勇作に話した。

勇作はそれを何も言わずに黙って聞いていた。

勇作は何かを考えているようだった。

それから二人は、橋が架けられるという場所まで見に行った。

下の方に下るにつれて川幅は広くなり、結構幅の広い立派な橋がもう大分形になって進んでいた。

人足達が一生懸命仕事をしている。その傍らに立って見ていると、向こうから二人連れの男達が来たのでヘンリと勇作がさり気なくこちら側の大きな木の陰に遠のいて見ていた。すると、その男達は何やら図面を見ながら話しをしている。

明らかに人足達とは身なりが違う。

羽織袴の男はきっと代官だろう。

代官らしき男にペコペコ気を遣いながら話をしているのは、例の話に聞くじん助だろう。

和尚の話を聞いた後で見るせいか、二人共、悪人面にに見える。

か弱い娘にあんな無理無体な事を強要するのだから、悪人に決まっている。

ヘンリと勇作はきっとあの二人がそうに違いないと解ると、体の内から怒りがギラギラ湧いて来た。

ヘンリもそうだが勇作も憎い敵を睨む目をして見ている。

二人の若者の正義感にパッと火が付いたのだ。

それから二人は、場所を移してどうにかならないかと話し合った。

とにかくその人柱をたてるのがいつか知らなければならないという事になった。

だがこの土地の物でもない自分達が下手に動けばすぐに目立ってしまう。

結局考えるだけで何もできず、二人は夕方になって寺に帰ると、自分達に何か出来ないかと和尚に話した。

和尚は珍しく苦々しい顔をしていた。

信女の話を今、きちから聞いたばかりだったのだ。

じん助がまた、まおの所に来て、こんないい話を断るのは勿体無いと説得して行ったというのだ。もう最近では“妻女”という言葉を使わずに、あからさまにお妾になれと言ったというのだ。お妾になれば何不自由のない暮らしが出来る。きれいな着物を着て贅沢が出来ると言ったそうだ。

ヘンリと勇作の二人の青年は我慢しているのがやっとで、二人のこぶしはプルプルと震えている。

きちは和尚が話す時はその場にいなかった。

いつも陰のようにひっそりとしていて、和尚が必要とする時はすぐにも出て来る不思議な女だった。


それからは和尚と勇作とヘンリは時間があるとどうしたら良いか毎日のように話し合った。


信女のことづてはきちが聞いて来て、逐一和尚に伝えているようだった。

ある日、和尚に言われて勇作とヘンリはまおと信女の住む家に訪ねて行った。

まおの所にまたじん助のような者が訪ねて来ないでもないので、棟続きの信女のいる所にそっと入るように言われた。

裏庭には一面にいろいろな種類の薬草が植え付けられてあり、もしかしたらその世話はまおがしているのかも知れない。きちんとしている。

それを見ながら戸を開けると中から白髪頭を後ろに一つ結んだ、痩せた老婆が出て来た。

湧き水の所で見かけた事のある老婆だった。

中に通されて家の中を見回すと、昔亡くなった父親が患者を診ていたというそこは今でも薬草の匂いが漂ってくる。信女とまおは今もここで薬草を刈り入れたものを薬に変えたり、調合のようなものをしているのかも知れない。

最初から思ったのだが、老婆はヘンリと勇作の二人を不審にも思わず、当然の事のように迎え入れ中に入れてくれた。もう和尚から連絡が入っているのか、それともこの信女という老婆は何もかも解っているのか?

すぐに茶が出された。それは寺できちがいつも入れてくれる濃い熱い茶と同じだった。

その茶に手を伸ばし味わっていると、老婆は二人の真向かいに座って二人の若者を交互に穴の開く程、じっと見た。

勇作もヘンリもこんなにあからさまに見つめられるのは初めてだったので、弱り果てて何か言わねばと話し始めようとすると、それを払いのけるように、

「二人共、合格じゃ。良い顔をしているワ。うん、この先はきっとうまく行くだろうヨ。うん、間違いない。自分の気持ちを信じて思うような道を想うように歩いて行けばいい。そうすれば、不思議にどこからか手が伸びて来て手助けしてくれるぞ!まず、自分の気持ちを信ずる事じゃ。」と力強く言い放った。

二人が呆気にとられ、こちらが一言も何も言い出せないでいるうちに、老婆はすっくと立ち上がると奥の間へ行ってしまった。

やがて奥から楚々とした美しい娘が現れてこっちの方をまともに見ないで離れた所に座り、伏し目がちに「まおと申します。」と言って丁寧なお辞儀をした。

途端に涼し気な風が良い匂いを伴って、サーッとこちらに流れて来たような気がした。

それ程、何とも言えない人だった。

ヘンリは一度すれ違った事はあるが、こうして目の前に見るとその美しさに圧倒されて何も言えなかった。

勇作は話には聞いてどんな娘なのか好奇心を抱いていたが、こんなにも目の醒めるような美しい女性を見るのは初めてだったので、ただただ驚き通訳の自分がまず何か言わなければならないと思うのに、一瞬戸惑ってしまっているようだった。

ヘンリから見てもいつもの勇作らしくないと思った。

それでも勇作はすぐに落ち着きを取り戻し、

「まおさん、ここにいるのはヘンリ、私は勇作と言います。先日からお寺の和尚様の所にお世話になっていて、この度のまおさんの災難を聞きました。」

そう言うと、まおはまた、フッと悲し気な顔をした。

「今、この場に居合わせたのも何かの因縁だと思います。和尚様とも相談してどうにかして貴女をお助け出来ないかと考えています。それに先立って貴女の気持ちを確かめに参りました。」

そう言ってから代官の元に行かなければ人柱にされるという話は本当か、庄屋のじん助がそう言っているのか?それはいつまでの話かを聞いた。

まおは言葉少なだったが、そう言って責められているのは確かで、最後の確認に来るのは人柱にされると言われる前夜の事だから、どっちが得かよーく考えておけと言って帰ったという。

そしてそれは三日後の晩だという。

「かなり強く言われたけれど、私の意志は変わりません。好きでもない人の所へ行くくらいなら人柱になった方がましです。」


まおは静かだがきっぱりと自分の言葉を話した後、淋しそうに笑った。


「そんな事はさせません。絶対にさせません。」

勇作が力強く言った。

まおが、「もしも、そういう事が出来るのでしたら、亡くなった母の言葉も、信女様の言葉も嘘ではなくなるのですネ。」

そう言って希望に満ちた笑顔を見せた。

希望が見えたせいか少し恥じらいがちに、母親が五歳だったまおに、お前はいつか幸せな道を歩む事になるから何も心配する事はないと言い残した事、信女もまた、まおが苦境に陥った時は必ず救ってくれる者が現れると言っている事を話した。

勇作はヘンリにまおが話した言葉を通訳して聞かせた。

二人はお互いに目を合わせ、何が何でも自分達がその救い手になって、この哀れな娘をここから助け出すのだとお互いの意志を確認して、その家を帰った。


じん助が三日後の夕暮れに確認に来るという事は四日目の朝は人柱にされるという事になる。もう時間は少なかった。

寺へ帰った二人は和尚とも相談し合った。

替え玉となる物を作ってまおを秘かに隠しておくのはどうかという事になった。

なおもあれこれ考えて一時的に岸から少し離れた所に浮かぶ小島に隠すのはどうかという事になった。

そしてヘンリを乗せる船が立ち寄るのは少し先だが、それまでの間はその小島にかくまう事にした。

信女が善爺なら力になってくれると言っていると言う。

善爺とはかなり高齢の沢伝いに下った浜辺に掘っ立て小屋のようなものを建ててそこで一人暮らしをしている老人だった。

そう言えば、たまに大きな船が立ち寄ると小舟で迎えに来ていくらかの生活の足しにしているという。さてはヘンリ達を乗せて送り迎えをしたのもその老人であったような気がした。

善爺なら磯舟を持っている。小島には番小屋があった。その磯舟で小島まで運んで大きな船が来るまでかくまって貰う。そう話がついた。

後の事も細かく考えて計画を立てた。

まず替え玉になる者をどうするかと言うと、信女がもう考えてあると和尚が言った。

もう大分前からその時の為に少しずつ用意をしてあるらしい。

そう言えば、寺に帰ったら必ずきちに手渡して欲しいという信女からの手紙があった。

あれはその時の準備が書かれていたのだろう。

後で解ったが、きちに手渡した手紙にはそれに必要なある者を縫って用意して欲しいという指示だった。

ヘンリと勇作の仕事は、庄屋のじん助が最後通告に来た後、即座にその日の真夜中にまおを浜辺で待つ善爺の所へ連れて行き磯舟に乗せて小島に移すというものだった。

その時、善爺だけでは不安なので、どういう場所にかくまわれるか確認の為にも勇作も一緒に乗って行く事になった。

その後、夜が明けないうちにまおだけをそこに置いて帰ってくる事に決まった。

信女はあの後、二人が訪ねて行った時も別棟の奥の方でしきりに何か煮ていた。

二人が自分達はこれから何をすれば良いのかと聞くと、夜になったらきちが用意してある物を持って来ておくれと言った。

その日の夕暮れ、勇作も一緒に寺で夕食を済ませた後、二人はきちが用意したという物を取に案内されて行った。

寺の脇の物入れには、もういつでも運べるように荒むしろやら縄やら何か縫った物、それに何に使うのか髪の毛の丸めた物等が用意されており、ヘンリと勇作は言われるままに日が暮れて暗くなって人の気配がなくなってから、それらの物を信女の所に持って行った。

「明日の夕方にはじん助が最後の脅しに来る筈だ。じん助が帰ったその後、すぐに段取りした行動が出来るように今夜のうちに用意しておくんだヨ。」と信女はグリグリした目玉で二人の若者に言った。

きちが夜食にと大きな握り飯を一つずつ持たせてくれたので、こういう時でもあるし。誰か突然の訪問者がないか二人は物置に隠れて握り飯を食いながら待っていた。

暫らく時間が経った頃、もうこの時刻には誰も来ないと判断したのだろう。

「さあ、始めるヨ。」と信女が呼びに来た。

二人に向かって、「これにこのコンニャクを詰めるんだヨ。」と言った。そこには人の形に縫われた白っぽい布があった。きちが縫ったものだろう。

傍のいくつかの木の桶には信女が何日かに分けて作ったに違いない大量のコンニャクが

用意してあった。

「さあ、これを入れておくれ。足の方から入れるんだヨ。あんまり多く入れ過ぎなくていいヨ。」

二人は樽や桶に用意されたコンニャクを入れて行った。

「まおは目方はあまりないからネ。ほどほどにするんだヨ。」


足に入れ、胴体に入れ、両腕に入れ、首の所まで入れて大体の感じを見た。

「ああ、これくらいでいいだろう。これ以上は入れる必要がない。」

そう言って首の所を一度紐で縛った。

それからまた、顔の部分にコンニャクを入れた。そして最後に一番上の口の部分をしっかりと縛り上げた。

信女が、「まあ、こんなもんだろう。」と言った。

人形の白いかかしのような物が出来上がった。

それから用意していた白い着物を着せ、頭の方は白い布で覆った。

更にその上にまおがいつも着ていた着物を頭からすっぽり被せて何本かの腰紐でグルグル中が解らないように縛った。

「どうだい?こんな感じなら解らないだろう?さあ、これはまおだヨ。まおが中に入っているんだヨ。毒を飲んだまおが入っているんだヨ」

信女はそう言ってそれを荒むしろの上の置かせた。

中身がコンニャクとはいえ、これはまおだと言われるとそれは、妙に人の亡骸のようにずしりと重く、いかにも中に人が入っているような感触だった。

ヘンリと勇作は二人がかりで頭と足の方を持って、荒むしろの上に置いたが、もしかしたら本当にまおがこの形になっていたかも知れないと思ったりした。

それから中身が解らないように足の方も、頭の方もむしろで包みグルグル巻きにした。

二人はいちいち信女に言われるままに手伝いながら、始終中身が人のように思えて複雑な物悲しい心持ちに襲われた。

「さあ、出来たネ。上出来だ!それではこれは明日の夜までここに隠しておこう。」と言って、人の目のつかない納屋の隅にそれを運ばせると信女は、あの髪の毛の丸めたものを取り出して荒むしろの所々にそれを挟み込んだ。

すると、縄でグルグル巻きにされたそのものは急に恐ろし気な様相を帯びて見え始めた。

その上に布をかけると信女は一安心したらしく、

「さあ、お前様方は今日はもう帰っていいヨ。明日の晩が勝負だ。その時。また手伝って貰うからネ。今日は疲れをとってぐっすり眠るんだヨ。」と言った。


まおは何を考え、何を思っているのか。

最後まで顔を出さなかった。

それが若い二人の青年達にとっては少し物足りなかった。

寺に帰り着くと、グッタリ疲れてはいたが、妙に頭が冴え冴えしてヘンリは眠れそうもなかった。

そして朝まで眠れぬままにいよいよ決行の日がやって来た。

和尚とは朝にまた話し合った。

和尚はこの村の檀家寺の和尚という立場から表立った事は出来ないが、もし誰かがそこに死者が出たと呼びに来れば出て行って経を読む。

それ以上の表立った事はせぬ方が良いだろう。そう言った。

まおを連れて行って逃がしたりするのは善爺一人の他はヘンリと勇作二人が何もかも実行する事になった。

もしも後で、まさかとは思うが、善爺の口から洩れる事ががあっても、もうその時は既に姿を消した二人の若い男の事はじん助であれ代官であってもどうする事も出来ないからである。

善爺にした所で、昔から信女だの和尚がよく知っている信用のおける人物だ。

後々まで知れる事はないだろう。

そして、いよいよその日の夜がやって来た。

案の定、庄屋のじん助がまおを訪ねて来た。

いくら何でも折れて言う事を聞くだろうと高を括っていたじん助は思わぬまおの硬い決意に慌てふためいて必死に説得にかかった。だが、まおは一言も言わずただ下を向いたままだった。

実は信女がまおに言い聞かせていたのだ。

例えじん助がどう旨い話をしようと何も言わないようにと。

そして、最後の最後にじん助がぶち切れて怒鳴りでもしたら一言、「覚悟はしております。」と言うがいい。そう言われていた。

まおはもとよりこんな男に口を聞く気など毛頭なかった。

果たして、じん助は自分の思い通りにならないこの娘が憎くなり怒鳴り出した。

「知らないぞ!もうどうなっても知らないぞ!お代官様も俺も折角お前の身を案じてお前を救ってやろうとしているのに。お前は自分から人柱になる事を選んだのだからな!俺のせいではないぞ!」と叫んだ。

まおは一言、「覚悟は出来ております。」と言った。


すると、あのずる賢いじん助もさすがにこの娘の意志の固さと身の硬さに驚いて、これはどうする事も出来ないぞ。本当に人柱になるつもりだと思うとこんな状態にまで追い詰めた事が空恐ろしくなって、逃げるように帰って行った。

じん助とてはなからこんなつもりでは無かった。

人柱をたてる等、大昔にそういう事があったという事は聞いた事があるが、自分が作る橋に人柱を、しかも自分の女房の姪にあたる娘を人柱にたてる等、本気で考えてはいなかった。

まおがあまりに美しく成長し、人の噂にのぼる程に美しくなったからだ。

お代官がこの娘を見たら間違いなく惚れ込む事だろう。それにこの事は、両親の無いまおにとっても出世というものだ。申し分のない良い暮らしが保障されるのだから。そして自分も何かとこの先いろんな事で仕事がやりやすくなる。

お代官と縁戚関係になるのだからナ。

そういう風に簡単な心づもりから始めた事だった。それは上手く行く筈だった。

だが、そのうち暫らくすると、どこから噂が耳に入ったのか、女房から問い詰められた。

「あんた、兄の娘のまおをお代官にって画策しているってのは、あれはまさか嘘だろう?」そう問い詰められた。

「ね、嘘だろう?嘘だって言っとくれ。おとつあんや、おっかさんが生きていたら、あんたなんかこの家を追い出される程、怒鳴りなすったろう。本人のまおは何て言ってるんだい?兄さんは勘当されたけれど、何も遊びが過ぎたり素行が悪くて勘当されたんじゃないんだ。立派な立派な兄さんだったんだヨ。その一粒種の娘をお妾にしようなんて。あんた、何を血迷ったんだヨ!あんたこそろくでなしだヨ!」

女房が泣いてじん助を責めたが、上手く行く筈だった計画が思うように行かずにいる所に女房からまで責め立てられて、じん助は「うるさいっ!お前は黙ってろ!」と怒鳴りつけるより他無かった。


その時、女房は改めて自分が選んだ婿がこんな性根の腐った男だったのかと心底がっかりしたが、一緒になってもう十七年も経ってみれば今更、どうする事も出来ないのだった。だからと言って、この先どうすればいいのだろう。

もしも、まおが本当に人柱にされたら私は死んでからあの世には行けない。

兄さんにも兄さんの嫁さんにも、そして両親にも会わせる顔がない。

兄さんが勘当されて以来、行き来が途絶えて兄夫婦が亡くなったと聞いた時も、残された幼い女の子を引き取らねばならないかと心配した事はあっても、親達も自分もその子の顔を見に訪ねたり声をかけたり、その後どうしているかと訪ねて行って何かしてやる事さえしなかった。

その事が今更ながら、どんなに薄情だったかと思い至り、更にあろう事か自分の亭主がその娘を食い物にしようとしていて、言う事を聞かなければ人柱にすると脅していると聞いた。

ああ、私達は何て恥知らずな人でなしなんだろう!

そうかといってどうすればいいのだろうか。自業自得とはいえ私はきっと地獄に落ちるだろう。

まおの亡くなった父親の妹であるじん助の女房は思い悩んで夜も眠れぬ日が続いていた。

そしてとうとうその夜、じん助の女房がこっそり寺を訪ねて来て和尚に胸の内を相談したのは、じん助がまおに最後通告をする前の日だった。

和尚は女房の気持ちを知ると、

「解りました。よく話をしてくれましたナー。それで貴女がそう説得したら御亭主の庄屋さんは何とおっしゃいました?」

「てんで話を聞こうともしません。あの人は半分おかしくなっています。私の所に婿に来た時はあんな人には見えませんでした。どこでこんなに変わってしまったんでしょう。和尚様、どうかお助け下さい。」

和尚は落ち着いた声音で、

「こういう時こそ御仏がいて下さるのです。御仏がきっと貴女のこの真摯な言葉を聞いて下さるでしょう。女房殿、まおさんにお会いになりますか?」と言った。

女房は驚いてワナワナと震えている。

「是非お会いなさい。そして貴女の気持ちを伝えるのです。だが、それは決して人に知られてはなりませんぞ。特に御亭主に知られてはなりませんぞ。もしも知られるような事があったら女房殿、貴女は本当に地獄に落ちるのを覚悟しなければなりませんぞ。」と和尚は言って柔和な目を険しくした。

その厳しい目で睨まれて震えあがりながらも、最後通告の前の日、ヘンリと勇作が信女の所へ行く前に、実はまおの元をじん助の女房が訪れて涙ながらにこの度のじん助のひどい仕打ちと今まで一度たりとも情をかけなかった事を悔やんで、女房は兄の娘であるまおに許しを乞うたのだった。

まおは、「亡くなった母親が幼い私にお前は大変な事も経験するが、必ず最後には幸せになると言っていました。それに信女様も必ず救ってくれる人が現れて救ってくれるから安心おしと言ってくれています。それがどなたなのか私にも解りません。ですが、私はそれを信じている所なのです。叔母様、今日は来て下さり本当に嬉しゅうございました。両親が亡くなって以来、信女様が私を守って育てて下さいました。信女様にはとても感謝しております。ですが、父や私と血の繋がった叔母様がこうして心配して来て下さった事は私の一番の励みになりました。叔母様、私が誰かにこの窮地を救っていただけるか、またそれが出来ずに人柱になるかどうか私にも解りませんが、全て御仏の御心に任せようと思っています。例えどうなろうとも、叔母様のその真心は一生忘れません。今まで、私のどこか冷たかった所に温かいものが入ったような心持が致します。どうぞ、私の行く末を良い方向に行くように祈っていて下さい。私はそれだけで急に勇気が湧いて来たような心持ちがします。」

女房はこの初めて会った娘に兄の面影を見出して胸が熱くなった。

そして出がけに家の中からかけ集めて来た銭を全部まおに持たせた。

まおはその志を見て、肉親の叔母の真心をしみじみと感じて嬉しかった。

「叔母様、私きっと幸せになれるような気が致します。」

別れる時のまおの最後の言葉だった。

それによって庄屋のじん助の女房はどれ程救われただろう。秘かに秘かにまおの無事を祈って日を過ごす事になった。

あんな亭主を婿に迎えたのが自分の罪なのだ。それをあの美しく成長した姪はニッコリ笑って許してくれた。

「御仏様、どうかどうかあの娘をお守り下さい」。

それが最後通告の前日の夜だった。

そしてその翌日の夕方、最後通告をしてもなお、まおの決心は変わらなった。

じん助は結局背中を丸めて帰って行った。

明日はいよいよ人柱を埋めるという日、村のあちこちでは村人達が秘かにどうなる事かと囁き合っている事だろう。

じん助が帰ってとっぷりと暗くなった夜陰に紛れて、ヘンリと勇作が信女の所にやって来た。

そしてまた、暫らくそこで外に誰かの気配がないか確かめ時間を過ごした。

それはもう村人の誰もが眠りについて夢を見ている頃だった。

やがて、もうよしと判断した信女が納屋の隅に隠してあった荒むしろで巻いたあの物をヘンリと勇作に運ばせて来ると、信女はそれを玄関の上がり縁に置かせた。

そして、それを見てこれでよしと納得すると、


「さあ、いいよ。まお用意は出来たのかい?」と奥に声を掛けた。

すると奥から黒っぽい着物を着て、顔もおこそ頭巾のまおが着替えの小さな手荷物を二つ持ってひっそりと現れた。

二人の若者はその姿にもはっと驚いた。

目と鼻と口だけが見えるその頭巾姿でさえ、更にまおを神秘的に美しく見せていた。


「さあ、お行き。もうこれが最後の別れだネ。幸せになるんだヨ。まお。」

と話す信女の声はさすがに涙のつまった声だった。

「お婆様、本当に小さい頃から心をかけて育てて下さり本当にありがとうございました。この御恩は死ぬまで忘れません。」

そう言うと、目にたたえた涙が溢れて幾筋も流れ落ちた。

二人の青年はその別れの様子を感動をもって見ていた。

「さあ、お行き。気を付けて行くんだヨ。どこで誰が見ているとも限らない。気をつけるんだヨ。善爺は信用の出来る男だし、後の事は何も心配しなくていいからネ。」と言った後、ヘンリと勇作に向かって、「頼んだヨ。」と言って信女はまおの背中を押して送り出し

た。まおの手荷物を一つずつ持ったヘンリと勇作は前もって歩いて様子を確かめておいた小道を、まおを中に挟むようにして浜辺まで歩いて連れて行った。

善爺は約束通り待っていた。


誰も何一つ声を出さず暗黙のうちに事は進んで、やがてまおと勇作と善爺を乗せた磯舟は岸を離れて行った。

舟影が静かに離れて行くのを見送った後、ヘンリは一人暗い中をトボトボと坂道を登って寺の方へ向かった。

これで一安心という安堵の気持ちとは裏腹に一人置いて行かれた淋しさが、ひたひたと身に染みて来るようだった。無性に淋しかった。何だか泣きたくなる淋しさだった。

すると登り道の途中に立つ人影があった。ヘンリはギョッとした。

もし誰かに何をしているかと見咎められたら、“散歩”と答えよう。

そう思ったが、それはきちだった。

見知らぬ国の暗い道、しかも一人残された淋しさの中、その心細さを思ってきちは途中まで迎えに来てくれたのだろう。ヘンリはその優しさに正直涙が出そうになった。

ヘンリを認めるときちは何も言わず先に立って歩き出した。

ヘンリもありがとうとも言わず黙って従った。

全て、粛然と秘密のうちに行われた。

暗い登り道を前を行く人のかすかな影を頼りに黙々と歩いた。

この闇のような異国の中にいるヘンリは、この今が夢の中のようで確かな現実とは思えないような気がした。それでもどこからかみかんの花の何とも言えぬいい匂いが漂って来てヘンリを包んだ。ヘンリは思った。

今日という特別な一日も確かに自分の歴史なのだと。この特別な中にいる今の自分を決して忘れないだろうと思った。

寺に着いて安心すると急に疲れを感じた。思えば、前の晩もほとんど眠っていなかった。

もう遅い時間でもあり和尚は既に眠ったのだろう。姿は無かった。

きちは小さなお盆に熱いお茶と、少し大きめのぐい吞みに例の不思議な酒だろう。たっぷり入れて乗せて来ると、何も言わずヘンリの休む部屋の隅にそれを置いて、軽く会釈をすると戻って行った。

物音一つ、虫の音一つしない静かな夜だった。

そう言えば、帰り道に振り返って見た時、下の方の信女の家の方角も灯が消えて暗くなっていた。誰もかも明日の為、眠りに着いたのだろう。

いよいよ明日だ。

この計画が成功するか失敗するかは明日決まるのだ。

そう思うと体はひどく疲れているのに、頭が冴えて今夜も眠れそうもなかった。

昨晩もほとんど眠っていなかった。

ここ最近、まおを助け出す事に興奮してなかなか眠れない日が続いていた。

今頃、あの小舟は島に着いただろうか?

勇作がいろいろ親身になってまおの力になり、世話をしている事は容易に想像出来た。

それを思うとヘンリの心は複雑だった。淋しい気持ちにもなった。

最初にまおを見たのは自分の方だった。

それなのに、いざという時には言葉の壁が邪魔をして思うように行動出来ないのが悔しい。何と言っても、このような状況では勇作の機転や心配り、それに何と言っても同じ日本人というのには勝てない。

ヘンリは、自分の国でなら何事も率先して出来たろうと思う。

自分は決して出しゃばりの性格ではないが、四・五人のグループの中では、いつも周りからあてにされ頼りにされる中心的な存在だった。

だが今、この見知らぬ国にあってはまるで幼子のようにいちいち説明され、さっきも途中まできちが迎えに来てくれたように世話をされ続けている。その事が今は悲しかった。

勇敢な騎士のように危険から姫を救い出す事が出来ないのが残念に思った。

横になっても頭だけが冴え渡って眠れそうもなかった。

さっき、きちが置いて行ったお盆の酒を呑んでみる事にする。和尚の注意を思い出したが、もう眠るだけなのだから、もしも急に酔いが回ってもいいだろう。むしろ、眠る為には良いだろうと考えた。

お茶の方はすっかり冷めていた。

ぐい吞みの酒を口に含むと、やはりあの甘い酒だった。コクリと呑むとトロリと甘くて旨い。これは何で作った酒だろう?

喉を通り過ぎる時、カッと熱いが舌や口全体に広がる何とも言えない飲みやすい甘い酒だ。すぐに体が温まって来た。

今日は何も考えずに眠るのだ。明日の為に眠るのだ。

残りを一気にゴクゴクと呑み切った。

最後に冷たくなったお茶を一口飲んで目を瞑った。

それからまた。勇作とまおの事を思い出した。

あの二人は似合いのような気がした。

勇作はこれからもきっと自分の全てをかけてまおを守って行くだろう。

それなら、勇作ではなく自分ならどうだろう?

ヘンリは考えた。

このまま母国に帰る船にまおを乗せて、自分の国に連れて行けるだろうか?

そうなった時の事を考えてみた。

両親も兄弟も驚くだろう。まあ、それはいい。だがまおの気持ちはどうだろう?

この国で生まれ、ここしか知らない娘。

言葉も何もかも解らない土地へ連れて行ってまおは幸せだろうか?

そんな事を考えているうちに酔いが回って来たらしい。眠りが自分の頭を逆さまに引っ張っていくような感覚でヘンリは眠りに落ちて行った。

そしてその夜、ヘンリは夢を見た。

体が凄く熱い、熱でもあるのか酒に酔ったのか解らないがフラフラしながらどこかを歩いているのだった。

回りは一面濃い霧だった。

ここはどこだろう?この間の滝の近くだろうか?

フラフラ歩いていると、先の方に人の影を見た。やがて、それはまおだと解って来た。

すぐ間近に近づくと、まおは涙で濡れた目でヘンリを見つめ、ヘンリの胸に飛び込んで来た。まおの体はヒヤッとする程冷たくて、ヘンリは凄く驚いた。だが頭の中で滝に打たれたからだナと思った。

それからヘンリは、若さにまかせてまおを抱きしめた。

狂おしい気持ちで抱きしめた。

そんな夢を見た。

夢のようなそれでいて現実のような不思議な夢だった。

ヘンリは次の朝、いつもより遅くまで眠ってしまって目が覚めた時は辺りがすっかり明るくなっていた。

和尚と勇作が話す声が聞こえて来て急いで出て行くと、和尚と勇作は朝食を食べていた。

ヘンリはすっかり眠ってしまった事を詫びながら膳について勇作の話を聞いた。

勇作はまだ夜の明けぬ暗いうちにしまから帰って来たが、善爺の小屋で少し仮眠をとり少し前にここに来たばかりだと言った。

小島にある善爺の番屋は案外きちんとしていて、あそこならまおは安全だと言った。

食料や水も置いて来たから心配は無いと言って笑った。

清々しい勇作の顔を見ると、ヘンリは昨夜の夢をフッと思い出して罪悪感に襲われた。

和尚が、「さあ、いよいよ今日だ。これからが勝負だ!何があっても儂もお前様方もなーんにも知らないのだヨ。何を聞いても聞かされても驚いた振りをしなければならないぞ。」と言った。

食事がすんで濃いお茶を飲んでいると、一人の男が血相を変えて飛び込んで来た!

「和尚様!和尚様!この下の信女さんとこの娘ごが亡くなりなりんさった!」

「何?誰が亡くなっただと!」

「あのまおというきれいな娘ごが亡くなりんさったとです!」

男は自分の身内が亡くなったように悲痛な顔をしている。

村人の誰もが事情を知っているからだ。

和尚が、「それでは信女はどうしている!」と聞いた。

「亡骸を前にしてただただ拝むばっかりだ!毒を飲んだ!毒を飲んだ!と言うばかりだ!夜中に信女婆さんが眠った後毒を飲んだらしいですじゃ。朝になったらもう変り果てた酷い姿になっていて、婆さんはその姿を人目にさらすのがあんまりにもしのびなくて、いつも着ていた着物でくるんで荒むしろでグルグル巻きにして縄で縛ったんだと言っている!」

「何の毒を飲んだのか、あのきれいな娘さんがブヨブヨの黒いコンニャクのように変り果ててしまって、ちょっと触ったら髪の毛が束でずるっと抜けたそうだヨ。とてもじゃないが、人の目にそんな姿をさらす訳にゃいかないと必死で荒むしろに包んだと言っている!哀れな子じゃ、哀れな子じゃ。なまじ美しい娘に生まれたばっかりに哀れな娘じゃと言っては拝んでいる。和尚様も来てお経をあげてやって下さい!哀れな娘が成仏するようにお経をあげてやって下さい。」

知らせに来た男も哀れな娘を思って泣いていた。

すぐに、和尚もヘンリも勇作もきちも驚いて坂道を下って行った。

信女婆とまおの家の前は、知らせを聞いた村人が多勢詰めかけて人だかりが出来ていた。

誰か気の付くものが荷車まで持って来ていた。

四人が人をかき分けて行くと、信女婆が

誰に言うともなく大きな声で叫んでいる。

「ほら!みんなが望んでいた事じゃろ!さあ、まおを連れて行け!連れて行って人柱にせい!まおは覚悟をして人柱になるんじゃ!覚悟をして毒を飲んだんじゃ!さあ、連れて行け!」と言っている。

すると群衆の中から、「本当にこれはまおか?」と聞く者があった。

すると信女が、疑うならこのむしろをほどいて確かめろ!こんな酷い姿になったまおをとくと拝むがいい。だがそれを見た者は死ぬまでその姿が頭から離れないだろうヨ。可哀想にこんな姿になって。誰のせいだ!?誰が言い出したんだ!まおをこんなにしたのは誰なんだ!

そう言うと、皆は一斉に振り返って人だかりの後ろの方にいる庄屋のじん助を見た。

皆から見られたじん助はその注目の意味を知ると弁解するように、

「俺だって昨日も考え直すように言ったんだ!早まった事はしないように説得したんだ!いくら話しても強情な娘だった。「覚悟していますた。そう言うだけで話にならなかったんだ。」と弁解した。

すると皆がまた、口々にザワザワ話し始めた。

「何とむごい。」とか「そういう所まで追いつめて。」とか。「死ぬより他ないと思ったんだろう。」とか言い始めた。

そんな人々の非難を払いのけるように、じん助は側の者二人に家捜しをさせた。

もしや、まおがどこかに隠れているのかも知れないと思ったのだろう。

信女は、「いくらもで探せばいい。まおが出て来るのならいくらでも探せばいい。」そう言った後、床に突っ伏してオイオイと声を出して泣き始めた。

身も世もない哀れな悲しみの姿だった。

和尚は経を唱え始めた。

きちは大量の線香に火をつけて亡骸に供えた。すると、ざわめいていた人々も涙を流して手を合わせた。

家の中をくまなく家捜ししていた二人はどこを探しても娘の姿がないので仕方なく出て来ると頭を横に振った。

それで皆は改めて、目の前の荒むしろに巻かれた遺体はやはりまお以外にないと思った。

しかもその荒むしろの所々には抜け落ちた長い髪の毛が恨めしそうに張り付いているのだ。長い和尚の読経に少し落ち着いたらしい信女は、

「皆々様、まおは皆様の御希望通り人柱になる覚悟でこの通り命をたちました。どうぞこの亡骸を橋の根元に埋めて下さい。さぞかし、頑丈な橋が出来るでしょう。」

信女はそう言って、亡骸に向かって手を合わせた後、こらえきれないように亡骸にすがってまたオイオイ泣いた。

誰も気が咎めてその亡骸に触れようとする者はいなかった。

ここにいる者達の誰一人、庄屋のじん助に面と向かって反対をする事が出来なかったからだ。

和尚が振り返って、後ろで呆然と見ているヘンリと勇作に向かって、荷車に乗せるのを手伝ってやってくれと指示した。

二人は仕方なしなしの様子でおずおずと亡骸に近づくと、手を合わせてから恐る恐る頭と足の方を持ってそれを大切そうに運び荷車に乗せた。

乗せてからも勇作とヘンリは手を合わせて頭を下げた。

見ている皆が、この尊い命に涙を流し手を合わせた。

それからその荷車について皆は橋の架けられている場所まで、葬式の行列のようにぞろぞろ歩いて行った。

その間中和尚はずっと経を唱え続けていた。

橋の根元に着くとそこには既に穴が掘ってあった。

じん助がまおを脅す為に掘らせたものだろう。

皆はそこまでは来たが、さすがにこの穴にまおの亡骸を投げ入れる事はあまりにも酷い事を知り、誰もが黙ってしまった。

どこかにじん助がいる筈なのに前に出て来ようとはしない。

すると信女が、「どうした!どうした!何故皆黙ってる!まおを入れる為に掘った穴だろうが。何故黙ってる!」と叫んだ。

人だかりの中の誰かが、「庄屋さん!庄屋さんが言い出した事じゃろ!庄屋さんが自分の手で穴に入れてやるのが筋だろう?庄屋さんはどこだ!」と言うと、皆は一斉に人々の後ろの方にいるじん助を見た。

だがじん助は蛇に睨まれた

蛙のように元々小さい体を小さくして、前に出て来ようとはしないのだった。

信女が「このままではまおが浮かばれん。逃げ切れぬと思って覚悟をして毒を飲んで死んだまおが浮かばれん。さあ、さあ、誰か!穴の中に入れる者はいないのか!」と叫んだけれど、後々の祟りを恐れているのか。誰一人自分がやると言って前に出て来る者はいなかった。

和尚がまた、「申し訳ないがお二人さん、これも何かの縁です。力を貸して下さらんか?」と後ろのヘンリと勇作にお願いをした。

二人は戸惑いながらも和尚に頼まれると、前に出て来た。

皆の注目を一斉に浴びて二人は亡骸に手を合わせた。

長い事手を合わせた。

回りの村人達からは鳴き声や若い命を惜しむ声がした。

ヘンリと勇作はこれが替え玉だと解ってはいても、まるで本当にこの中に人が入っていて今まさに、橋の根元に人柱として入れられようとしているのを感じた。本当に残酷な事だと思った。遠い歴史を遡れば、こういう事は実際多々あったのだろうし。現に今も、ヘンリと勇作が現れなければ、あの滝行までしていたまおはこの荒むしろに包まれて目の前の穴に埋められただろうと思うと、今の自分達の行為は芝居とはとても思えなかった。

なるべく亡骸が傷つかないように、しかも少しでも衝撃を与えないように穴の淵にそっと降ろすと静かに静かに滑り落とすように穴の底に落としてやった。

それを見て、信女がワーッと泣くと、周りの女達も今までこらえていたものを吐き出すように皆、オイオイ泣いた。それが犠牲になった若い娘への供養になるとでも思ったのだろうか。

みんな、可哀想に可哀想にと言って泣いた。

和尚がお経を唱えながら、

「土をかけてやって下され。土をかけてやって下され。早く眠らせてやって下され。」と言うと、男達が周りに盛られた土を穴の中にかけ始めた。

お経はその間中、ずっと続いた。

やがて穴が塞がれた土の上にきちが煙のあがる線香の束を置いた。

皆はただこの橋の為に犠牲になった美しいまおという娘の為に手を合わせて成仏する事を願うより他なかった。

そして誰もがそれぞれ自分の心の底に、ここまで追いつめたのは自分にも責任があるという悔い、苦くて痛い後悔が残った。そして一人一人の胸に二度とこういう事があってはならない。もしもこんなひどい話が持ち上がったら絶対、食い止めねばならないと秘かに思った事だった。

この事は後々までそれぞれの心に、村の者一人一人に責任が無かったか、その気になったらもしかしたら助けられたかも知れない。もしもあの娘がまおではなく自分の娘だったら、自分の妹だったらと考えない者はいなかった。

全てはうまくいった。

救出劇は八部通りうまく行ったといっていい。

後は母船が来たらまおも一緒に乗せてここを発つばかりだ。

ヘンリは寺に帰って来ると、何か自分の全部の力を使い果たしてしまったような脱力感に襲われた。

勇作もそのようだった。もう以前のように外に出てあちこちを見て回る気持ちが起きなくなった。

勇作は自分の宿泊する宿へ帰って行った。

ヘンリも自分に与えられた部屋で横になってボンヤリしたり、うとうとしたりした。

和尚もそうだろうし、きちもそうだろう。

寺の中は妙にシーンとしていた。

そして夕食は大して話もせずに黙々と食べて、ヘンリは部屋に戻ると久しぶりにこの数日間の出来事をノートに書き記した。思い出せる限り詳しく書き記した。

思えば不思議な体験だった。

自分がこの不思議な国の昔話の中にいるような気分だった。

こんな奇妙な体験は忘れようとして忘れられないが、出来るだけ細かい所まで書き記した。数十年後にいつか鮮やかに思い出せるように見た事、感じた事を全て書き記した。

やがて書き疲れてそのまま眠ってしまったのだろう。

朝、目が覚めると厚く綿の入った夜着がかけられていた。

きっときちがかけてくれたのだろうと思って、その真心にまた感動と感謝の念が湧いた。

この国の女性の気遣いには感謝する。それともきちが特別なのか?と思ったりした。

目が覚めてみると、昨日のあの出来事が嘘のように明るい朝陽の中に新しい一日が始まった。村人のそれぞれの胸の中には昨日の事はどのように残っているのだろう。

ヘンリはまおが生きている事を知っているが、もしも不幸にして誰かが亡くなって、この世から消えても一時は嘆き悲しむが、そのうち一日、また一日と死者は忘れられて行くだろう。人という者は日々の雑事に追われていつまでもいつまでも悲しみをかかえてはいられないのだ。

ましては、まおには肉親もなくもしも死んだとしてもいつまでも身をよじって悲しむ者はいただろうか?自分にした所でそうなったら、あの美しいまおの事を美しく悲しい旅の思い出に時々思い出すにとどまった事だろう。

本当にまおを助ける事が出来て良かったと思った。

朝目が覚めるとヘンリは一人滝に行ってみたくなった。

今日はさすがに勇作の姿は無かった。

ヘンリはきちに、身振り手振りで滝に行って滝に打たれたいと伝えようとした。

きちは真剣な眼差しでヘンリの言いたい事を聞いていた。初めて見るきちの顔はひたむきで美しいと思った。きちはやがて解ったらしく和尚の浴衣を貸してくれた。小さな和尚のものなので袖丈も着丈も短くて、つんつるてんだったが、ヘンリは残り少ないこの旅の記念にあの滝に打たれてみようと思い立ったのだ。

滝行には欲望や雑念を払う修行の意味合いと、くじけそうになる自分を励ますという意味もあると和尚が言っていた。まおはどんな気持ちで滝に打たれていたのだろう。

まおは五歳の時両親を亡くし、その時から信女に育てられた。

信女もまおを大切に育てたのはあの様子を見ていて解る事だったが、まおにしてみれば肉親のいない身の上、どんなに心細かったろう。すがりついて思い切って泣ける相手のいないまおの孤独を思った。

それに引き替え、あの小島で両親のいないあのまおが待っているのはきっと勇作だと確信した。

まおを心から受け止めて幸せにしてやれるのは勇作しかいないとも思った。

ヘンリはほんのひと時だが勇作をうらやんだ自分が大人げないように思えて、自分で自分を笑った。そして気持ちを切り替えて、滝に向かって一足一足登って行った。

修行僧は滝行をするという。自分も今は人生の修行中だ。

折角この国に来たのだ。何事も経験してみよう。

ヘンリは心を決めて冷たい水の落ちる下に進んだ瞬間、息が止まる程の冷たさだった。

無我夢中で早口で五十まで数えた。更に五十から百まで数えるのがやっとだった。

体の芯から冷たい滝の水で洗われたような気がしたが、それは後の感想で百まで数える事で自分は降参した。

見るのと自分で実行するのでは大違いだった。

震えて寺に帰って来るときちが風呂を沸かしてくれていた。とても嬉しかった。きちは何て優しいんだろうと思った。

久しぶりに母親の優しさに触れたようなそんな気がした。

心も体も浄化されて自分が新しい自分になったような気がした。

勇作はまだ顔を出していない。

きっと善爺の所にでも行っているのだろう。

ヘンリは自分の部屋でゆっくりとノートに向かった。

書く事はいくらでもあるような気がした。

そしてまた、残り少ない時間を和尚とのおしゃべりに費やそうとした。

勇作のいる時はいろいろ聞きたい事を質問した。だが勇作のいない時も年老いた和尚の側にいるだけで、この人の“徳”に触れているようで心が満足した。

それからもいくつか勇作とヘンリは古い寺を見て回ったりしたが、全ての感じ方がガラリを変わったような気がした。

やがて明日は別れの日というその前日、和尚が、

「ヘンリ、この国に来てどうじゃ良かったか。」と聞いて来た。

「ええ、貴重な体験をさせていただきましたネ。」と言って勇作を見ると、勇作も笑いながら通訳してくれた。

和尚も笑って、「この土地の馬鹿気た考えを知ってさぞがっかりしたでしょうな。」と聞いて来た。

ヘンリは、「最初、ここに着いた時は誰もが純朴で奥床しく善良でまるでおとぎ話の中に住む人々ばかりで、悪意は少しも存在しないのじゃないかとさえ思い込んでいましたが、この度の事件を目の前にして少し安心しました。

橋に人柱をたてる等、誰が考え出したのか。恐ろしい迷信が今も行われている事に非常に驚きましたが、僕のいる国にだって昔は魔女狩りだのいろいろありました。迷信や集団行動の誤りはどこの国にでもあるものなのですネ。悲しい事ですが……。」と言うと和尚は、

「人間はどうしてあんなにも愚かになれるのかのー。一人一人はあんなに善良で気の弱い小さな人間なのにそれが誰かに先導されると自分では心のどこかで悪い事だと気づいていながら、その波に飲み込まれて押し流されながら自分もその波の一部になってしまうのだから本当に情けなく嘆かわしいのー。やはり愚かだからかのー。しっかりした考えの立派な強い人物が先に立たなければ、この村も終わりじゃ。村のみんなもこの度の事で気が付いた者は多い筈じゃ。どうにかせぬといかんとな。そう言えば、じん助の息子も大分大人になって来ているようだ。いっそ息子を庄屋にした方がいいんじゃが、じん助の女房もこの度の事で愛想をつかしたようだし、いずれ息子がとって代わる日も近いだろうヨ。このままではホトホト嫌になって来るからのー。儂も長生きし過ぎたワ。もうあの世の極楽という所に生きとうなったワ。」とぼやいた。

勇作が笑いながら、「この度の事では和尚様がいたから皆が一つになってやり通す事が出来たんです。和尚様のお蔭です。」

そう言うと、「なんのなんの儂なんぞはお経を読んだだけじゃ。全て信女のお蔭じゃ。昔からそうじゃった。信女、あれは大した女じゃ。あれには儂は到底かなわん。きちも陰で協力していたようじゃが、何から何まで采配を振るって段取りしたのは信女じゃ。まおにこんこんと言い聞かせ、きちに手伝わせ、善爺を取り込んでヘンリと勇作をうまく手伝わせた。自らも一世一代の迫真の演技で村人全員の心に訴えた。こんな酷い事をしたのは誰だ!ってな。あんなじん助の言いなりになってここまでまおを追い込んだのは誰だ!信女はそう言いたかったんじゃ。あの女は、女にしとくのは勿体無い女だ。いつの間にかきちを生み育て上げていただけでも驚いておるのに、あの幼いまおをあんなにも楚々とした美しい娘に育て上げたのは信女だ。勿論、姿形は生まれついたものだが、読み書きを教え、一通り

行儀作法を教え込んだ、まおが持つあの美しい風情は信女が心底あの娘の父親、母親が生きていた

ならどう育てたろうかと思いながら、心血を注いで導き育てた結果だろうと儂は思っておる。

信女は凄い女だ。

だがきちも出来た娘だぞ!勿体無い程の娘だぞ!

ただナー、あの信女やきちに見合う程の男がこの辺りにはいないという事じゃ。残念ながらナ。」

和尚はそう言って悲しそうに笑った。



そしていよいよこの地に分かれる日がやって来た。

昨夜のうちに沖の方に大きな船がその姿を現して待っているのが高台から見えた。

ヘンリの胸には嬉しいよりも一種物悲しい心持ちが湧いて来るのを、これが旅情というものかと感じていた。

若い気分の思い付きでここに降り立ったヘンリだった。

本当に深い考えはなかった。

何故かと言われたら、あのフワーッと流れてきたみかんの花の香りが何とも言えず、この美味しい空気の土地で心と体を休めたいと思いついた事だった。

だが今、この土地はヘンリにとってかけがえのない故郷になってしまった。

今、この土地を去ったなら恐らく二度とここに来る事はないだろう。

ここでの時間は永遠に自分の心の思い出になってしまうだろう。

自分は国に帰ったら自分の道を探し歩き出さなければならない。

そして、二度と自分の人生に、これと同じような時間は訪れないだろうと思う。

それだから尚更、ここでの一つ一つの事が限りなく宝物に思えて来るのだった。

何年後かにまた、ここに戻って来たいと思う。

だが例えそれが叶ったとしても、今のこのものとは全く違っているだろう。

この年老いた和尚はその時はもういないかも知れない。

そして勇作も自分もその時は分別のついた社会的な大人になっているだろう。

結局同じ時間は二度とは戻って来ないのだ。

沖に浮かぶ自分を待つ大きな船を見ながらヘンリは胸を抑えて、今のこの自分に話聞かせた。

「ヘンリ、よく覚えておくんだヨ。

今のこの空気、今のこの匂いをよーく覚えて頭に刻みつけておくんだヨ。」

そう言い聞かせた。その夜はいつまでもいつまでも眠れなかった。

そしてとうとう朝になった。

いよいよ寺を出る時が来たのだ。

別れの時、和尚はその枯れ木のような姿でヘンリと勇作の若い二人を名残惜しそうに見上げた。

その姿はいかにも小さく弱々しく見えた。


「この一ヶ月、久々に儂もお前さん方のように若い気分になれて楽しかったヨ。」と弱々しく笑った。

「“冥土のみやげ”というけれど、本当にいい思い出になった。あの世に行く時まで度々思い出すじゃろのー。」と言って、木を削って作った十センチばかりの小さな木仏を一体ずつ勇作とヘンリにくれた。

「勇作はこの国の人間じゃが、もう儂が生きているうちに会えんじゃろうし、ヘンリは尚更だ。異国は遠い。もう会えない事は解っているヨ。儂が話した事が少しでも何かの足しになってくれればいいがのー。」と言って目をショボショボさせた。


ヘンリは自分が大事にしていた小さな詩集の裏表紙の内側にヘンリ・マコーミックとサインをして、それを「他に何も持っていません。これを私だと思って……。」と言って和尚のしわくちゃな手に渡した。

そしてその手を両手で包んで心を込めて握手をした。

和尚の手はカサカサして細くてちょっと力を入れたらポキリと折れそうな程痩せていた。

次に隣にいるきちに手を差し伸べて握手をした。

以外にふっくりした見た目のその白い手を握ると、氷のようにヒヤッとする冷たさだった。

その冷たさに驚いて目を見ると、きちの目は涙で潤んでいた。

流れ落ちこそしないが潤んで、優しく愛おしむようなその眼差しはヘンリを一瞬切ない気持ちにさせるものがあった。

そんなきちの顔を見るのは初めてだったからだ。


そうしてヘンリと勇作は後ろ髪をひかれる思いで寺を後にして坂を下りて来た。

下って来る途中、信女の家の前に信女が立っていた。

二人が頭を下げると、


「お二人共、先は洋々としておるぞ!だから何事も自信を持って進むんじゃぞ!自分を信じて行くんじゃぞ!」と言った後、勇作に向かって、

「宝を大事にするのじゃぞ。」と一言、言った。


磯に行くと善爺が待っていた。

善爺の磯舟に乗って小島まで行った。

小島にはきれいな着物に着替えたまおが待っていた。

相変わらず美しかったが、もう以前のようにヘンリの胸を騒がせる事はなかった。

そこで善爺は沖の船に向かって大きく旗を振った。

すると母船から小さな舟が向かって来た。

その舟と善爺の二つの舟に乗って行き、三人は無事大きな船に乗り移った。

そして善爺だけが一人また、浜に向かって帰って行った。

勇作もヘンリも口々に、「ありがとう。ありがとう。」と小さな善爺の背中に叫んだ。

船ではまおという新しい客に驚いたが、勇作とまおの二人は次の港、長崎に降りると聞いて客達は、日本の美しい女性とすぐに別れになる事を惜しんだ。

まおは異国人達の中においても見れば見る程美しかった。

そして輝くような美しさは、死の淵から救い出されて自由になった喜びと頼りになる勇作に巡り遭えた喜びによるものだったかも知れない。

きっと勇作とまおはこの後も人生の旅を共にして行く事だろう。

少し羨ましく思わないでもなかったが、ヘンリは素直に二人の幸せを祈った。


夕暮れには勇作とまおが降りる港に着く予定だという事だった。

陽気な客達は二人の別れを惜しんで送別の会を開いてくれた。

その最中にまおが勇作に何か言った。

すると勇作が皆に通訳した。


「まおさんがこう言っています。この船に乗って、例え短い時間でも皆さんと御一緒出来た事は私の一生の思い出になるでしょう。私は何の芸も御披露出来ませんが、亡くなった母がいつも歌っていた歌を、とても恥ずかしいですがここで歌いたいと思います。」


そう通訳すると皆が一斉に拍手をした。

ヘンリは驚いてしまった。

あの口数少ないいつも下ばかり向いて悲しそうだったまおが、この多勢の異国人の人々の前で歌を歌うというのだ。

この国の女性は表には出さないが、内には限りないものを秘めているのだろうか?

一瞬、信女やきちの顔が頭に浮かんだ。

この国の女性は謎だ。ヘンリはそう思った。

まおが勇作に何か言うと、勇作は頷いてまおの横に立った。

まおは心細くて恥ずかしいのをまるで勇作に支えてもらうように、勇作の腕につかまると歌い出した。


忘れられないー あの面影をー

探し求めてー 山河はるかー

私は来たのー

海をも越えてー 貴方のもとにー

私は来たのー


美しい声だった。

美しく哀調のあるメロディだった。

歌い終わると皆がブラボーと言って褒め称えた。

すると勇作が、その歌の意味を英語に訳して伝えた。

そして、まおにもう一度歌うように促した。

まおは微笑んで頷くとまた歌い出した。



忘れられないー あの面影をー

探し訪ねてー 山河はるかー

私は来たのー

海をも越えてー 貴方のもとへー

私は来たのー


前よりも一層盛大な拍手が起こった。

まおも嬉しそうだったが、その腕をとる勇作の顔も晴々としていた。

二人はきっと結婚するだろうとヘンリは思った。

前々からその運命は決まっていたのだろうと思った。

和尚から聞いたまおの母親が話した事が頭に浮かんだ。

占い等信じた事のないヘンリだったが、まおの母親が若い頃占ってもらった水蓮という女性や、信女のような女性はきっと何か普通の人にはない力を持っているかも知れない。

そういう人の力を侮ってはならない。

ヘンリは信女の

“自分の信ずる道を行きなさい”という言葉を信じてみようと思った。


長崎の港に着いて二人を降ろして別れる時、勇作とヘンリは住所を教え合って抱き合った。

二人はお互い親友になっていた。

まおは別れる時ヘンリの目をしっかり見て、「助けていただき本当にありがとうございました。」と言った。

その意味は通訳して貰わずともヘンリにはよく解った。




あれから何年経つだろう。

ヘンリは七十八歳になっていた。

あの時二十三歳だったから、あれから五十五年経った計算になる。


ヘンリは今日も窓から広い庭の見える自分の書斎の座り心地の良い椅子に深く腰掛けて、机の引き出しから取り出した古いノートを開いた。またも昔を思い出し、あの時のあの世界に行こうとしていた。

机の上には宝物の小さな木彫りの仏が愛らしい無垢な微笑みを浮かべてこの長い年月、ヘンリを見守って来た。

ヘンリはこの木仏を見る度にその昔、異国の地の道端に置かれていた石仏達を思い出す。今も尚、道行く人々から手を合わせられ、人々の心の悩みや苦しみを聞いてその心を慰め続けているのだろう石仏達、ヘンリはあの時確かに石仏と話をしたのだった。

心が通い合ったのだったと思う。そんな事を話せば笑われるに決まっているが、あの時石仏は自分の話しかけに対して答えてくれたのだったと今も信じている。

幼い子供の頃は、大人には見えない物を見、聞こえない声を聞く事が出来るという。

だが大人になると、世の中の常識が邪魔をしていつの間にか不思議の世界には帰れなくなるという。

ヘンリの数多い知り合いの中に妖精を見た事があるという女性がいた。

ヘンリが大学の講師だった頃、その彼女は学生だったが自分は確かに子供の頃、この目で妖精を見たのだと真剣に語った。

彼女の話によると、それは春の温かい気持ちの良い日だった。

あれは家の近くにある野原で遊んでいる時だった。黄色い蝶があちこちヒラヒラと飛んでいたが、その中に一羽だけ小さな小さな水色の蝶を見かけて、彼女はその蝶を追って行った。

蝶は彼女と遊ぶように高い所にも行かず遠くにも行かずその辺をヒラヒラ飛んでいた。

とにかく愛らしくてきれいな蝶だったので、その蝶が木の切り株にファッと止まった時にも彼女には捕まえる気はなかった。

でも近くでよーく見てみたい気持ちは強かった。

彼女は静かに恐る恐る近づいて行った。そして話しかけた。

「蝶々さん、逃げないで。私はあなたを捕まえたりしないワ。あなたと話がしたいだけ。」

そう言いながら近づいて行くと、蝶は逃げないで羽ををたたんでそこにじっとしていた。

だから彼女はその蝶をしっかり見る事が出来た。

何と!その小さな小さな水色の蝶は妖精だったのだ。

よくよく見ると羽根の下に頭も腕も足も見えた。そして可愛い素敵な顔をこちらに向けて彼女をじっと見ていた。

数秒間、彼女と妖精は見つめ合った。

何人かの男の子達がこっちに向かって来るのが見えたので、彼女は妖精に「さあ、飛んで行きなさい。あの男の子達に捕まらないように。高く高く飛んで行きなさい。」

そう言うと、水色の蝶は切り株を離れて、空高く飛んで行ったというのだ。

「あれは嘘ではない。本当の話です。でも誰も本気で聞いてくれる人はいません。先生なら聞いてくれると思って話しました。」といった

彼女はいたって冷静で知性があり、嘘をついて人の注目を集めるような女性ではなかった。

ヘンリはその女性に向かって、「君は誰もが見る事の出来ない妖精を見る事が出来たんだネ、とても幸運な事だヨ。」そう言うと、彼女は満足そうな顔をしていた。



ヘンリは今小さい木仏を見ながら、とりとめのない事を思い出していた。

これから私はまたあの若かったころに帰って行くのだ。何度となく繰り返しているのに胸が高鳴った。引き出しから取り出して手にしているのは魔法のかかったノートだった。

それを開けばいっきに何十年の時空を越えてあの頃を鮮やかに思い出す事が出来る。

今日、妻のスーザンは近くの友人の所にお茶の会に呼ばれていそいそと出掛けて行って留守だった。

出掛ける時、お腹が空いたなら食べてネと言って焼いたばかりのホットケーキの傍にこれもスーザンの手作りのマーマレードを添えてまた、ポットカバーを被せたポットにはたっぷりの熱い紅茶と他にヘンリの大好きな熱い濃い緑茶を用意して出て行った。

こめんなさいネ、一人にしてと申し訳なさそうにしながらも、友人達とのおしゃべりのお茶の時間はスーザンの楽しみなので、ヘンリは気持ちよくスーザンを送り出した。

実はこれからの一人の時間が心おきなく思い出に浸るヘンリにとっての至福の時間でもあるのだから少しも不満は無かった。

今までもう何度となくそうしているのだが、ノートを開く前には濃い緑茶を一口飲んだ。

昔、あのお寺で飲んだ濃い緑茶は美味しかったナ。そう思いながら、何口か飲みノートを開く。

何度読み返しても、そこには二十三歳のヘンリがいて、しかもそのヘンリは今の自分とは思えない程、純粋ですぐに何事にも感動する微笑ましい程チャーミングな男だった。


私は昔、こんなだったんだナ。微笑しながら読み進む。

こんな風に見て、こんな風に感じていたんだナ。当然の事だが、今や七十八歳になったヘンリは落ち着いた物の見方、世間の常識に添った考え方をする人間になっていた。

従っていちいち驚いて感動する事も無くなった。

その今の自分から見れば、あの頃の自分は何て青くて初々しくて危なっかしくて愛らしく見える事だろう。

それなのにあの頃は、あの頃で自分はもういっぱしの大人だと思っていたんだからと笑いもし、愛おしくも見えて来る。

それにしてもあの時、信女の言った事は今思い返しても正しかったと思う。


ヘンリは旅を終えて帰って来ると内定していた職につかないで、もう少し勉強したいと言い出した。

あの時は両親や兄達からは凄い剣幕で何故だ!と問い詰められたっけ。

将来を約束された、世間的にも誰もがホーッと認め羨望される職場を棒に振るというのだから身内としては当然の反応だった。

だが当時のヘンリは、家族から何故かと言われてもうまく説明する事が出来なかった。

強いて言えば、自分には合わないと思ったからだった。しかし、両親にはやりたい研究があると言い張って、初めて自分の我を通した。口に出しはしなかったが、あの信女の言葉が背中を押していたような気がする。

案の定、出世コースをやめた事を知ると、ヘンリの周りを取り囲んでいた仲間達も女の子達もそれぞれ進むべき道が違うとばかりに散って去って行ってしまった。

だが何故かヘンリが引き止めもしないのに、スーザンだけが一人ぽっちになったヘンリを相変わらず微笑んで見守ってくれているような所があった。スーザンはヘンリの取り巻きの中でも一番目立たない娘だった。

ヘンリは正直、その時ははっきりとした特別の計画を持っている訳ではなかった。

ただ、あの出世コースの道だけは自分の進む道ではない、自分には向いていないと直感的にそう思っただけだった。

それでもいつまでもブラブラしている訳にも行かないので、あの旅行を思い立った時に何かと参考の資料を貸してくれた大学の教授の所へ出掛けて行った。

自分の気持ちを理解してくれそうな人はその人だけのような気がしたからだった。

教授に旅行はどうだったと聞かれ、「きっと一生の宝物になると思います。この旅で自分の進むべき道は他にあると思い直して、実は内定していた就職を断って家族から呆れられています。両親には研究したい事があると言ってはみたのですが…。」そう言うと、

教授は深い目で、「ヘンリ、君の中ではもう決まっているのじゃないかネ。自分のしたい事が。」と言ってヘンリをじっと見た。

教授からそう言われた途端、不思議にも今まで自分の中で混沌としていたものがいきなり渦を巻いたかと思うと、頭の後ろで形を成して言葉になって飛び出して来たのだった。

「先生、あの国の事や、あの国の周りの国々、つまり東洋の事をもっと知りたいのです。宗教もその一つです。そこに暮らす人々の事、考え方等。私はそういうものに凄く興味があるんです。」と言っていた。

ヘンリは自分の話した言葉に身体を支えられて晴々した気持ちだった。

すると教授は、「君の旅行は大成功だったようだネ。研究にはまず興味や好奇心が一番大事なんだヨ。何を研究したら良いか解らずに、人からこれなんかどうかと言われて研究する者もいるが、知りたい、もっと知りたいという内から自分を突き動かす欲求が研究をより深くするんだヨ。君がその気持ちなら私も力を貸そう。」

そう言ってくれて自分の研究室に助手のような形で入れてくれた。

ヘンリはそれから自分の興味のあるあらゆる書物を読み漁り、増々東洋の世界にのめり込んで行った。

結局、“好きこそものの上手なれ”という日本の言葉通り、ただただ好きな事を研究し続け、いつか教授にまでなったのは自分でも非常に幸運だったと思う。それにどんな時も見守ってくれていたスーザンはヘンリの妻になった。

やはりスーザンはヘンリにとって心優しいこの上もない良き伴侶だったと思う。

二人の間に子供は恵まれなかったが、それだから尚更、ヘンリは思う存分研究に没頭出来たし、また学生達も代わる代わるヘンリとスーザンの家を訪れた。

まあ、いわばヘンリは学内でも人気の教授だったと思う。

だから子供がいないからと言って少しも淋しくはなかった。

スーザンも学生達に囲まれていつも楽しそうだった。中でも手作りのマーマレードは評判が良く学生達はホットケーキやトーストに添えてそれを出すと喜んだものだった。

ヘンリもマーマレードが大好きだった。

あの口に含んで鼻にぬける時のオレンジの香りは、あの思い出のみかんの花の香りを思い出させた。あの花の香りが風にのってフワーと流れて来たあの土地の事が鮮やかに蘇って来そうな錯覚に陥るのだ。そしてその後、少しがっかりした。

やはりあの時のあの場所でしか感じ得ない香りだった事に気付き、しょんぼり自分に帰ってくる。そんな気持ちを繰り返すのだった。

だが、マーマレードはいつも口に含むとヘンリをあの懐かしい、あの頃を思い出すきっかけは作ってくれる。

ヘンリはだが、今の生活には満足している。とうとうゴージャスな広い大邸宅に住む事は出来なかったが、スーザンがいつも手入れを怠らないこの愛らしい庭のある家を気にっている。もう大学はとうに退職していたが、退職後も何年かは時々東洋の話をしてくれと依頼があったりで落ち着かなかったが、この頃では本当に解放されて自由の身になったと喜んでいる。それは少しも淋しくはなく、これからは自分だけの時間なのだと喜んでいる。

自分の好きなものだけを見、好きな音楽を聴き。自分の為にだけ生きていい時だと思っている。

スーザンはおっとりしていて決してうるさい性格ではないが、それでもそのスーザンさえ健康でちょっと留守にしてくれるのなら、ヘンリは誰に気兼ねなく自分一人の世界に入って行けるのだった。

ヘンリはこの与えられた一人の時間には待ち兼ねたようにノートを開いてあの頃に戻る事があった。

ヘンリの頭の中のあの国の緑は冴え冴えとして、そこに漂う朝の霧もいかにも幻想的に漂い道端の石仏達もこちらが話し掛けさえすればいつも語りかけ癒してくれる。何度もノートを読み返していると、あの頃には気付かなかった事までもが年月を経て人生の経験を得た今のヘンリだからこそ理解出来る事も多かった。

ああ、和尚が言っていたのはこういう事だったのかと。

若いあの時、解らなかった事が今初めて合点が行く事もあった。

そう解ってみれば一つ一つの事がまた味わいのあるものに見えて来るのだった。

ヘンリは古いノートを宝物にしてこのように幾度も繰り返し楽しんでいる。


その時玄関のチャイムが鳴った。

珍しく客のようだ。

スーザンがいないのでヘンリが椅子から立ち上がって玄関に出て行った。

戸を開けるとそこには見知らぬ紳士が立っていた。

背の高い紳士だ。身なりも良く目に親し気な微笑みを浮かべている。

誰だろう?見知った学生の一人でもない。落ち着きのある雰囲気で年頃は五十前後だろうか?ヘンリは一瞬でそんな事を考えた。

相手の紳士は、「突然お邪魔して申し訳ありません。ヘンリ・マコーミックさんですネ。」ときれいな発音の丁寧語で聞いて、

「私は勇作という者です。」と自分から名乗った。懐かしい名前だと思った。

ヘンリは改めて勇作と名乗る男を見た。

そう言えば、どこか日本人らしい所もあるが…。

それに、その笑顔にはどこか懐かしい面影を感じる。誰だろう。誰に似ているのかナ?

ああ、一番上の兄が笑った時の顔によく似ていると思った。

兄達はもうこの世の人じゃないけれど、ヘンリは親しみを感じて中に招き入れた。

勇作という名前は正に今、ヘンリが開いたノートの中に出て来た通訳の名前だったからだ。幸いスーザンが入れて置いて行った紅茶ポットのお茶はまだ温かい筈だった。

勇作と名乗った男は周りをぐるりと見回して、

「ヘンリさんは大学の先生をしていらしたのですネ。」と話した。

そして他に気配の無いのが解ると、「今はお一人ですか?」と聞いた。

「ええ、妻がおりますがいま、留守にしています。」

そう答えると彼は心無しかホッとしたような顔をした。

ヘンリが、「私の事はどうして知ったのですか?貴方はうちの大学の学生だったんでしょうか?勇作と名乗りましたが、勇作の息子さんですか?」と質問した。

するとその勇作は、上等な上着の内ポケットから名刺入れを出してそれを一枚抜き取るとヘンリの前に出した。

そして申し訳なさそうな顔をすると、

「突然で驚かれると思いますが、私は二十歳になってからこの名前を使っております。」そう言った。

その

名刺には会社の名前と共に、ヘンリ・勇作・マコーミックと書かれてあった。

自分と同じ名前だった。これはどうした事だろう。

つまり、ヘンリの名前の間に勇作を入れてあるのだ。

戸惑いを隠せないでいると次に勇作はポケットから小さな本を出して、裏表紙の内側を開いて見せた。

見覚えのある自分が大好きだった懐かしい詩集。そこにはまぎれもなくヘンリの自分の筆跡で、ヘンリ・マコーミックとサインが入れてあった。

「この詩集に覚えがありますか?」と言う。

「あります、あります。これは私が若い頃日本に行った時、お寺の和尚様にプレゼントしたものです。でも何故あなたがこれを持っているのですか?」と聞くと、

勇作はヘンリの言葉に気落ちしたのだろう。少し悲し気な目をして、これは私が十三の時に家を出る時、母から渡された物です。私の母の名前はきちと言います。覚えておられませんか?」

勇作は心配そうにヘンリの顔の表情を見た。

ヘンリの中にすぐに懐かしい無口な女性の顔が目の底によみがえった。

「きちさん?忘れません。きちさんにはとてもお世話になりました。きちさんはお元気ですか?」と聞いた。

そう聞きながらもヘンリは頭の中で、あのきちは結婚して子供がいたのかと驚いていた。

だがそれも不思議ではない。だが何故?私と同じ名前なのだろう?


「昨年母は九十三歳で亡くなりました。今、生きていれば九十四歳になります。それでも長寿を全うして本人は幸せな人生だったと言い残して逝ったそうです。私はその場に立ち会えなかったのですが、一緒に住んでいて薬草畑を手伝っていた女の人がそう言っていました。」

そう話しながら、勇作は少し淋しそうな顔をした。

「私がここを訪ねて来ましたのは、実は母きちとの約束があって今日まで来たくても来れなかったからです。」

そう言った後、何か考え込んでいる風だったが、決心したようにまた話し始めた。


「私は生まれた時から異人のような顔立ちをしていましたので、とかく周りから白い目で見られがちだったのでしょう。一緒にいた占いのお婆ちゃんがいつも私に言っていました。勇作、お前は神様からの授かりものなんだヨ。母親がこんなに年をとってから突然に生まれて来た不思議な子だ。お前は本当に不思議で特別な子供なんだヨ。お前は将来とっても立派な人になる。お婆ちゃんにはそれがはっきり見えている。だからこの先、誰に何と言われようと胸を張って堂々と生きて行くんじゃヨと。いつも繰り返し私にそう言っていました。そして世間にもこの子は不思議な特別な子だと吹聴していたようです。でも私は成長するにつれ複雑な気持ちになりました。母は元々無口な人ですが、私の父親については何も言いませんでした。私が十二歳になった時の事です。一人の紳士

が我家を訪ねて来ました。

本当はお寺を訪ねて来たのですが、前の和尚様がもうとうの昔に亡くなっている事が解るとがっかりしてまだ生きていたお婆ちゃんを訪ねて来たのでした。そしてそこに母と母の息子の私を見てとても驚いていました。母は何も言いませんでしたが、お婆ちゃんがこれは神様から授かった子だと言うと、私の名前と年を聞いて、ヘンリ・勇作・マコーミックというのが本当の名前だとお婆ちゃんが告げると初めて納得したようでした。

そして私の姿、顔形をしみじみ見て、とても感慨深げでした。

その人は長い時間、祖母と母と三人で話をしていました。どういう訳か私はその話の輪から外にいました。話し終えるとその人は今度は私の所に来て、私は君と同じ勇作というものだが、改めて、自分と一緒に行かないかと聞きました。自分も君と同じ十二の年に一人で家を出て、秘かに異国の船に乗り込み異国まで行き、そこで異国語を覚えて帰って来た。

今は恩ある人に見込まれてそこで働き仕事を手伝っているうちに、その人に信用されて養子になり今では大層恵まれた生活をしている。これも全て君のお婆さんやお母さんのお蔭なんだヨ。私の奥さんは亡くなった和尚さんや君のお婆さん、お母さんに命を救ってもらったんだヨ。だから、君の事は出来るだけ応援したい。そう言ってくれました。私はあの小さい村でいつも珍しいものを見るように周りの人達からジロジロ見られていましたから、いい加減嫌になっていました。ですからその人から話があった時、一も二もなくその話に飛びつきました。少しも迷いはありませんでした。そして次の日の朝、勇作という同じ名前のその人と一緒に家を出て、その人が住む町に出て来たのです。家を出る時、母はこの詩集を私に手渡してくどく念を押しました。


お前は賢く勇気も心もある私の自慢の息子だ。お婆ちゃんがいくらお前が神様の子だと言っても、それは納得しないだろう。お前は立派な息子でどこに出しても恥ずかしくない息子だが、一つだけ約束しておくれ。母さんが生きているうちは決してその人を訪ねて行ってはいけない。母さんが死んだ後なら、その人の家庭に波風が立たないような形ならば会いに行ってもいい。だけど幸せな家庭に少しの悲しみ苦しみを及ぼすならそれは母さんの望む所ではないのだヨ。お前が母さんの子なら解るネ。それだけはきっと守っておくれ、きっとだヨ。その事はその後も私が大人になって妻をめとり会社を興し、沢山の従業員を雇うようになってからも年に何度か母親の所に行く度に念を押される事でした。ですから私は、ここに訪ねて来ようにも母が生きている間には訪ねて来れなかったのです。」

ヘンリは何が何なのかこの紳士が何を言おうとしているのか解らずに話を聞いていました。

「私はこうしてお話をしていて、先生は何も御存知なかった事を知りました。先生には全く覚えのない事なのではないでしょうか?」そう心配そうに言った。

家庭を持ち多くの従業員を抱えるこの立派な紳士の顔に不安な影が浮かんでいる。

その時ヘンリは、目の前のヘンリ・勇作・マコーミックの話を聞きながら、あのまるで現実のように生々しい夢を見た事を思い出していた。

それと合わせて和尚の言った言葉も思い出した。

「儂は仮にも寺の坊主だから夜這いなどした事はないが、じゃがされた事はあるかも知らん。」そうとぼけた事を和尚は言っていた。


若いヘンリと勇作はそれを笑い話と受け取って笑い転げたものだが、あの時実際、そういう事があったと和尚は話していたのだ。

そしてあの時、このきちは自分の本当の娘かも知れないと正直に話していたのだ。

しかし、そんな事があるものだろうか?和尚は正直な人だ。決していい加減な冗談や嘘を言う人ではない。そして、それはこの自分にも起きていたというのか?

まるで夢のような狐に化かされたような話だ。

だが確かにあの時見た、あの夢はただの夢ではなかったような気がする。

現に目の前のヘンリ・勇作・マコーミックと名乗るこの紳士は誰かに似ていると思ったら、兄達や父親にどこか似ている。

人が見たらこの自分によく似ていると見るかも知れない。そう考えているとあまりの突然の事に鳥肌が立って来た。

もしもそれが本当なら、私に息子がいたという事になる!これが本当に自分の息子なのか?少なくとも彼はそう信じて私に話しかけ私の答えを待っているのだと、今初めて得心するヘンリだった。だがそうだとして、この息子に何と答えよう。

知らないうちに夢の中で夜這いされた等と。知られてはならない。きちはそれを一番恐れたのだ。

ヘンリは夢の中にいるような心地だったが、心を落ち着かせる為に冷めきった濃いお茶を一口飲むと、向かいに座っている息子をしみじみと慈しみの表情で見つめた。

そして話しかけた。

「私は今、正直とても驚いています。まさか今のいままでこの世に自分の息子がいる等とは思ってもみなかったからです。きちさんが貴方を生み私の名前を付け育てて下さったのなら、貴方は私の息子に間違いありません。きちさんは私よりも年上でしたが美しくとても素晴らしい女性でした。何事においてもよく気が付き、陰に徹しながらとても賢い女性でした。あのお寺にいる間、私はどれだけきちさんに助けられたか知れません。私はいつの間にか感謝の気持ちがやがてきちさんに愛情を感ずるようになりました。きちさんは私の気持ちを解ってくれました。私はきちさんを心から愛していました。あの寺を去る時は辛い気持ちでした。今も思い出します。あの後、きちさんの事はよく思い出しました。でも私の子供が生まれていたとは想像もしていませんでした。私と妻の間には子供が出来ませんでした。ですから今大変驚いています。そして本当に喜んでいます。勇作、生まれて来てくれてありがとう。とても嬉しいヨ。きちさんが生きていたら礼を言いたかった。」

ヘンリがそう言うと、勇作はやっと自分の父親に会えた実感が湧いて来たようだった。

ヘンリは立ち上がってがっしりした勇作の体を抱きしめた。

その時生まれて初めて、不思議な感動が体中を貫いた。

今までの長い年月、どんな気持ちで生きて来たのだろうと思うと、この息子に対する愛情がジワジワと湧いて来てヘンリの目には熱いものが滲んで来た。

「お父さんありがとう。」勇作がやっと一言言った。

年老いた父親ともう五十以上になる立派な男がここで突然親子の名乗りをあげるのにはこの勇作は自分の心の中に一つのけじめをつけたかったのだろうとヘンリも思った。

自分にとっては寝耳に水のような話でもこの勇作ににとっては生まれて来た時から抱えていた重大な問題だった筈だ。

二人はその後、言葉少なにしみじみとした時間を過ごした。ぎこちない時間の中でヘンリはあの後の村の様子等を聞いた。

庄屋はあの後、いくらも経たないで息子に代替わりをしたようだったし、詳しく話を聞くうちに、この勇作が生まれた時は既にきちは信女の所に来て、信女の所で勇作を生み育てたらしい事が解った。すると和尚はあの後、半年もしないうちにもしかするとヘンリ達が出て間もなく亡くなったのかも知れない。善爺の事を聞くと勇作は、浜の爺ちゃんの事は覚えていると言った。

船に乗せて貰った事があると言った。

すると善爺も信女も長生きしたのだろう。

勇作の仕事も順調にいっているようだった。今はあちこちに支店を出して貿易の仕事は忙しいと言って笑った。

やがて聞きたい事を聞くと少し話が途絶えた。

ヘンリが庭の方を見ながら、「この事はスーザンは何も知らない。」と言った。

「スーザンを悲しませたくない。」とも言った。

「君には申し訳ないが…。」そこまで話すと、

「解りました。それは母からも固く言われていた事ですから。十分、理解しています。ただ、一目あなたにお会いしたかっただけなんです。」

勇作はそう言ってもう一枚名刺を差し出した。そして、

何か困った事があったら、ここに連絡して下さいと言い残して急いで帰って行った。

ヘンリの妻が帰って来てかち合って、いらぬ疑惑を与える事を恐れたのだろう。

後で受け取った名刺には、祖母と母の名前からとったのだろう。

“吉信勇作”という日本名が書かれていた。

その名刺にも、この国にある自分の会社名と住所が印刷されていた。

ヘンリは“ヘンリ・勇作・マコーミック”の名前の方の名刺を細かくちぎって捨て、“吉信勇作”と印刷された名刺を返された詩集に挟もうとして気が付いた。

自分がサインした名前のそのやや斜め下の目立たない所に、“ありがとう”ときれいな女文字を見つけた。

ヘンリは咄嗟にこれはきちが自分に宛てて書いたものだと解った。

きっとそうだ!きちが自分に宛てて書いたのだ。


その途端、嵐のようにきちに対する懐かしさがヘンリを襲って来た。


ああ、きち、

いつも目立たないようにしながらどこまでも行き届いた気遣いをしてくれたきち。

あのさり気ない優しさの数々が思い出された。今こそ昨日のようにきちの顔がはっきりと蘇ってくる。

本当は美しい顔立ちなのに、着る物も髪も全て地味な作りをして、ただひたすら父親と思われる老いた和尚の世話をしてひっそりと生きていたきち。

娘盛りも何もかもを尊敬する和尚に捧げるように過ごしてしまったきち。

あの古い寺でひっそりと一生を終わるのかと淋しそうだったきち。

私があの寺を去る日、握った手は氷のように冷たかった。

それに驚いて見た目は涙にうるんでいた。

あの時、貴女を本当に美しい人だと思った。

きち、貴女は本当は気高くて情熱的な人だったのですネ。

私の方こそありがとう。

まさか七十八歳のこの年になって自分の息子の存在を知るなんて…。

ヘンリはその時確かに御仏の存在を感じた。あの時、和尚が言った言葉を思い出した。「確かに偉大なお方はおわします。」



また、机の上の古いノートに目を落とす。

これから死ぬまで幾度となく読み返すこのノートの中身は今までとはまた違って更に味わい深いものになるだろう。

人生なんて解らないものだ。「謎」と「不思議」と「感動」に満ちている。

本当に解らないものだ。私はこの年になって今も夢のようなあの続きの道を歩いているようだ。

そうだ、私の夢はまだ続いている。

ヘンリはそう思う内にも急に切ない程にきちに会いたくなった。

「きちさん、きちさん」声に出して呼んでみた。

でももうその人はいない。もう死んで今はこの世にいないきちを切ない程想った。

そして今もヘンリの夢のような世界の中で、きちはなおも解らない神秘的な人だった。

その時ふとあのメロディが老いたヘンリの脳裏に蘇って聞こえて来た。

すっかり忘れていたあの唄、あのメロディ。


 忘れられないー あの面影をー

 探し訪ねてー 山河はるかー

 私は来たのー

 海をも越えてー 貴方のもとにー

 私は来たのー


そのメロディは甘く優しく悲しく切なく、

いつまでもいつまでも繰り返し、繰り返し

ヘンリの頭の中で響いた。

そしてそのメロディに浮かぶのは誰であろう。きちの面影だった。

氷のような冷たい手で涙を浮かべて

ヘンリを愛おしそうに見つめていた

あのきちの面影だった。


おわり







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昔話 ヘンリの見た夢/第1話 やまの かなた @genno-tei70

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