天気雨

オダ 暁

天気雨

『人間とかく先入観や初対面のイメージにとらわれがちな生き物である。この主人公もある女の昔マニュキアを塗った爪に強烈な印象を受けたが時を経てただの幻想に風化していた。人の生き様はお天気のように移ろいやすいが、雨降りでも天気雨は晴れ間を予感できて私は好きです。』



 夜ふけから降り始めた雨は、朝になっても止む気配はなかった。トタンの屋根板を打つ雨音は、ますます激しくなっている。

 啓子はそわそわと落ち着かず、家の中をうろついていたかと思えば物思いにふけったりしていた。そろそろ更年期を意識しだす年齢の彼女は、若い頃に一度だけ結婚したことがある。それが思いがけない夫の浮気で離婚してからは、会社勤めで生計をたて、同じアパートでずっと一人暮らしをしている。気楽な反面、どこか侘しくもあった。

 その電話があったのは三日前の夜だった。啓子が簡単な夕食をすませて、テレビを見ている時だった。別れた夫と愛人だった女との間に生まれた、その娘は、遠慮がちに自分の身の上をまず明かした。そして電話をかけた意図を告げたのだ。

——お会いしたいのです。

 その昔、啓子は夫とその愛人との三角関係でぼろぼろになっていた。辛く、思い出したくない過去である。が年月がいつしか、忌まわしい記憶を色褪せたものに変え、彼らへの恨みもぼんやりと薄らいだものになっていた。好奇心もあり、次の日曜日に娘に家に来るように言って、彼女は受話器を置いた。

 そして今日がその約束の日である。

 二間続きの部屋の掃除をひととおり終えた啓子は、娘が来るまで一休みしようと、ベランダに面した和室で冷えた麦茶を飲んでいた。

 外は一面、煤けたような灰色の梅雨空が広がり、横なぐりの雨が硝子窓に打ちつけては尾を引いて流れている。

「あの日も、雨だった・・・」

 はるか遠い昔、愛人のもとに走り去った夫を取り戻そうと、啓子は無我夢中で降りしきる雨の中、二人の住むマンションに飛び込んだのだった。玄関のドアの向こうに彼女が見たものは、おろおろする夫と、その愛人の後ろ姿だった。正確に言えば、その女は奥の部屋で椅子に腰掛けていた。その背中は、啓子の存在をまったく無視していた。

 啓子は怒りが沸騰し、それを抑えることができず、夫の制止を振り切りそのまま女に向かって突進していったのだ。しかし彼女の足は、何かにつまずいたように途中で止まってしまった。女はなんとも優雅なしぐさで、両手の爪に紅をほどこしていたのだ。

 レースをあしらった透けるような生地のネグリジェを身にまとい、光沢のある長い髪を無造作にたらして、形の良い指を紅く染めている女。かたや、けっして美しいとはいえないうえに、普段着のままで薄化粧さえろくにしていない情けない自分の姿・・・おまけに雨に打たれて、頭のてっぺんから足の裏までびしょびしょになっていた。

「濡れねずみの負け戦だったなあ」

 啓子は煎餅をつまみながら、なかば自らを嘲るようにつぶやいた。あの日を境に、彼らに反旗を掲げるのをやめたのだ。女としての敗北だった。

 約束の二時より少し早く、その娘は啓子のアパートにやってきた。啓子がドアを開けると、彼女は心細そうに玄関先に立っていた。水玉のレインコート姿の、清楚な、まだ少女の面差しが残る娘だった。

 啓子はごく自然に微笑んで、その娘を出迎えた。彼女は白い傘の水滴をふりはらうと、恐縮したようすで玄関の中に入り、啓子に深々と頭を下げた。それにつられて啓子も同じようにおじぎをした。

 それから彼女はその娘を和室に通すと、来客用にとっておいた茶をていねいにいれ、まるい盆にのせて座卓に運んだ。二人は茶をすすりながら、おずおずと顔を見合わせて、どちらかともなく言葉をかわし始めた。

 啓子は娘の容貌に、かつての夫の面影を見いだそうとしていた。娘は両親がある時打ち明けた、父の前の妻をときおり想像していた。そのせいか、二人は初対面で妙な縁にもかかわらず、互いを懐かしく感じた。

「私、もうすぐ結婚するんです。それで昔のことを思い出して、どうしてもお会いしたくなったんです。ごめんなさい・・・両親のせいでさぞ苦しい思いをなさったでしょう。父と母にかわって、お詫びを言わせてください。」

 娘は、潤んだ両の眼からあふれかけた涙を、そっと指先でぬぐった。そんなお詫びだなんて、と言いかけて、啓子の視線はなぜか娘の指先に止まった。

 透明の、生まれたままの色の爪——

お母さま、今でもマニュキアをつけてらっしゃるんでしょうね」

 啓子の言葉に娘は一瞬けげんな顔をしたが、すぐに首を左右に振った。

「母がマニュキアをしているのを、私は見たことがありません。私が子供の頃から父が病気がちで、母はずっとスーパーや食堂で働きづめでした。今もそれは変わりません。父はあいかわらず家と病院を行ったり来たりだし、母は仕事でいつも疲れた顔をしています。マニュキアだなんて、そんなもの・・・」

 悲しげにうつむいてしまった娘に、啓子はかえす言葉が見つからない。働きづめで疲れきった女の顔を、目が眩みそうな赤い花にも似た、あの日の女に結びつけることはできなかった。

 ただ・・あの雨の日から今日までの長い年月を、自分だけではなく夫だった男も、そしてあの女もまた懸命に生きてきたのだ。それだけは、わかる。それでは自分をあれほど打ちのめした紅に彩られたあの白い指は、とうに幻だったのか。

(私はなんと長い間、ありもしない女の影におびえて、そしてそれに支配されて生きてきたのだろう)

 啓子は、幻ではなく現実に自分の目の前にいる娘を、今さらのように見つめる。心の中の封印されていた扉が、開かれていくのを感じていた。

 窓の外はつい先刻まで勢いがあった雨がいつのまにか、たよりなげな霞んだそれに変わり、いく筋もの絹糸が流れているかに見える。そして雲の切れ目から、太陽がうっすらと顔をのぞかせている。

 そこから洩れてくる微かな日射しは、硝子窓から部屋をあわい黄金色に照らし、二人をやさしく包みこもうとしていた。

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