10.もう一度会えたなら
あの日から三ヶ月が経っていた。
晶は以前と変わらず、バーテンダーとしての日々を送っていた。
変わらぬ喧噪、変わらぬ混沌。けれど変わったこともあった。勤める店の経営者が変わり、『クラブ・グリフ』と名を変えた。でも店の雰囲気も訪れる客達も何一つ変わることなく、この場所では以前と同じ夜が繰り返されている。
しかし、ここが自分の居場所だという思いは強くなっていた。元々この仕事が好きだった。この職にもう一度戻れる手はずを整えてくれた相手には感謝しかなかった。
『ママがイアンと別れたよ』
そんな変わらぬ日々の中、よい変化もあった。
アパートの部屋の前で顔を合わせたリリアがある日、そう耳打ちしてきた。彼女の顔には母親と恋人との別離をあからさまに喜ぶのを憚る表情もあったが、微かな明るい表情もあった。それからじきに、夜明けの階段で寂しそうに佇む少女の姿を見ることはなくなった。彼女の母親の腕に残る跡も次第に薄くなろうとしていた。だからと彼女達を取り巻く状況はすぐには好転しないかもしれない。けれどそれらは明らかな明るい兆しだった。
今回、自分はこの街が抱える状況を変える一端すら担えなかったと晶は思う。でも彼女達のこれからがよりよいものになることを強く望んでいた。
『だが続けるさ』
ふと、その言葉が過ぎった。
晶はミナ・コルトヴァと最後に会った午後の日のことを思い出していた。
彼女と再会したのはあの日から三週間後、もう二ヶ月半も前のことだった。
根強い捜索の結果、彼女達は事件から五日後に川底に沈んだ男性遺体を発見していた。残された銃創や髪色、身体的特徴からリジーと思われたが長時間流れに晒された遺体は損傷が激しく、判別に時間がかかった。確認が取れたのはそれから三日後、しかし遺体はリジーではなかった。見つかった遺体は再び身元不明者となり、今も街の安置所で眠っている。
リジーの行方不明状態が続く一方、彼の主もこの街から姿を消していた。
聴取を終えた翌日、彼は顧問弁護士を通して全ての事業を売却する指示を出し、数日後、それらが完了したのを見届けると誰にも行き先を告げず忽然と姿を消した。その日は奇しくも遺体が見つかった日と同日だった。
二週間後、隣国の駅で彼らしき姿が目撃された。傍にいた長身の男が行方不明であるはずの彼の部下に酷似していたという情報もあるが、その男の正体も、彼の行方も、それ以後分かっていない。彼、シリル・ブラッドフォードが何を考え、どんな取捨選択したのか、それも晶には分からなかった。
〝彼〟は街から消えた。しばらく混乱は続くだろうが、でもじきに同じ場所にまた別の〝誰か〟が立つ。
店の名が変わっても何も変わらないように、街の構図にも変化はない。永遠に終わることのない椅子取りゲームのようなものだった。
だが続けるさ。
ミナはそんな現実を見据えて、力強くそう言い伝えた。
揺るぎない意思を持つ彼女が向かう道は、長く険しい。その道を歩み続ければ常に痛覚も伴う。
今回何も果たせなかったその事実に未だ眠れない日もある。しかし彼女のために自分にできることはもう何もないのだと晶は思った。
『ここのコーヒーも飲み納めだ』
カフェ・リアーナにはその日もコーヒーのよい香りが立ちこめていた。
降り注ぐ午後の陽射しに彼女は目を眇めて言った。
『……どこかに行くんですか?』
『こうやって会うのも今日で最後だ。君のためにもそれがよかろう』
『そうですか……お元気で、コルトヴァさん』
『君もな、晶』
この別れに寂しい思いが過ぎったが、これまでの経緯を思えば不思議な感情とも言えた。けれどもその思いが確かにあったのは間違いなかった。
険しく長い道を彼女は進む。命が潰える日までそれは続くのだろう。
その後店の前で別れ、それ以後彼女とは会っていない。
「ねぇ、マティーニちょうだい」
届いたその声に晶は現実に引き戻された。
「早くしてね。あの彼に逃げられちゃう」
「はい、今すぐ」
晶は笑顔で客に応えると、注文の品を作り上げながら暗い照明が落ちる自分の手元を見下ろす。
その手に感じた温もりはとっくに消え去ってしまっていた。
あれ以来、ライとも会っていなかった。あの後いつの間にか眠ってしまったらしく、目覚めた時にはベッドに寝かされていた。彼の姿は既に傍になく、二日後、再度アパートを訪ねてみたがそこはもう空き部屋になっていた。
「どうした? 思い耽って」
注文の品を差し出して一息ついていると、隣からその声が届いた。ミントのカクテルを手早く仕上げていくウェスがこちらをちらりと窺った。
「別に。思い耽ってなんかない」
「はぁ……毎度のその台詞、ホントにつれないねぇ……」
「そう言われても他に答えようがない」
「まったく相変わらず硬いよなぁ。まぁ色々変化はあったみたいだけど、そういう所は変わんないんだよな」
「……?」
隣から届いた言葉に晶は表情で疑問を返した。
彼の言葉をそのまま受け取るなら、自分はどこか変わったというのだろうか。
同僚はミントの葉をつけた酒を客に受け渡すと、こちらを向いて意味ありげな笑みを浮かべた。
「なんかさぁ、ちょっと楽になったように見えるっていうか」
「楽……?」
「硬い所は全然変わんないけど、なんていうのかな? 何か吹っ切れたっていうか、どんと構えたっていうか……んー、やっぱよく分かんねぇ」
同僚からは要領を得ない返事が戻るが、晶は曖昧なその言葉をそのまま受け取っていた。
自分は何かが変わったらしい。
自分ではどこが変わったのかよく分からなかったが、その楽になったように見えるという彼の言葉は少し、居心地のいいものだった。
「だからってまぁ、オレの誘いには乗ってくれないけどね」
続いた言葉はさりげなく聞き流して、晶は同僚といつものように夜明けまで続く仕事を終えた。
帰宅の途を辿る足元を心地よい風が吹き抜けていく。
季節柄、石畳の道はもう夜が明けていた。
ショーウインドーは既に初秋の装いで彩られている。
自分が気づかなくても季節は移り変わり、また巡ってくる。
自分はこの街にいる。この街にいて毎日を過ごしていく。
そう思うことで心の縛りが解けたようにも思えた。楽に見えるということは、そういったことなのかもしれなかった。
アパートに戻り、変わらず億劫な階段を上がる。
今日も階段に寂しげな少女の姿はなかった。
その代わり、辿り着いた部屋の前に人影がある。
それは長身で、首にタトゥーのある、自分がとてもよく知る男だった。
彼は顔を上げて、笑みを見せる。
その相手に歩み寄り、晶も微笑んだ。
〈了〉
ダーク&チェリー いつかもう一度会えたなら 長谷川昏 @sino4no69
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