9.夜が明けるまで

 いつもなら静寂に覆われているはずの屋敷には、多くの人の姿があった。

 辺りには警察車両や救急車が停められ、見慣れない光景が広がっている。それでも一時は騒然としていた空気は収まりを見せ始め、日の出が見られる頃にはいつもの静けさを取り戻しているはずだった。

 晶はそんな光景から少し離れた花壇の縁に腰を下ろして、忙しく動き回る人達を眺めていた。その中の並んだ車両の一つ、後部扉を開け放った救急車にライの姿がある。彼はその場で応急手当を受けていたが、時折隊員達に笑みを見せる様子を見て取れば、僅かながらの安堵を感じていた。

 今夜は様々なことがあった。それらは終わりを迎えたはずだが、緊張の糸は今も張り詰めたり弛んだりを繰り返して、思考を刺激している。無理に目を閉じようとすれば泥のような昏い感情が帳を下ろし、その正体を突き止めようとする度に後悔にも似た思いが蘇っていた。


「晶」

 呼びかけに振り返ると、歩み寄るミナの姿がある。

 晶は複雑な思いを抱えて、その場で彼女の到着を待っていた。あれだけ心配してくれた彼女の助言を自分は無視してしまった。彼女にはまず謝らなければならなかった。

「すみません、コルトヴァさん、私……」

「晶、君は今夜あの場に誰も来なかったら一体どうするつもりだったんだ? 咲良が君に託した記憶媒体は技術部の努力でどうにか再生することができた。媒体には犯行の裏付けとなる銃の在りかが記されていた。我が国では犯罪を立証するには物証が最重要となる。だが保管状態の不備を疑われてもおかしくなかった銃が裁判証拠として認められたのも、一度は破損した記録媒体が再生できたのも、ただ運がよかったとしか言えない。全て真逆の結果に終わった可能性もある。今回は運に助けられた。しかし次もあるとは限らない。晶、もう一度訊くが、君は今夜あの場に誰も来なかったら一体どうするつもりだったんだ?」

「そのことは……本当にすみませんでした、コルトヴァさん……」

 晶は繰り返すように告げて、俯くしかなかった。

 今夜の行動は自分勝手でしかなかった。この行動が彼女の今後の捜査の障害になり得たかもしれない。感情だけで突っ走った自らの行いにはどれだけ自戒しても足りなかった。今ここにこうしていられるのも彼女が言う、運に助けられたからとしか言いようがないのかもしれなかった。

「無謀も時に必要だが、賞賛はしない。だが小言はここまでだ。君には礼は言う。私の仲間を助けようとしてくれた。本当に感謝している。その件ではな」

 彼女が言いながら微かだけ笑みを見せる。でも晶は何も言葉を返せなかった。

 何を言われても、自分の行動の意味は変えられない。今夜のことはまだしばらく重い反省として、自らの心に置いておかなければならないはずだった。


「リジーの身柄は下流で現在も捜索中だ。だが恐らく生きてはいないだろう」

「そう、ですか……」

 黒い男は濁流に消えた。

 揺るぎない殺意を向けられた相手だったが、晶は彼に対して憎しみは感じていなかった。

 彼と自分。あの川辺にいた二人は、その場にいた大事な相手をそれぞれ救おうとしていた。思惑に重なる部分はなかったが、思いは多分一緒だった。

「彼は……どうなるんですか」

 晶は警察車両の後部座席にいる男に目を向けた。彼はそのような場所にいても、未だ王の風格を残していた。

「聴取は可能だが、それ以上は望めないだろう。実行犯であるリジーの取り調べができれば別だが、生きていなければそれも無理だ。だが努力はする。彼を追う。これからもな」 

 あの川辺で起きた変化のうねりは一瞬で終わり、また違う方向へと流れようとしている。その流れはもうどこに向かうかも分からず、闇を蛇行し続けている。けれど彼女は追い続けるのだろう。それが変わらぬ信念を持つ彼女の生き方だった。


「晶」

「はい、何でしょう? コルトヴァさん」

「君に一つ頼みがある。私はこれから事後処理や聴取で手一杯だ。すまないが彼に付き添ってくれるか」

「えっ?」

「悪いな。それじゃ」

「えっ? コルトヴァさん?」

 晶は呼び止めようとしたが彼女はまるで聞こえていないかのように背を向けて、警察車両の方に歩いていってしまった。彼女を乗せた車はすぐに走り出し、この場も去っていく。

 晶はしばらくの間逡巡したが、結局立ち上がって救急車の方に歩み寄った。まだ迷いながらも近くまで寄ると、ちょうど治療を終えた隊員が顔を上げる。小柄なその隊員は少し困った表情で辺りを見回した。

「あのー、すみませんが誰か彼に付き添ってくれる人はいませんかー?」

 そう呼びかける隊員の隣には包帯を巻き終えたばかりの彼の姿がある。晶は残っていた最後の迷いを捨てて駆け寄った。

「あの……私が付き添います……」

「そうですか、じゃ、お願いしますねー。彼、病院には行かないって言うんで今晩は見ててあげてください。体力はある方みたいなんで多分大丈夫だと思いますけど、もし具合が悪くなったら迷わず病院で診てもらってくださいねー」

「分かりました……」

 返事をしてから了承も取らずに勝手に申し出たことに気づいて、晶は振り返った。しかし相手は軽く笑みを見せただけで何も言わず、拒絶もしなかった。

 その後は送ってくれるという警察車両に乗り込み、彼が指定した場所に向かった。しばらくして到着したのは古びたアパートだった。車を降りた後は肩を貸して二階の一室に向かい、渡された鍵で扉を開けて中に入る。寝室ともう一部屋という簡素な部屋には生活感が残っていた。暫しの間留守にしていたと思しき室内を見回していると声が届いた。


「汚い所だけど適当にくつろいでてくれ。俺はちょっとシャワー浴びてくる」

 告げた相手がバスルームに消え、晶はあまり使われていなさそうなキッチンに向かうと缶のスープを勝手ながら温めておいた。バスルームから戻った相手が礼を呟いて無言でそれを口に運ぶ間、晶は窓際の椅子に座って外を眺めていた。

 相手から拒絶の気配は感じなかったが、よそよそしさにも似た居たたまれない空気が漂っていた。

 互いに黙していた。

 互いに何を言えばいいか分からなかった。終わりの見えない長い沈黙がいつまでも続く中、晶の心にはあの昏い感情が再び蘇ろうとしていた。

『闇を否定しながらもそれに魅入られるその姿だけだ』

 言い放たれたあの言葉。その言葉を強く拒絶したかったが、できなかった。 

 闇に魅入られている。それを望んでいる。その言葉を何度打ち消そうとしても、既に心の澱となっていた。

 そんな思いを心のどこかに残して、自分はこれから前を向いて行けるだろうか。

 誠実でありたいと願いながら、心の底ではその思いを裏切り続けているのではないか。

 こんな自分は果たして真正直に――、


「あの男のことは忘れろ」

 その時、まるで心を読んだかのような声が届いた。

「あの男が言ったことも忘れろ。あんな言葉は戯れ言でしかない。闇に魅入られた人間は誰かのために何かをしようなんて思わない。晶はそんな人間じゃない。少なくとも俺は分かってる」

「私……」

「そして俺のことも忘れてくれ、晶。俺は今回の件で君を利用した。あの時記憶媒体を仕込んだ上着を渡したのは、晶が生きていても死んでいても仲間に情報が届くと思ったからだ。生死のことなど考えなかった。これが今の俺なんだ。あのまま……忘れてくれていてもよかったんだ……」

 告げる相手の顔には深い悔恨がある。

 しかし彼が自分を利用しようとしたことなど、あれはどうしようもなかったと晶は思っていた。

 それよりも彼が今生きてここにいることの方が、深い意味を持っていた。

 晶は無言で歩み寄ると、彼の傍に立った。

 身を屈めて、一瞬だけ触れる口づけをする。

 見下ろした相手の顔には驚きが浮かび上がっていた。

「あ、晶……」

「ライ、私、ずっと……」

 だがその言葉を遮るように相手は椅子から立ち上がると、片手を前に出して距離を取る。

「悪い。俺はもう寝る。晶はそのソファを使ってくれ。俺は隣の部屋で寝るから安心してくれていい」

 矢継ぎ早に告げた相手は急くように隣室に姿を消した。

 その場に取り残され、晶の心にはあの冬の日に一人佇んでいた時と似た寂しさだけが漂った。




 

******





 密集した建物の合間から明け始めた空が見え、長い夜が終わりを告げようとしていた。

 浅い眠りから覚めた晶はソファから身を起こし、隣の寝室の気配を窺った。

 夜中、何度か目が覚めた時に確かめたが、扉が閉じられているせいか隣室からは寝息も聞こえなければ気配も届かなかった。今更のように少し心配になって近づいてそっと扉を開けてみると、隣接した建物の陰になる寝室はまだかなり薄暗かった。足音を忍ばせてベッドの傍で窺えば、毛布を被った相手は安らかな呼吸を繰り返している。

 晶は安堵の息をつくと、そのまま壁際の床に腰を下ろした。

 無事を確認しに来たのは確かだが、本当の理由は彼のもっと傍にいたかったからだった。

 夜が明けてしまえばここにいる理由もなく、また会う理由もない。けれど傍にいても何かができる訳でもなかった。再び思いをぶつけたとしても、また感情の押し売りにしかならないはずだった。

「……どうした?」

 その声に顔を上げれば、ベッド上の相手が呼びかけている。物音で起こしてしまったのかと晶は後悔したが、訊かれても何を答えればいいか分からず黙っていると、相手はベッドを降りて隣に腰を下ろした。

「晶」

「……はい」

「俺は君に謝るしかない。本当にすまなかった。今回のことも、過去のことも」

 しばらく続いた沈黙の後に、その声が届いた。晶は返事はしたものの、こちらを見て語るその気配にただ俯いた。


「俺は昔、君との約束を破った。あの時戻ると約束したのに結局戻らなかった……俺は今の仕事を自分の意思で辞められない。俺の生き方を変えてくれた仕事だからだ……この仕事は安定も定住も命も何も保証されていない。だから新たな約束は何もできない。大体俺には何の権利もない。あるのは君への贖罪の思いだけだ……それに俺が傍にいればきっとまた君を傷つける。それはしたくない……昨日も言ったが俺のことは最初からいなかったものと思って……」

「そんなことは言わないで!」

「……晶」

「あの時ライとした約束は破られてなんかない! 時間はかかったけどライは戻ってきてくれた。私は……それだけでいい……ずっとライのことが好きだったから」

 晶は身を翻して相手と向き合うと思いの丈を告げた。

 しかし長年抱えたこの思いよりも、自分のことで心を痛める相手にそうじゃないと伝えたかった。

 自分は傷ついてなんかいない。そう伝えたかった。


「ライ、私はこれからもずっとこの街にいる。ずっとこの街にいて日々を繰り返してる。あなたがどこか別の街にいても、この街に戻ってきてまたいなくなったとしても、私はずっとここにいる」

「晶……」

「あの約束は一度だけでいい。新たな言葉を伝えるのは今度は私の方。私はこの街にいて、どこかにいるあなたのことをいつも思ってる……」

 言い伝えると相手の手が肩に伸びた。晶はその手に促されるまま身を寄せた。

 肩を優しく抱かれ、密着した相手の体温が伝わってくる。

 それだけでも感情は満たされる。

 長い間空虚だった場所が埋められる気がした。

「晶……俺は……」

 その呟きの続きは確実に晶の耳に届いた。

 言い終えた後、髪に落とされた口づけは多くの意味を含んでいた。

 晶は相手の腕の中で目を閉じた。

 あの日から六年の時が流れてしまったが触れるその手は以前と同じく、信頼の匂いがする、温かく穏やかなものだった。

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