8.運命の川辺

 夜になり、晶は川辺へと向かっていた。

 辺りは既に闇に包まれ、周囲には人の気配もない。

 時刻は約束の十時になろうとしていた。

 しかし晶の手にリジーが要求したものはなかった。だが彼が〝奪ったもの〟と称した〝記憶媒体〟はミナによれば浸水により破損し、この世に存在しないも同然になっている。持参できずとも要望は叶えられているはずだった。

 晶は一度足を止め、屋敷を振り返った。建物のどこにも明かりは灯っておらず、静まり返っている。庭園には美しい花々が咲き誇っているが、闇の中では少し不穏にも感じる。

 月の光を頼りに再び歩き始めると、次第に轟々と響く川音が聞こえてくる。息苦しいほどの緊張が高まり足が震えたが、歩みを止める選択肢はなかった。


 辿り着いた川辺には三つの人影があった。

 一歩前に出て立つ黒髪の長身の男、その背後には王の如き男がいる。彼らの足元には地面に転がされ、微動だにしないライの姿があった。

「時間通りだな、晶。早速だが持参したものをその場で掲げて見せろ」

 川辺の闇からリジーの声が届いた。響いた声に足元の影が僅かな動きを見せる。闇の中でも憔悴していると分かるその姿には、離れた場所から心を痛めるしかなかった。でも微かな反応を垣間見られたことにとりあえずの安堵を感じ取っていた。

「どうした? 早く見せろ」

「リジー、あなたが言う〝奪ったもの〟は持ってこられなかった。だけどあなたが心配するようなことは何も起きていない。あなたが要求したものは既に破損していたから」

「破損……だと?」

 伝えた言葉には、長身の影が怪訝を見せる。その様子に晶は急激な不安を感じ取らずにはいられなかった。

 今更だが〝奪ったもの〟が何であるか、互いに口にしていない。リジーが要求したのは記録媒体ではなかったのだろうか……。

 だがそれも今更でしかなかった。この場で惑う訳にはいかなかった。

 齟齬を感じながらも平然を装い、晶は相手への言葉を続けた。


「ここに私は一人で来た。もし何らかの情報が誰かに伝わっていたとしたら、私はこんな勝手な行動はできない」

 取引条件は揺らいでいたが、この言葉が信用に足ると相手には思ってもらわなければならなかった。対峙する影は黙し、思案しているように見えたが依然納得の気配は伝わってこない。

 晶は焦りを感じながら暗闇に横たわる相手の姿を目に映した。

 この場で彼らと駆け引きを続けられるのは自分しかいない。頼るべきミナもこの場にいない。この屋敷でずっと自分を見守ってくれていた人は今、闇に無造作に転がされている。

 晶は顔を上げ、闇に立つ二つの影を見据えた。

 自分が彼らに交渉を仕掛けられるほどの器でないのは百も承知だった。でもそんな些末な存在だとしても、彼を救うために自分は彼らと対峙し続けなければならなかった。


「お前の要求は何だ、晶」

 膠着状態を破るようにそれまで黙していたもう一人の声が響いた。冷然と響く声は激しい川音にも掻き消されることなく、闇から届いた。

「彼を解放してほしい」

「解放? お前が持参したその不確かな情報と引き換えに?」

「他には何が必要? 私の命?」

「命か……それもいいが、ならばお前の全てをもらおうか」

「私の、全て……?」

「私がお前のその瞳を欲すれば、自ら抉り出して差し出すような、私が死ねと言えば、自らその首をかっ切って命を絶つような、そんな従順さで私に全てを委ねると言うのなら、その男を拘束下に置く必要は私にはもうない」

 晶は闇で言葉を失っていた。

 届いた要求は心の底まで冷え渡るものでしかなかった。もしそれを受け入れたとしたら、その先には想像もできないものが待ち構えている。

 でも拒絶の文字は浮かばなかった。何をしてでも彼を救いたいという気持ちは変わっていなかった。

「それは……本当ですか? その要求を呑めば本当に彼を解放してくれると?」 

「私がこれまでお前を謀ったことなどあるか? 晶」

 耳元で囁かれたような言葉が届いた。それは事実だろうかと僅か過ぎるが、考える必要はなかった。

 現状ではこれ以外の道はない。それならば選ばない選択肢はなかった。


「やめろ……やめるんだ、そんな男の言うことなど聞くな……晶……」

「……ライ」

 しかし闇から届いたその声には感情が揺さぶられる。

 思わず歩み寄るが、リジーが向けた銃に制される。

「ライ、お前は彼女を救いたいのか?」

 闇の川辺に思いがけない問いが響いた。問いかけた男はその場で身を屈めると、足元の相手の表情を窺う。そこにあるものを見定めようとするその瞳には疑問が映っていた。

「ああ、俺はどうなってもいい。俺の口を封じたいなら今すぐ殺せばいい。何度も言ったはずだが彼女は何も知らない。だから彼女にはもう近づくな」

「……近づくな、か……その言葉は彼女を思って出た言葉だろうが、それは果たしてお前が決めることか? 一つ訊こう。お前の目に彼女はどう映っている? 清純な少女か、人を惑わす淫婦か。私のこの目にはどちらにも映っていない。私の目に映るのは闇を否定しながらもそれに魅入られるその姿だけだ。彼女は私の元に来ることを否定しない。それはお前を救うためではない。自らの心に付き従っただけだ。だからお前が口出しする必要は欠片もない。お前の手では彼女を決して救えない」

 晶はその場で何も言えず、目前の光景を見ているしかなかった。

 届いた言葉を何度でも否定したかったが、それは真実であるのかもしれなかった。

 ライへの思いは間違いなく存在している。それは確かだった。だがシリルが指摘した闇に焦がれる思いは、自分の心の奥底に密かにうずくまっているものなのかもしれなかった。


「おっと動くな。最後の足掻きのつもりか?」

 リジーの声が響き、身を起こそうとしたライに銃口が向けられる。

 不安に駆られて晶も身動ぎするが、長身の男の視線は傍に立つ主に移されていた。

「シリル、口を挟むつもりはなかったが、やはり訊く。あなたは本当にこれでいいのか? 俺にとってあなたは大事な存在だ。だがこの女はどう関わっても悪運しか呼ばない。あなたにまとわりつく最悪の禍だ」

 迷いを含んではいたが、リジーの声は切実なものだった。忠実な部下である彼にとって主への疑念を窺わせるこんな助言は、己の立場を逸脱させて放たれたものに違いない。でもそうしてまで彼はその思いを伝えたかった。 

「禍? リジー、お前が彼女をそう呼ぶのならそれこそが私が欲するべきものだ。ならばそれを手に入れたいと願う私のこの行動をお前は望まないのか」

「……シリル、あなたは……」

 しかし応える主の顔には、怖気が走るほどの微笑が浮かび上がっていた。対するリジーの表情には諦めにも似たものが過ぎる。

 主を守るのが使命、だがそれ以前に主の望みを叶えること、それが自らの務めと定め。蟠る疑念を消し去った彼の顔には新たな意思が現れていた。


「晶、私の手を取れ。そこから始まって、そして終わる」

 晶の前には三人の男がいた。

 どこまでも主に付き従うと決めた男。

 こちらに向けて手を伸ばす闇の男。

 そしてどうしても救いたい相手。

 晶は地面に伏す彼の方を見るが、その顔を窺うことはできなかった。もう二度と彼の顔を見ることはできないかもしれない。でもこの選択は間違っていないと思いたかった。自らに伸ばされたこの手が悪魔の手だとしても構わない。彼を救う選択肢を自ら放棄することなど、絶対したくなかった。


「リジー・ヘイズ! 銃を下ろせ! 君にはデビッド・ブラッドフォード殺害容疑で逮捕状が出ている。所持していた銃がデビッド殺害に使用されたものと断定された! シリル・ブラッドフォード。あなたにも任意で事情を訊きたい。同行を願う!」

 突如響き渡ったその声と共に、目を眇めるほどの照明が閃いた。

 森から現れた数人の警官を従えたミナが銃を構えながら歩み寄ってくる。

 急激な展開に思考と身体がついてこなかったが、晶は彼女の登場がこの場の状況を一変させたことを徐々に理解し始めていた。

 これで彼を助けられる――。だがそう思った僅かな安堵が油断を呼んだのかもしれなかった。

 突然背後から強い力で抱きかかえられ、こめかみに冷たいものを押しつけられる。一瞬の茫然は耳元で響いた怒声に吹き飛ばされていた。

「誰も俺に近づくな! 近づけば今すぐこの女を撃つ!」

 冷えた感触は銃口だった。それに気づいた晶はできる限りの抵抗を試みたが力強いリジーの腕を振りほどけず、足掻いた両足も何の甲斐もなく、川岸に向かって引き摺られていくだけだった。 

「どれもこれも全て俺一人で仕組んだものだ! 全部俺一人やった! この過去の罪に対する罰は俺が今、自らで下す!」

 川音が間近で響いていた。身動きは取れずともあの激流がすぐ背後に迫っているのが分かった。


「やめろ! 彼女を離せ!」

 ライの叫びが聞こえた。

 こちらに駆け寄るミナの姿も見える。

 晶は霞む目で二人の姿を捉えるが、ライは今いる場所からそれ以上近づけず、ミナは盾にされた人質に阻まれ、動く標的を捉えられないでいる。

「投降しろ、リジー! どうにもならない!」

「地獄には案内人が必要だ! この女は一緒に連れていく!」

 晶は一段と強められた力に身動ぎもできず、視線を動かすこともできなかった。 

 怒声を放った男は背後に身を倒し、その力に引き摺られるように晶の両足も地面を離れる。

 晶はあの時と同じ感覚を再び味わう。

 その時、銃声が響いた。

 見遣ったミナの銃からは硝煙が上がっている。

 撃たれたリジーの身体からは急激に力が失われていく。

 しかし、その腕は捉えた相手を離さない。崩れ落ちる彼の身体の背後には、轟々と響き渡る流れがあった。

「晶っ!」 

 男は声もなく急流に呑まれていった。

 その衝撃で撥ねた水飛沫が頬にかかる。

 晶は川辺に座り込み、落ちる寸前に自分の身体を引き寄せてくれた相手の顔を見上げた。

 彼は傷だらけだった。あの後彼がここでどんな目に遭ったか、それを想像すれば涙が零れそうだった。

「ライ……」

「無事で、よかった……」

 彼は呟くように言い伝えて相手の身体を胸に抱き込む。

 晶は彼の腕を抱きしめて目を閉じた。

 川辺で佇むもう一人の男。

 その姿が目を閉じる瞬間に映り込んでいた。

 暗がりにあるその表情はいつも通り読み取ることはできなかった。でもそれは多分、自分には一生叶えられないものに違いないと晶は思った。

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