7.地下の闇
ライは捉えられてから何日経っているかも分からなくなりつつあった。
放置されているのは薄暗い小部屋。恐らく屋敷の地下ではないかと推測するが、確信はなかった。鼠が出入りできるほどの僅かな通風口はあるが、それ以外に目に入るのは冷えた壁と固く閉ざされた鉄の扉だけだった。
「……五日か、一週間か……」
呟いても正解が見つかる訳もなく、何もできずに時間だけが過ぎていく。幾度か脱出を試みてみたが、簡単にそれを為させるほど甘い相手でないことは分かっていた。
「年貢の納め時か」
天井から吊り下がる裸電球を見上げて、ライは数日前の夜を思い出していた。
警戒は怠っていないつもりだったが足りなかったからこそ、ここでこうしているのだとライは自戒する。
危うい橋を渡り続けていた認識はあった。彼女を確実に殺さなかったことが立場をよりぐらつかせたのもよく分かっていた。
『それを言う必要が? いいご身分だな。ライ・咲良特別捜査官』
男にそう告げられ、驚愕した一瞬の隙を突かれて殴り倒された。不覚にも気を失い、気がついた時にはこの場所に監禁されていた。
『あの女に何を托した?』
目覚めると昏い狂気を抱えた男が見下ろしていた。
男は彼女と自分が裏で繋がり、何かを探っていたと思っていた。
それは一部正しくもあるが、完全な正解ではなかった。彼女は自分がミナと同じ捜査官だとは知らなかった。彼らの目を逸らすために、ここに送り込まれたことも知らなかった。様々な望まない展開に陥ったのは、彼女との無関係さを装いきれなかった自分のせいだった。
『答えろ』
『質問の意味が分からない。何を訊かれているのか見当もつかないな』
要求された答えを返さずにいれば、容赦ない拳が何度も落ちた。
リジー・ヘイズは想定していたより無情で、暴力に対する揺らぎのない男だった。
数時間置きに同じ質問をされ、同じ言葉を返せば、同じ暴力が待っていた。そんな同展開がしばらく続いたが、数回目の扉が開かれた時、そこにはもう一人の男が立っていた。
『ならば、彼女をここに呼んで訊くとしよう』
耳に届いたその言葉には心底冷えるものを感じるしかなかった。
顔を上げれば、自分を見下ろす白金の髪を持つ男がいる。
シリル・ブラッドフォード。
饐えた汗の臭いが充満し、黴びた埃が舞う狭い小部屋で男は涼しげに立っていた。
『彼女は生きている。あの夜死ななかったのはその時ではなかったからか、お前が無様な手心を与えたからか……運よく救い出された彼女は口も利ける状態であるようだ。お前の前で問い質せば、きっと全てが明らかになる』
彼女が生きているというその言葉には喜びと希望を感じた。望みは捨てていなかったが、あの濁流に呑まれて無事でいられるとは思ってなかった。だがそう思ったのも束の間、その感情は不穏に掻き消されていった。
この男は再びこんな闇に彼女を呼び戻そうとしている。それは絶対避けなければならなかった。
『やめろ……そんなことはするな……』
『今、やめろと言ったか?』
静かに歩み寄る男の声に怒りは感じなかったが、距離が狭まる度に得体の知れない畏れが身体中を襲っていた。
男は間近に屈むと床に伏した相手の髪を弄び、強く掴んだ。
碧い瞳がこちらを見据えていた。
不可能という言葉はこの男の中に存在しない。だからこそ自分は口にしたことは必ず現実にするこの男の言葉を全力で否定しなければならなかった。
『やめろ、彼女を俺に関わらせるな』
『勘違いしているな。彼女をここに呼ぶのはお前のためではない。私のためでもない。彼女のためだ』
緩やかだが冷淡な声が耳元に注ぎ込まれる。
理解不能な言葉を紡ぐ男の碧い瞳に畏怖を感じ、同時に美しいとも思った。
これ以上自分に為せる術はなく、屈服と同等の感情を自らの中に見出せば、その後はもう虚脱しか残らなかった。
見上げれば、どこかから隙間風が入り込んでいるのか裸電球が揺れていた。
ライは終わらない闇の中で、暗い水に消えた少女の姿を蘇らせていた。
彼女の無事を祈りながらも、そんな権利などないと思っていた。
けれど彼女は生きていた。その事実には身が震えるような安堵を覚えるが、身勝手でしかないその感情には嫌悪が湧く。それでも暗闇で目を閉じれば、浮かぶのは彼女の顔だった。
「何を俺は……」
呟きと皮肉の笑みが漏れた。
彼女を案じながら、いつも彼女を利用していた。
彼らと彼女が旧市街に向かったあの晩、またとないチャンスだと欲していたものを手に入れた。
シリルの忠実な部下であるあの男がずっと隠し持っていたもの。それは七年前、強盗犯を装ったあの男、リジーがデビッド殺害に使用した銃だった。彼はその銃を自室の靴箱の中に保管していた。
手に入れた銃は公園の湖畔に茂る巨木の虚に隠した。最適な場所とは言い難かったが、外出の際の僅かな合間を縫って隠せるのはそこしかなかった。
隠し場所は上着に仕込んだ記憶媒体に記した。手に入れた銃とデビッドの遺体から取り出した弾を比較し新たな証拠になれば、凍結していた事件は大きく動く。でもこの情報が仲間であるミナ・コルトヴァに渡らなければ、何の意味もなかった。
『これを着るんだ』
そのために彼女に上着を着せた。彼女がどんな状況に陥っても、
そのことを思い出せば、欺瞞でしかない自らの行動にまた自嘲が湧く。
自分は最後まで彼女を利用した。それなのに脳裏には幾度も彼女の顔が浮かぶ。
あの晩、抱きしめた彼女の身体。その時に感じた思いは七年前には決してなかった感情だった。
再び彼女に会えたなら、許されるために何でもする。
もし、目の前から消えろと言われればその通りにする。
しかしどれもこれも、ここから生きて出られればの話だった。
任務に就く際、最悪の事態は常に念頭に置いている。でもその最悪が訪れる前に彼女にもう一度会いたいと願う己の身勝手さには、再度の嗤いを零すしかなかった。
見上げた頭上では裸電球がゆらゆらと揺れている。
それは吊られた自分の姿のようにも見えた。
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