初夏色ブルーノート

かしこまりこ

拝啓 寺田智昭さま

 突然お手紙を差し上げる非礼をお許し下さい。


 私は山崎佳代子と申します。岡田明子の娘です。


 母のことでお伝えしたいことがあり、筆を取りました。何からお伝えすればいいかわからず、何度も書き直したのですが、要点のみ簡潔にお伝えすることがどうしてもできません。失礼を承知の上、私の知るすべてをお伝えすることにしました。そうすることが、必要に思えるのです。つたない文章で申し訳ございません。少し長くなりますが、読んでくだされば幸いです。


 昨年の五月のことです。葉桜の美しい昼下がりでした。買い物に出かけ、歩き疲れていた母と私は、目に入ったカフェに入りました。そのカフェは、パリの老舗しにせのような落ち着いた雰囲気で、母に似合っていました。母は自分に相応ふさわしいものを熟知していて、それ以外のものは受け付けないかたくななところがございました。それを、品の良さだと解釈する人も多くいましたが、私はあのプライドこそ、母の哀しさではなかったかとも思うのです。


 二人でアイスコーヒーを注文し、一息ついたところで、あるメロディーが聞こえてきました。子どものころに、よく母が口ずさんでいたメロディーでしたが、もう何十年も聞いていない、なつかしい歌でした。母の顔を見て、私はハッとしました。まるで知らない女のような顔をしていたからです。ああ、「あのとき」と同じだ、と私は思いました。


 それは、カフェの雰囲気にも母にも似合わない、のびのびと自由を謳歌おうかするようなメロディーでした。


「あのときは、こんなに暑くなかったわね。」とまるで独り言のように母が言いました。「え?」と聞き返すべきか、聞かなかったふりをするべきか、迷っているうちに、母の顔は元に戻りました。


 母の言う「あのとき」がいつのことを指しているのか、私には痛いほどわかりました。あのとき。まだ初夏が今ほど暑くなかったころ。私がまだ十歳のころです。


 あの日、私は学校を早退しました。真面目で健康だった私は、学校を早退するなど滅多にありませんでした。でもあの日は、お昼すぎに珍しく具合が悪くなり、自宅に帰りました。


 ちょうど私の家が見えたところで、父よりもずいぶん若く見える男性が、家の前にいるのを見かけました。その男性は、とても真剣な顔をして家を何度か振り返っていました。その男性と、一瞬、たしかに目が合ったのです。最初は驚いた顔をしていました。それから、どこか痛いのではないかと思うほど辛そうな顔をして、足早に去って行きました。


 家に入ると、母が鼻歌を歌っていました。あのメロディーです。母はあのころ、よくあのメロディーを口ずさんでいました。


「ただいま」と言うのが、なぜかはばかられ、歌の聞こえるほうへ吸い寄せられるように行きました。ダイニングテーブルに、ほおづえをついて、母が歌っていました。窓のほうをぼんやりと見ながら歌う母の顔は、ひどく大人びた少女のように見えました。いつもきちんとしている髪が少しほつれて、ブラウスのボタンが一つ外れていました。私の知らない女がそこにいました。


「お母さん、私、その歌だいきらい。」私がそう言うと、母が弾かれたように私を見ました。次の瞬間、母の顔は元に戻っていました。十歳だった私が、すべてを察したわけではありませんが、母はあれ以来、あの歌を口ずさむことはありませんでした。それから私は「あのとき」のことは、すぐに忘れてしまいました。


 ですから、たまたま入ったカフェで、あのメロディーが流れてきたのは、決して偶然ではなかったのでしょう。あれほど注意深く二人で埋葬したはずだった私の記憶は、たった一節のメロディーによってよみがえりました。


「お願いがあるの。」アイスコーヒーを飲み終えた母が言いました。「ミシン台の横に引き出しがあるでしょう。一番下に紺色の箱が入ってるんだけど、私が死んだら、処分してくれないかしら?」


 ずいぶん、突飛なお願いだと思いました。処分をするのだったら、生きているうちになぜ自分でしないのか。それに、母はまだ七十になったばかりで、健康そのものでしたから、もっと長生きするのだと思っていました。


「お父さんの介護から解放されて、やっと好きにできる時間ができたんじゃない。死ぬだとか縁起の悪いこと言わないでよ。元気で長生きしてね。」そんなことを、私は言ったと思います。


 父はそれは厳しい人でした。母を小間使いのように扱うくせに、母に常に美しくあることを求めました。母よりもひと回り年上だった父は、晩年、体が不自由になり、母が看取りました。大柄の父の介護の大変さは、並大抵のものではなかったはずです。母のためにも、施設に入るように皆で勧めましたが、父はヘルパーを雇うことすら許さず、身の回りの世話を全て母にやらせました。


 それが母の美意識でもあったのです。自分の役割を全うすることが。自分に与えられた人生を生きることが。


 カフェを去るとき、私は思わずあのメロディーを口ずさみました。すると母は泣き笑いのようになり、私と一緒になって歌ったのを覚えています。あのとき、母はやっと許されたのだと思いました。


 ですから、あの後すぐに、母が心臓発作で急逝したときは、悔しくて悔しくて、私は泣きました。


 母の遺品を整理するために実家に戻ったとき、真っ先にミシン台の隣の引き出しを開けました。母の言った通り、そこには紺色の箱があり、中に一枚のレコードが入っていました。クラシック以外の音楽を聞かなかったあの家に、一枚だけ、ブルースのレコードが。苦しい現実を笑い飛ばすためのアップビート。貧しい黒人の慰めだった歌。あの堅苦しい家にちっとも似合わない、くだけた旋律。母が一時期、よく口ずさんでいたあの歌。


 いつ、どこで、母はこのレコードを聴いていたのでしょう。この音楽が流れていたとき、どんな時間を過ごしていたのでしょう。何を思い、どんな顔をしていたのでしょう。


 箱の中には、レコードと一緒に、寺田様宛ての手紙が何通も入っていました。数えたら四十五通ありました。私の年齢と同じ数です。一年に一度、誰にも届かない手紙を、寺田様宛てに書いていたのかもしれません。寺田様宛てのお手紙ですから、私は開封しておりません。


 母からの手紙を届けるために、寺田様について調べさせていただきました。昨年の五月にお亡くなりになったのですね。母が他界したのとちょうど同じ時期です。この手紙を紺色の箱に一緒に入れて、箱ごと燃やすつもりです。母と寺田様への、せめてもの供養です。

 

 私は父を恨んでおりました。父のせいで、母の人生は不幸になったのだと思っていました。自分のことは後回しで他人の世話ばかり焼いているうちに、母は自由に生きる機会を失ったのだと、やるせない気持ちでした。


 でも、この紺色の箱を見つけたとき、母はちゃんと、自分の人生を全うしたのだと思えたのです。この手紙の束は、父への裏切りではなく、父と一緒に築いたものを守るための、儀礼だったのではないかとさえ思うのです。


 寺田智昭さま、母を愛してくださってありがとうございます。母の手紙が貴方のところへどうか届きますように。


追伸:生前、私は父と分かり合えることが、ついぞありませんでした。でも、今でも私のただ一人の父だと思っています。それが、父に対する供養です。

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