第5話

 馬がひん、と鳴く。水を飲んだ腹は心なしか肥大したように見える。私が手綱たづなを引くと、馬は随分とゆっくりついてきた。その先を少し離れて、翁が足早に歩いている。だが、その歩調は虚勢に思われた。というのも、足の運動がどこかぎこちない。足が悪いのか、気分が悪いのかは判断しかねるが、普段からこういった足取りではないだろうという勘によるものだった。

 辺りは一面の緑。飛び回る虻や田からの虫の音以外に音はなく、ただ雄大な山の恵みを享受するのみである。何か、神といったものを信ずる気持ちがわかるような気がした。

 そんなことを考えていると、翁は家に入っていった。私が敷地に入るか躊躇ちゅうちょしていると、翁はこちらを一瞥いちべつしてから、敷地の中の何かを指さした。倉庫のようなものかと敷地に足を踏み入れて確認すると、それは使われていない馬小屋であった。そこに馬を繋げということだろう。私は少しこの翁に何かされるのか、と恐ろしくなって来ていた。馬を繋いでしまえば咄嗟に逃げるのに不便である。とはいえ、ここで怪しまれては、と直ぐに解くことができるように紐を柱に結んでおいた。

 馬小屋を出ると少しして、私を呼ぶ声が聞こえた。声の元へ赴くと手入れされていない庭と縁側があった。翁はそこにあぐらを掻いて座り、手には酒があった。

とげぁでへらめがすわげにもいがねぁ。外で話すわけにもいかない

 翁はそう言いながら私の分の酒を注いで自分の隣に置き、私に座るように誘導した。そして、ぐい、と酒を煽った。

 私はその通りに縁側に腰掛け、酒には手をつけず尋ねた。

「私の言ったことは間違いでしょうか」

 翁はこちらを見ずにまた、ぐい、と酒を飲んだ。

「誰にこれ聞いだ」

「ある友人がこの辺りの怪談を聞いていたところで、もしやと思いまして」

 翁はそれを聞いて、ため息をついた。それは肯定の合図であった。

『あなたが妖だと思い討ったのは山人ではなく、佐々木トヨですね?』

 この問いに関して私は全くの言いがかりだとは思っていなかった。こんな突飛な閃きには当然裏付けるものがある。それは他ならぬ鏡石君の話であった。

 佐々木トヨは鏡石君の大叔母にあたる人物だ。鏡石君が生まれる前に山に立ち入り亡くなっている。

 この考えに至ったのは第一に、女が山で遭遇する事故の稀有けうさであった。山は女人にはあまりに危険で、山あいに住む人であればあるほどそれを知っている。こうした事件はそう頻繫に起こるものではないのだ。

 第二に、青笹の猟師の話だ。山で女を見かけることはない。だからこそ顔見知りの長者の娘にさえ猟師は銃を向けた。これはこの青笹の猟師だけでなく、この辺りの猟師はみな同じような反応をするのであろう。笛吹峠を通るものがいないのがその証拠だ。それくらい遠野の人間にとって人ならざる存在は身近で、逆に山で女に遭うのは身近でなかったのだ。

 第三に、これら一連の出来事は全て同じ山で起きたことだということだ。これが、一番の決め手であった。山口村は六角牛山の麓なので、佐々木トヨが落命した山もまたここである。

 翁は酒を飲み干した。そして、ようやく語り始めた。

「昔がらあっちゃあのあたりにはもっこ妖怪がいるって噂だ。笛吹峠がら渓流さおづり降り、さらに山深ぐ進むど緒桛おがせの滝さ出る。そごでおらは山女をおけぁすた倒した。そんで酒の席で自慢した。そして、そごで証拠どなるあやがしの髪見せびらがすべーどしたどごろで雲行ぎが怪しくなった。山口の農家さ嫁いだ女が嫁ぎ先どそりが合わず、気が狂って山さ逃げだど言う話そごで初めでおべでることになった知ることになった。おらはどまづぐ狼狽するままに咄嗟に懐さ髪しまい、証拠はその後別の山男が回収した、と言ってその場乗り切った。 」

 私は鏡石君にこの話を聞いた時、山男のくだりが突飛だと思った。この話がちぐはぐなのは、酒の席での咄嗟の作り話が混ざっているからであったのだ。

「背丈がとても高く、肌が雪のように白かった。山人はそのような姿をしていると噂があった」

 私はそれを聞いて、確かに、と思った。血のつながりのある鏡石君は色白である。

 翁が顔を上げて私を見た。

「誰からこの話聞いだ」

 私は翁から警戒を解いた。

「私の友人の大叔母が佐々木トヨさんなのです」

「ああ、あの坊か。あいつのずさま祖父も名のおべでられた知られた語り手だった。そういう所よく似たんだろ」

 翁はまた視線を地面に移した。

「この話を彼は知りませんし、私も彼に話すつもりはありません」

 この真実は鏡石君の幻想を壊し、彼の大叔母の死の真相を突きつける悲惨なものだ。決して気づかれるわけにはいかなかった。

「そうか、謝ることも出来んのだな」

 翁はそう言い、ゆっくり立ち上がると庭の裏手に回った。私も、それに続いた。

 翁は立ち止まると、合掌して頭を垂れた。

 そこには碑が建っていた。『南無阿弥陀仏 明治十二年銘』と刻まれていた。



       *



 時代は令和になり、栃内和野は岩手県遠野市土淵町に属するようになった。宿場町として栄えた遠野郷はその面影を全く見せず、道路は舗装され馬の代わりに車がまれに走っている。山も登山道が整備され、石神山は女人の禁が解かれた。笛吹峠の噂の存在すら知る者はほとんどいない。

 妖怪たちはどこに行ってしまったのだろうか。それとも最初から妖怪など居なかったのだろうか。

 嘉兵衛の住居跡に今も現存する碑は、何も語らない。しかしこの存在は同時に、妖怪が実在したという「物語」をも語ってはくれないのだ。ただひっそりとそこに佇むのみである。



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物語らぬ遠野の碑 八朔日隆 @Utahraptor

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