第5話
馬がひん、と鳴く。水を飲んだ腹は心なしか肥大したように見える。私が
辺りは一面の緑。飛び回る虻や田からの虫の音以外に音はなく、ただ雄大な山の恵みを享受するのみである。何か、神といったものを信ずる気持ちがわかるような気がした。
そんなことを考えていると、翁は家に入っていった。私が敷地に入るか
馬小屋を出ると少しして、私を呼ぶ声が聞こえた。声の元へ赴くと手入れされていない庭と縁側があった。翁はそこにあぐらを掻いて座り、手には酒があった。
「
翁はそう言いながら私の分の酒を注いで自分の隣に置き、私に座るように誘導した。そして、ぐい、と酒を煽った。
私はその通りに縁側に腰掛け、酒には手をつけず尋ねた。
「私の言ったことは間違いでしょうか」
翁はこちらを見ずにまた、ぐい、と酒を飲んだ。
「誰にこれ聞いだ」
「ある友人がこの辺りの怪談を聞いていたところで、もしやと思いまして」
翁はそれを聞いて、ため息をついた。それは肯定の合図であった。
『あなたが妖だと思い討ったのは山人ではなく、佐々木トヨですね?』
この問いに関して私は全くの言いがかりだとは思っていなかった。こんな突飛な閃きには当然裏付けるものがある。それは他ならぬ鏡石君の話であった。
佐々木トヨは鏡石君の大叔母にあたる人物だ。鏡石君が生まれる前に山に立ち入り亡くなっている。
この考えに至ったのは第一に、女が山で遭遇する事故の
第二に、青笹の猟師の話だ。山で女を見かけることはない。だからこそ顔見知りの長者の娘にさえ猟師は銃を向けた。これはこの青笹の猟師だけでなく、この辺りの猟師はみな同じような反応をするのであろう。笛吹峠を通るものがいないのがその証拠だ。それくらい遠野の人間にとって人ならざる存在は身近で、逆に山で女に遭うのは身近でなかったのだ。
第三に、これら一連の出来事は全て同じ山で起きたことだということだ。これが、一番の決め手であった。山口村は六角牛山の麓なので、佐々木トヨが落命した山もまたここである。
翁は酒を飲み干した。そして、ようやく語り始めた。
「昔がら
私は鏡石君にこの話を聞いた時、山男のくだりが突飛だと思った。この話がちぐはぐなのは、酒の席での咄嗟の作り話が混ざっているからであったのだ。
「背丈がとても高く、肌が雪のように白かった。山人はそのような姿をしていると噂があった」
私はそれを聞いて、確かに、と思った。血のつながりのある鏡石君は色白である。
翁が顔を上げて私を見た。
「誰からこの話聞いだ」
私は翁から警戒を解いた。
「私の友人の大叔母が佐々木トヨさんなのです」
「ああ、あの坊か。あいつの
翁はまた視線を地面に移した。
「この話を彼は知りませんし、私も彼に話すつもりはありません」
この真実は鏡石君の幻想を壊し、彼の大叔母の死の真相を突きつける悲惨なものだ。決して気づかれるわけにはいかなかった。
「そうか、謝ることも出来んのだな」
翁はそう言い、ゆっくり立ち上がると庭の裏手に回った。私も、それに続いた。
翁は立ち止まると、合掌して頭を垂れた。
そこには碑が建っていた。『南無阿弥陀仏 明治十二年銘』と刻まれていた。
*
時代は令和になり、栃内和野は岩手県遠野市土淵町に属するようになった。宿場町として栄えた遠野郷はその面影を全く見せず、道路は舗装され馬の代わりに車がまれに走っている。山も登山道が整備され、石神山は女人の禁が解かれた。笛吹峠の噂の存在すら知る者はほとんどいない。
妖怪たちはどこに行ってしまったのだろうか。それとも最初から妖怪など居なかったのだろうか。
嘉兵衛の住居跡に今も現存する碑は、何も語らない。しかしこの存在は同時に、妖怪が実在したという「物語」をも語ってはくれないのだ。ただひっそりとそこに佇むのみである。
物語らぬ遠野の碑 八朔日隆 @Utahraptor
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