第4話

 今よりおよそ半年前、私に先立って葉舟君が遠野の地を訪れた。鏡石君の話は私たちを非常に興奮させ、ついに現地にまで運んだ。私とて例外ではない。

 花巻から十余里の道の途中には街が三ヶ所ありそれ以外には青い山と原野があるのみだ。人家から出る煙は少なく、北海道の石狩平野にも満たないほどであった。もしかしたら新たに開かれた道であるために定着する人が少ないのかもしれない。

 遠野の城下は言わば、煙花の街である。駅に着いた私は宿屋の主人から馬を借りた。遠野は宿場町であり、交通手段は馬である。それ故に一家に一頭は必ず馬が居て、その貸し出しも普通のことだ。馬は黒い海藻でできた厚総あつぶさ(馬具)を掛けてある。八月末、あぶが多いためであった。その馬に乗って、郊外へ向かう。

 細い田をひたすら横切り、いくつか小さな峠も超えた。

 天神の山には祭りがあって、獅子踊りがある。ここにだけは軽く塵が立ち、紅い物がわずかにひらめいて、一村の緑に映えている。獅子踊りというのは鹿の舞である。鹿の角をつけた面をかぶり、童子五・六人が剣を抜いてこれと共に舞うのである。笛の調子は高く、歌は低いので、そばにいても聞きにくい。

 日は傾いて、風が吹き、酔って人を呼ぶ者の声も寂しくて、女は笑い、子供らは走り回っている。

 盂蘭盆うらぼん(祖先を祭る仏事)に新しい仏のある家は、紅白の旗を高く揚げて魂を招く風習がある。峠で馬の上から東西を指さし数えてみたら、この旗が十数ヶ所あった。

 永住の地を去ろうとする村人と、たまたま入り込んだ旅人と、またその悠々たる霊山とを、黄昏はゆっくりとやってきて、すっかり包み込んでしまった。光と影の境界、新と旧の境界、人と妖の境界が蕩けて曖昧になり、揺らぐ。


日が完全に暮れる前に宿にたどり着くことができたのは幸運だった。とはいえ、この辺りは宿場町なのだから宿を探すのに苦労はなかった。

 泊まった宿の主人は齢六十といったくらいの男だった。私は彼に

「佐々木嘉兵衛という方を知りませんか」

 と尋ねた。馬にやる餌と水を用意していた男は、

えらぁすごいよたぐれ酔っ払いであまり良い噂は聞がねぁーね」

 と言った。


       *


 翌日、宿屋に大まかな地図を持たされた私は栃内村に来て馬を止めた。川を挟んではいるものの栃内村と、鏡石君の出身地、山口村はすぐ近くであった。話に聞く通りどちらも六角牛の麓である。

 大字和野まで来た辺りからは複雑なため現地の人々から道を聞くようにと宿屋から言われていた。青い田に囲まれた、辺りを見渡すと遠くに人影があるのを認め、そちらに向かった。

 それは齢六十ほどであろうか、まだ腰の曲がりきらぬおうなであった。

「もし」

私は媼に呼びかけたが、媼はこちらをじっと見た後、無視して行ってしまった。

次にも離れたところで初老の女を見かけたが、今度は何を聞いても「知らねぇあ、知らねぇあ」というのみで足早に去ってしまった。どうやらここは宿場町たる中央から少し離れた郊外であるため、ここを訪れる見知らぬ顔は警戒される様だった。


小川を見つけたので少し休憩することにした。馬にも水を飲ませてやらねばならない。汗を吸った手拭いを清水で洗っていると、またもや視界に人影を認めた。そちらに向かうと、それは齢七十程の翁であった。片手に鎌を、もう片方に束ねた笹があった。

「佐々木嘉兵衛という方を知りませんか」

 私が問うと、翁は

「嘉兵衛はおらじゃ」

 といぶかしげに答えた。なるほど、不敵の男である。

「これは失敬しました」

「おめぇは誰だ。都会もんか」

「東京から来ました。柳田と申します」

「東京もんが何の用でこったなこんなぜぇんご田舎きだのが来たのか?」

「この辺りに伝わる怪談話について、お伺いしたく――」

「知らねぁ。帰ってぐれ」

 そう吐き捨てるとずかずかと歩き始めた。彼の後ろ姿に問いかける。

「質問を変えましょう。佐々木トヨという名前に覚えは?」

 翁が足を止める。

「……なんでおめがそれを知ってら?」

「話していただけますね」

 嘉兵衛はうつむいた後、「ついでごいついてこい」と言った

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