第2話

 時は過ぎて、私は大学を卒業する。


 可もなく不可もないという成績でこれまでの人生を過ごしてきた。なのに民間の会社に入り、年次を重ねていくだけで次第にとりまとめや教育の仕事を任されるようになった。これはもしかして私の仕事ぶりを高く評価されているのかも? そう調子に乗った私は居酒屋で、冗談交じりに上司に訊いてみた。「年次を重ねたら当たり前のことだ」と返された。拍子抜けしてしまったのだけど、気持ちの半分くらいはどこかほっとしたもので満たされていた。


 1LDKのマンションに戻り、勢いよくストッキングを脱ぐ。この瞬間、社会から解放されたような気分になる。ケンケンで冷蔵庫前に移動し、アイスコーヒーをコップに注ぐ。全てが始まりのように思えて、いつか終わりのある『全て』なのだとも感じる。

 あと十時間したら、また家を出なければならない。

 まだお風呂にも入っていないし、化粧も落としていないし、朝起きた後は同じだけの身支度の時間を必要とするのに。

 それでも私はアイスコーヒーの入ったグラスを片手に、窓から眼下の車道を眺めてみた。牛丼屋の前で、若いサラリーマンたちが盛り上がるために盛り上がっている。私は唇に微笑をともし、高校時代のことを思い出した。


 都築つづきはああいうノリをもっとも嫌う男だった。大人になった今はわからない。だけど少なくとも、高校時代のあいつは、誰かの価値観に逆張りをすることを正義としていた。私はそんな彼を認めていたし、自らが『逆張り』の立場にいるわけではなく、かつ側で異質の雰囲気に丸めこまれているというのは安全圏における達観だったのだと思う。

 私たちはなんの部活にも所属せず、ただただ音楽室での逢瀬を行った。とはいえ奴と恋愛関係にあった時は一度もない。そういう気持ちが起こるということすら、概念的にありえないものであったのだ。私は彼と同一にはなりたくなかった。あくまで別の存在として、それでも都築のもつ反共同性という酒に酔っていたかったのだと思う。


 窓を開けると、ぬるい夜風が鼻腔を湿らせた。

 私はいつだって、この夜風に始まりを見てきたような気がする。自分がどんな仕事をし、どんな恋愛をするのかまったくイメージできなかったのに、イメージの中の私は『最高』の仕事と恋愛を得ていた。とにかくすごい仕事をして、映画の恋愛をできると感じていたのだ。そのパズルのワンピースすらも描けていなかったというのに。夏の夜は、想像の中にある『最高』という名前の扉を開ける鍵になるはずだった。


 スマホが震動した。LINEだ。上司から、明日の新人教育についての最終調整連絡。『期待している』と書かれていた。そんな愛想にもどこかホッとしてしまう。わずかな幸せこそが人生の要点である――。意識をしてしまいたくないのに、そう思えば過去・現在・未来の全てに納得のいく数式を築ける気がする。


 アイスコーヒーはいつしか、アイスではなくなっていた。

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