Black Octopus Witch Cafe
北山双
Black Octopus Witch Cafe
「今日は何の日か知ってる?」
マスターは唐突に謎をかけた。僕は食器を下げたカウンターをふきながら、4月30日にまつわる事を思い返そうとしてみたが、特に何も思いつかなかった。
いや、本当は、一つだけ知っているのだが。
「さぁ?ゴールデンウィーク?」
「ヴァルプルギスの夜、だよ」
既に半分売れた林檎ケーキを補充しつつ、マスターは此方を見てにやりとした。
濃い眉と、コーヒーの様に純粋に黒い眼は鋭いまま、形のいい厚い唇の端を持ち上げる、シニカルな笑い。
これを見せられると僕は、何もかも放り出して縋りつきたくなる。13の時、初めて買った子供向けでない雑誌で見つけて射貫かれた、あの「魔女」――即ち、この喫茶店「Black Octopus Witch Cafe」のシンボルになっている魔女の絵に似ているからだ。
ポーズはウォーターハウスのキルケーの絵をモチーフにしているのだろうか。長い黒髪に真珠を連ね、裾が八つに分かれたローブを纏った魔女は、八つ又の鞭と広口の盃を手に少し顎を挙げ、ネコ科の猛獣のような端正で傲然とした顔に妖しい微笑みを浮かべている。
オデュッセウスでは無い僕は、ページを繰っていて現れた彼女にすっかり心酔してしまい、時折夢にまで見た。
今は、身近にいるよく似た人に重ね合わせて時折煩悶している……
「ヴァルプルギス?ああ、聞いた事はあるかも」
「魔女の店で働いてるんだからそのくらい覚えときな」
気を取り直してふきんを洗う僕の耳元で、マスターは艶のある低い声で言った。背筋を甘い戦慄がはしり、思わず手が止まってしまう。
こちらの反応を知ってか知らずか、彼は時々そういう事をする。
20時を過ぎるとお客は皆帰ってしまった。普段なら居る常連客も、旅行にでも行ったのか誰も来ない。カウンターの端で常連客が置いていった古い詩集をめくっていると、来る前に食事をしたのにも関わらず腹が鳴る。
あまりの静けさにそれが聞こえたのだろうか?マスターは冷蔵庫からサンドイッチを取り出し、僕の隣に腰を下ろした。
「こういう事もあろうかと思って。どうせもう誰も来ないだろうし」
「やった!!!」
自家製のハムとスグリのジャムが挟まったサンドイッチは、甘酸い味と塩気がたまらなく美味しかった。マスターが一つ食べる間に僕は二つ食べたので、大半は僕の胃袋に収まった。
「あーあ、ちょうど二人で分けられる分作ったのに」
「良いじゃないすか。僕、今日誕生日なんだし」
指に溢れたジャムを舐め取りながら言うと、マスターは目を丸くした。
「え?そうだっけ?」
「はい。今日からハタチです」
まだ頬張っている僕をマスターはじっと見た。食べているところを見つめられるのはなんだかくすぐったい。
「なんすか、そんなじろじろ見て」
「まったく、いつ見てもお前の食べっぷりは気持ちがいいよ」
彼は不意に立ち上がり、カウンターの下から黄金色のとろりとした液体の入った瓶を取り出した。
「ついでに呑みっぷりも見せてもらおうかな」
二つのグラスに注がれた酒は甘い匂いがした。
「誕生日に乾杯」
鼻先に掲げられたグラスにそうっとグラスを当てる。滑らかで薄い縁がかちりと音をたてる。恐る恐る口に運ぶと、甘さの奥の苦さが舌に染み、ハチミツらしき香りが鼻に抜ける。
「なんか甘い匂いっすね。酒っていうかシロップっていうか」
「ハチミツを発酵させた酒だからね。ヴァルプルギスの夜に魔女が呑むそうだ」
なるほど、ともう一口すする。よくよく味わうと結構強い気がするが、甘さのせいで普通に呑めてしまう。
次第に体の芯が温まってふわふわしてきた。これが酔いというものなんだろうか。
「酒ってみんなニガいかと思ってたけど、こーいうのもあるんすね。あーおいしい。マスターに乾杯!魔女にも乾杯!!」
僕はへらへらとカウンターの上にかけてある魔女の絵にグラスを向け、残りの酒をあおった。
「ねえ、マスター、僕、あの魔女めちゃくちゃ好きなんすよ」
勢いに任せてつい口走る。マスターは短く笑いつつ1口呑んだ。
「そうなの?」
「好きっていうか一目惚れっていうか。ガキの頃、雑誌で写真を見て、うわーヤバいきれいエロい惚れた!!!ってなって、ずっと忘れられなくてヤバくて」
空になったグラスをカウンターに置き、僕は頬杖をついてもう一度魔女を見上げ、それから狭まったような視界で傍らの横顔を見た。照明のせいか、酔いのせいか、いつにもまして似ている気がする。
「マスターって魔女に似てるよね」
「だろうね」
僕と同じように頬杖をつき、彼は例の魔女の微笑みを浮かべてこっちを見た。
「店を作った時、知り合いが俺をモデルにして描いたんだよ。あの絵」
肌理の細かい肌がほんのりと上気して、鋭い目は陶然と潤んでいる。それに見とれながら、僕はとんでもないことを言ってしまったとようやく思った。
「……ヤバいきれいエロい惚れた、ねえ。実物を見てもそう思う?どうなんだ」
恥ずかしさと酔いの熱さにやられて、僕はカウンターに突っ伏した。そのまま顔もあげられずにいると、優しい柔らかい笑い声と手が降ってきて髪と肩を撫でた。
答えないでいる限り、それが続いてくれる気がして、僕は何時の間にか眠り込むまでずっとそのままの姿勢でいた。
Black Octopus Witch Cafe 北山双 @nunu_k
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