七十七 捌くもの
お守りからそろりと首を伸ばし、外気に触れて見上げた太陽は、中天より大分傾き、夕暮れの気配が漂い始めている頃であった。
「起きたか。星子や」
星子の覚醒に気付いた白星の声が、どこか遠くから届いているような、茫洋とした気分に浸る星子。
そして香る、これまで一度も嗅いだ事のない異質な空気を感じ取り、ようやく星子は言葉を吐き出した。
「……ここはどこ? この香りはなに?」
「ぬしが待ち焦がれておった海岸よ。漂うは潮、即ち磯の香りぞ」
寝惚け眼で問いを漏らす星子に、白星が丁寧に答えてみせる。
「海が……こんなに近くに……」
白星の指す方へ目をやれば、血のように赤い夕陽に染まる水面が、視界一杯に広がっている。
その光景は星子に、まるで戦の跡に流れた血溜まりを想起させた。
よくよく見れば、手前の干潟には何がしかの死骸が山と折り重なり、すでに死闘が行われたことを物語っている。
そしてさざ波立つ広大な海に見入り、寝惚けた頭の整理に努めた。
やがて眠気が消え、頭が冴えて来ると、途端にその耳にがやがやとした周囲の騒がしさが飛び込んできた。
「もう! なんなの、さっきからうるさくして──ひゃっ!?」
海から振り返り、騒音の出どころを確認した星子は、思わず悲鳴を上げて固まった。
そこには今まで見た事もない、土蜘蛛兄弟よりも遥かに巨大な見上げるばかりの肉塊が、どんと鎮座していたからだ。
下手をすれば、須佐の里の要石と並ぼうか。
落ち着いた後によくよく見れば、目鼻があり、口があり、生き物の首のように思える。
半ば解体され、肉を削がれているが、その程度の面影は残っていた。
そこまで観察した時、かつて図鑑で似姿を見た、海亀なのではないかと思い至る。
まさかここまで大きいものだとは、夢にも思っていなかったが。
顔だけでこれだけの大きさなのだ。
全体像など、それこそ山のような巨体だったに違いない。
その威容を誇る敵を相手取り、大した怪我をした様子もない白星に、星子は誇らしさと、一抹の畏怖を感じ得た。
やもすれば、世の太平を乱す要因ともなるのではないか。
そんな一筋の思いが脳裏を走る。
しかしこの魔性を解き放ったのは、間違い無く自分なのだ。
もう引き返す事も、嘆く事も許されない。自分は怨霊なのだから。
そう開き直った星子は、怪物の頭の方へ改めて意識を向けた。
喧噪の原因は、その巨大な首を岸に引き上げ、福一、そして見慣れない大勢の大人達が囲み、解体作業に従事しているためだった。
「こやつこそ、わしの首に魅入られ、邪気を貪り、ここらを魔境と化していた元凶よ。これまでと違い、どうにも聞き分けが悪くての。処置なしとはこのことよ」
白星は軽く言ってのけたが、かつてない激闘だったのだろう。
今までは黒衣の女と鹿島が中将を除き、どんな相手でも命までは奪っていないと聞いていたのだから。
「星子よ。首を取り戻すに、殺生をも厭わぬわしを、
静かな声ながら、心中の動揺を見透かしたような白星の問いに、星子はすぐに答える事ができずにいた。
先程心中に湧いたものが、確たる疑念となって背筋を撫でたのだ。
白星にとっては、己の首を取り返すのは当然の権利ではある。
が、元を辿れば、星子達須佐の民の私怨。復讐を遂げるために犠牲を出したも同然なのだ。
幼き少女が少なからず罪悪感を得ても、仕方のないことであったろう。
「……わからない……けど」
星子は言葉を濁しながらも思考を整理し、覚悟を決めた様子で表情を毅然と改めた。
「私は復讐のため、白星に全部を任せた。例えどんな手を使ってでも、皆の仇を討つために、そうするって決めたのは私」
「なれば、わしが己が首のため。いわんや、帝を討つまでの邪魔者全てを斬り捨てても構わぬ、と?」
「……うん。そうなっても、全部私の罪。私は、白星が何をしても責めない。だって私は大怨霊になって、帝を祟ってやるんだから!」
多少意地の悪い言葉を選んだ白星に、星子は寸時逡巡を挟んだ後、力強い焔を瞳に灯した。
「かか。律儀なことよ。よかろ。ぬしの覚悟、しかと見たり」
満面の笑みでもって、白星が星子の頭を撫でる。
「今回得た首と龍穴をもって、わしはさらに力を増そう。さすれば、こそこそ隠れる必要もなくなるやも知れぬ」
「じゃあ、一気に帝都に攻め込むの?」
勢い込んだ星子を、白星はやんわりと制し、
「それはまだ早かろうて。何より、帝都の情報が皆無ぞ」
苦笑しつつも、白星は一つの希望を示す。
「ただ、国に反目する一勢力として旗揚げすることも、いよいよ視野に入れるということよ」
そう言って、解体作業の進む亀の頭を振り返る白星。
「あれなる戦利品を元に、いずれ
宣言と共に、ばさりと一陣の潮風が、白星の髪を大きくなびかせた。
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