七十六 背負うもの

 白星が飛び込んだ水底は、まさに魔境と呼ぶに相応しい、深淵の如き様相を呈していた。



 薄墨を溶かしたように濁った海水。


 歪曲して射し込む陽が点々と照らし上げる、まさに人の腕と化した触手を蠢かせる磯巾着いそぎんちゃくや、鋭い角のような藤壺ふじつぼ等がびっしりと覆う岩壁。


 たなびく黒髪を思わせる長大な海藻類が、触れるもの全てを絡めとらんと揺らめく海底の大森林。


 本来ならばそれらに潜み、天敵の襲撃に怯えるはずの小魚達も、捻れ果て、巨大化した獰猛な威容を晒し、あちらこちらで喰うか喰われるかの争いを見せている。



 直接の要因は白星の首塚とは言え、伊勢氏が適切な手を打たなかった結果、この河口一帯を濃密な邪気が満たし、長年を経て侵食していったのだ。



 白星は襲い来るいびつな魚影を、妖気を全開にした一睨みで退散させながら、己の首の放つ気へ向けて泳いでゆく。


 やがて陽射しも途切れがちになってきた頃、水底にこんもりと盛られた泥土と、そこへ斜めに突き刺さるように建つ、苔むした小さな祠の姿を捉えた。


 あとひと踏ん張りとばかりに蹴り足を強めた白星が、祠へついに辿り着き、白鞘を触れさせようとした一瞬の間隙かんげき


 水底がぐらりと揺れ、凄まじい泥の嵐が巻き起こった。


 たちまち激しい水流が白星の身の自由を奪い、遥かまで押し流してゆく。


 しかし白星の視界を奪う事は何人にもできぬ。

 心眼をもって睨み続ける祠は、なんと水底ごとぼこりと浮き上がったではないか。


「かか。ぬしがここらのぬしか。長年わしの首の番、大義であった」


 尋常には喋れぬが、白星の高低混ざる念話は水中でもしかと機能し、高らかに響き渡った。


 それに応えるよう、泥土を撒き散らしながら途方もない巨体が動き出そうとしていた。

 異形の源たる祠を背負ったままで。


「さあ、その背の重荷を降ろす時ぞ。さぞ過ぎた代物であったろう。ぬしに報いるがため、この地も悪いようにはせぬ」


 求めて止まぬ己の首を前に、白星は目の色を変えていた。

 甘言を吐きながら、今一度接触を図ろうと水を蹴った時、



 ──くおおおおおおおおお!!



 白星の意思に反し、黒い巨体から怒気を孕んだ奇声が発せられた。


 ただそれだけで周囲の海流が混ぜ返され、白星の小さな身体は、いとも容易く翻弄される。

 激流によって海底の至る所へ打ち付けられ、鞠のように弾んでは、祠から瞬く間に遠ざかっていった。


 幸い全て受け身を取っており、軽い打ち身を得た程度で済んだものの、轟々と頭上を渦巻く水流は止まず、近付くどころか移動もままならぬ。

 とっさに白鞘を海底に突き刺して、濁流に耐える他なし。


 祠を担いだ山のような巨体は、暗中に灯った赤い瞳を爛々と輝かせ、首を譲る気など毛頭ない事を雄弁に物語っていた。


「……さよか」


 ふと、氷のような一声を漏らす白星。


「穏便に済めば、ぬしのためにもなったがの。もはや後の祭りぞ」


 水流に振り回され、自由にならぬ身体。

 加えて、首の返還を拒否されるという予想外の展開に業を煮やしてか、珍しく白星が激情を露わとする。


「わしの首に魅了されるは仕方ない。なれど生憎と、くれてはやれぬでな」


 大分距離を取った事で動きを取り戻した白星は、海底へ着地し、白鞘をがつんと砂地に突き立てた。


「最後の手段であったが、もう知らぬ。言って聞かねば、多少痛い目を見せるしかなかろうて」


 白星の顔に、かつて灯った事のない凄絶な笑みが浮かぶ。


「即ち、これより先はいくさぞ」


 それは魔性と呼ぶに相応しい、見るだけで怖気に襲われ、魂を抜かれかねぬ程の妖気を湛えていた。



 くうううううおおおおおおお!!



 縄張りの主も危険を感じてか、咆哮を響かせ海流の勢いを更に増す。


 しかし今や白星は視界ぎりぎりの遠方にいる上に、白鞘でしかと海底に身体を固定している。

 波は白星の長い白髪を揺らすばかりで、他には何の影響も及ぼさなかった。



 そして逆に、海底全体へ変化が訪れる。



 暗がりの中へ、ぶくぶくと白い気泡が少しずつ混ざり出したのだ。


 無論、元々海流に由来するものとは別物である。


 気泡は次第にぼこぼこと大きく育ちながら海上へ立ち昇ってゆくと、同時に周囲の生物が、文字通り泡を食って沖の彼方へと逃げ去って行った。


 次第に海水に揺らめきが混じり始めると、海藻など動けぬ者達は、まるで懇願の土下座のように、絶望に頭を垂れ、間を置かずぐったりと崩れ落ち、水流に身を任せるのみとなった。


 泡の発生はどんどんと加速し、白星の笑みが大きくなるほど、祠の主の苦悶の声が盛んに上がる。



 くおおおお! くええええ!!



 暗中にてもがき苦しむ主だが、自重のせいで逃げ出せないらしい。

 しかし白星は、一度かたきと定めた者に、慈悲をかける気は一切なかった。


 今やぐつぐつと煮えたぎる海中にて、じっくりと茹で上げられる道を選んだのは、間違いなく主自身なのだ。



 白星が発動させたのは、先日須佐之男命すさのおのみことより奪った熱水の権能だった。

 海底に突き刺した白鞘を通じ、気脈が沸騰ふっとうするまで熱源をたっぷりと注ぎ込んでやったのだ。


 結果、縄張り全体を釜茹でにし、生きとし生けるものにとっての灼熱地獄と化した。


 打猿らを全員逃がしたのも、この権能を使う可能性を考慮したためである。

 今頃は陸の上から、海面がぶくぶくとゆだる様子に仰天している事だろう。


 ごぼごぼと、気泡の音が鳴り響く中、苦悶の声はしばらく続いていたが、ついに力尽きたようで、生き物の気配が完全に消えた海底を、白星は悠々と歩んでいく。


 そして再びまみえた祠の主を見上げると、それは年経た巨大な海亀であった。


 驚くべきことに、海亀にはかすかながら今だ息があった。

 白星の姿を認めると、禍々しかった赤い眼光は衰え、許しを乞うように静かにまぶたを閉じた。


「亀は万年と言うが、ここまでしぶといものとはの。よかろ。今楽にしてくれる」


 白星がこつんと海底を打った一拍後。

 ぶしゃり、と大量の鮮血が海亀の首から噴き出し。その太い首がゆっくりと海底へ沈み始める。


 目にも止まらぬ早業で、一刀の元に刎ねたのだ。


「ぬしのむくろと縄張りは無駄にせぬ。ゆるりと眠れ」


 目前にずしりと鎮座した海亀の首の鼻先を優しく撫でると、白星は本命である己の首の回収に取り掛かった。

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