三十六 憂
八咫衆が中将、鹿島貞頼の到着の報を受け、本宮はにわかに騒がしくなった。
それを聞いた少女は、これ見よがしに憂鬱な溜め息を漏らす。
乱れた黒髪を揺らして寝床から起き上がると、二人がかりの侍女による着替えが始まった。
一人が少女の長い髪を丁寧に梳き、揃えている間に、もう一人は
二人の従者は少女が生まれた頃からの世話係であり、その段取りは手慣れたもの。
少女が欠伸を噛み殺している間にも、するすると体裁を整えてしまった。
「巫女様。本日は鹿島が中将様との面会でございます。そのように腑抜けたお顔はお見せになりませぬように」
少女は隠したつもりでも、目聡く察していたらしく、侍女の一人が注意を促した。
「わかっています。今のは起き抜けで油断しただけ」
「本当に、おわかりですか?」
帯を少々きつめに締められて、少女は観念して白状する。
「……ええ。本当は、嫌々ですけれど。我慢に我慢を重ねて、粗相のないように致します」
苦悩を精一杯に浮かべた顔で答える少女に、侍女二人は呆れ顔を見合わせた。
「なりませんよ、巫女様。いかに中将様が巫女様のお眼鏡に適わずとも、手酷く袖になさるようなことは」
「わかってますってば。兄上の用意された台本通りのことだけ口にしていれば、万事済むのでしょ」
つい平時の言葉遣いが混じり、しまった、と思うも遅し。侍女の目は吊り上がっていた。
「巫女様。あなた様は今年で十五になられます。つまり本年の例祭は、巫女様成人のお披露目も兼ねての、盛大なものとなるでしょう。そのような折に下手を打てば、どうなることやら……ご想像がおつきになりましょうや?」
きっ、と正面から見据える侍女の目から視線を泳がせる、まだ幼さを残すこの少女こそ、熊野大社の神事を象徴する巫女その人であった。
呪の類を避けるため、真名は秘されて、ただ巫女とだけ称される。
その在り方は巫女というにはいささか特殊で、神の器として扱われ、世俗とは完全に関わりを断って、本宮の中でのみ暮らしている。
熊野の御山は立派な社が幾つもあるが、何故か明確に御神体と呼ばれるものがない。
神の名代たる少女の身辺は常に掃き清められ、天にある神の依り代である少女もまた、神事以外で地に降りるを許されず。
何をするにも、他人の手を介さねばならない。
どこへ行くにも、誰かにおぶってもらうか、車を引いてもらうなどせねばならない。
己の重責は承知している。
代々の永きに渡る、この営みを絶やさなかった祖先への敬意も持っている。
しかし、多感な年頃の少女にとって、この不自由極まりない生活は時に苦痛に感じられた。
その最たるものが、近々行う例祭。
それに伴う、帝都の要人との邂逅であった。
もっと幼き時分は、まだ事情をよく知らずにいた事もあって、屈託なく臨めたものだ。
しかし歳を重ねるにつれ、少女が少女らしさを帯びて来ると、使者達の自分を見る目の色が変わってきたのをひしひしと感じていた。
それが特に顕著なのが、中将鹿島貞頼である。
元来巫女の役に着いた者は純潔を貫き、神のために一生を捧げるものと決まっており、それを口説くなどもっての他。
しかし、余程の女好きなのだろう貞頼は、少女が十を超える頃には目を付け始め、会う度に背がむずがゆくなるほどに、少女の容姿を褒めちぎった。
当人は精一杯言葉を並べているつもりなのだろうが、裏に潜む獣欲が透けて見え、少女にはそれが耐え難かった。
しかし突っぱねるには、相手の立場が強すぎた。
熊野氏は旧くはあるが、国政に関わる事はなく、家格は中流といったところ。
その姫とは言え、所詮は有名無力な田舎巫女。
対して鹿島は、国の中枢を担う大氏族である。
機嫌を損ねれば、自分はともかく、親族に類が及ぶことは目に見えている。
であれば。
巫女として無垢であらねばならぬ事を最大限に主張し、やんわりと受け流すしか道は無し。
このすぐ後にも、その洗礼を受けねばならないと思うと、うんざりするのが本心であった。
しかし時は残酷にして、止まってくれる事はない。
貞頼が応接間に着いたと報せが入ると、仕方なく少女は手押し車に座し、移動を委ねた。
途中、本宮の中央に据えられた、神事に使う「
ごぉん……
と、金物を叩くような鈍い音色が少女の耳を打った。
続けてばちり、と。
何か細い棒のようなもので軽く叩かれたような感覚が、少女の首筋に走る。
「あ……」
思わずくらりと眩暈に襲われ、車の枠へとしがみつく。
「巫女様、いかがされました?」
従者が心配気に声をかけると、数秒を置いて少女はむくりと起き上がった。
金物を打つ音は、他の者には聞こなかったのだと見るや、少女は一言。
「大事ない。進みなさい」
背筋を伸ばして放った言葉には凛としたものが宿り、その表情も先までの鬱屈したものが綺麗さっぱりと失せ、神々しさすら感じさせた。
従者は少女の変貌に戸惑いながらも、手筈通りに応接間までの道を急いだ。
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