三十 幸あるもの

 落ち付きを取り戻した星子と健速は、長年の空白を埋めるように、束の間他愛ない会話に花を咲かせた。


 それは場凌ぎの団欒ではあったが、故郷を失った者達の心の均衡を保つためには、必要な過程であったろう。



 感涙に塗れて再会の喜びを分かち合う二人を邪魔せぬよう、白星は黙したまま、目を細めてじんわりと感銘に浸っていた。



 互いを思いやる血縁の絆の、なんとうつくしいことか。



 親子の情にも劣らぬきらめきをさかなに、健速が放り出していた徳利へちゃっかりと手を伸ばし、杯をちろりと舐める。



 舌に走るは、ぴりりと痺れるような辛み。


 しかしその中にもほんのりとした、加工菓子とはまた違う甘みと、つんとした香りが鼻から抜ける。


 ぐびりとあおれば、喉に焼け付くような熱が走り、胸元がかっと火照り出した。


 なるほど、悪くない。

 むしろ心地よい。


 健速が喜びに任せて飲み干していた理由もわかろうというもの。


「これはたまらんの。食とはまた別種の風味よ」


 思わず口に出た感想へ、星子と向き合っていた健速が悲鳴に近い声をあげた。


「なんと! 酒に手を付けてしまったのか。しかもそれほど」


 増えた空の徳利と、悠然と杯を傾ける白星を交互に見やって愕然とする。


「白星殿。それは孰酒じゅくしゅと言って、子供には酒精が強すぎる。星子の身で、あまり無茶をせんでくれるか」

「かか。この身はすでに我がものぞ。わしがどう扱おうと、文句は言わせぬ」


 取り上げようとする健速の手をするりとかわし、ついに白星は徳利へ直接口を付け始めた。


 白き喉をこくこくと鳴らし、ほうと熱い呼気を吐くと、


「酒と言うたか。確かに一時、魅了されるをよしとする気分になるの。されど案ずるな。この身はすでに半ば人にあらず。何を口にしようが、毒にも薬にもならぬ」


 酔いを全く感じさせぬ足取りで健速より逃れ、素早く新しい徳利を手に取り笑って見せた。


「それなら、まあ……ああ、いや。それだけではなくてだな。普通の子供は酒など滅多に飲まぬ。せいぜいが祝い時の甘酒程度。隠れて飲む分にはよいが、人前でそのように派手にやるのはこらえてくれ」


 危うく納得しかけた健速だが、踏み止まり常識を説いて諫めると、白星はしかめ面をして、ぼふんと軽い音と共に座布団へ座り直した。


「さよか。人の子も、あれこれとややこしいの」

「ううむ、これは。どこまで人の世を把握しておるか、しかと確認しておく必要があるな」

「ほう。それは願ったりよ」


 頭痛をこらえるように額に手をやる健速へ、白星は杯を掲げて賛成した。


「どうやらわしの人格と呼べるものは、ほぼ須佐が土地の記憶が礎となっておるようでな。それですら、ところどころ欠けておる。外界のことなど、殊更さっぱりよ。星子や。ぬしもそうであろ」


 呆気に取られていた星子は急に話を振られ、一瞬の間の後にこくこくと頷いた。


「うん。里の外なんか初めてだし、どんなところか聞いたこともない」

「そうだな。外に出るのはおれ達、草だけだ。そして外の情報は、縁を最小限に抑えるため、里の重鎮しか共有していなかった」


 健速も囲炉裏の傍まで戻って来ると、腰を据えて話す姿勢を取る。


「そういった意味では、ここで会えたのはまさに幸いだったな。峠を越せば、この地ではもっとも栄えた町に出る。作法を知らずに行けば、恥をかくばかりか、悪目立ちをしていただろう。それでは、せっかくの隠形も水の泡だ」

「かか。なれば、長きを人の世に紛れし先達せんだつに、一つ教授を請うかの。星子も、これでもつまんで共に聞きおれ」


 白星に招かれた星子の目前に、皿に乗った桜餅が差し出された。


「でも触れないし、この姿でどうやって?」


 口を尖らせる星子をなだめるよう微笑むと、白星はその膝元へ皿を置く。


「霊体はの、匂いを通じて供物に宿る気を喰らうのよ。神棚や墓前へ、供え物をするであろ。あれらはそれがためぞ。ものは試し。常のように手を伸ばしてみい」


 白星に促され、星子は恐る恐る手を桜餅へ添える。

 やはり感触はないが、指でつかむ仕種をしてから慎重に口元へ運んだ。


 もちろん、桜餅は変わらず皿の上に乗ったまま。


 しかし星子は、すぐ鼻先に桜の残り香を確かに感じた。

 同時に、久方ぶりの食欲がどっと湧き上がる。


 そして意を決し、餅を持った己を思い描いて、一息に空の手先へかぶりついた。



 途端にかっと見開かれる幼子の目。

 次いで文字通り天にも昇らんばかりに、広間の中空へふわふわ浮かび上がってゆく。


 その蕩けた顔を一言で表すなら、まさに至福。


 先だって、茶屋の軒下で白星が浮かべたものと同種の反応であった。


「なにこれ……おいしい……しあわせ……」


 初めて食す甘味に正体なくし、星子の霊体は霧状にぼやけていた。


「土産にしてやりたくはあったが、これらは日持ちがしなくてな。ここまで喜んでくれるものなら、何か方法を考えてみればよかったか」


 後悔滲む健速へ、白星は笑い飛ばした。


「過ぎたことより、今を見よ。あれだけ浮かれておれば、餅も本望だろうて」


 星子は手元に残る気を、一口一口大事そうに噛み締めては、にへらと頬を緩ませる。


「ああ。なんとも眼福な食べっぷりだ。供した甲斐がある」

「まこと、吉兆かな。肉体なくとも、正の感性さえ残りおらば、人は存外と己を保ちよるものよ」


 健速は白星の言葉に、星子への思いやりを垣間見た。


 この調子で喜と楽の刺激を適切に与えていけば、星子の御霊の安定に繋がるものと見立てたのだ。


 同時に、健速ら須佐が生き残りの全員にも言える事なのだろう。

 復讐に逸り、気がくあまりに身を滅ぼすといった逸話はいくらでもある。


「おれも、肝に銘じよう」

「かか。ぬしとも長き付き合いとなろう。どうせならば、じっくり楽しんでゆこうぞ」

「そう願いたいものだ」


 白星と健速は互いに酌をし、かつんと乾杯を交わしては、星子の浮かれぶりへしばし見入った。




 結局舞い上がった星子が正気に戻るにはしばしの刻を要し、その頃には健速も酔い潰れ、本題に入る事なく夜は更けていった。

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