二十九 再会を願うもの

 幼子は薄闇の中、薙ぎ倒された木々が散らばる森の跡に立っていた。


 目前には、憎き黒狩衣の女。


 全身を蔦や蔓に巻き付かれ、身動き一つ取れぬままに、顔を恐怖と苦痛に歪めている。


 幼子の手にした氷の槍が、女の腹部を深く穿っているためであろう。



 本来であれば、白鞘に宿りし者の所業であったはず。



 しかしその矛盾を微塵もかえりみずに、次々と生まれ出る氷槍を手に握っては、しかと己の殺意を込めて女の身へと突き刺してゆく。


 その度に、女の白き喉が反らされ、苦悶と共に血泡がまき散らされた。



 まだ。


 まだ足りない。



 自分が味わった喪失と絶望を晴らすには、到底及ばない。


 里の皆の無念も加味すれば、どれだけ手を尽くして痛めつけても足りはしまい。


 一刻一秒でも長くこの苦痛を引き延ばし、責めさいなんでやらなければ。



 その一念を胸に、幼子は黙々と、黒髪振り乱し鬼の形相を浮かべ、敵を貫き続けるのみ。




 幼子の精神は暗黒に囚われていた。


 白鞘の忠告も忘れ、己の未熟と後悔を引きずり、あの日、自分の手で成し得なかった仇討を、夢中にて繰り返す。



 しかしその行いは、過去の幻影へ八つ当たりをするだけの無為なもの。


 さながら、三途の川原にて石を積むが如し。

 いかに重ねようと、益となろうはずもない。


 それでも、憤怒に執り付かれた幼子の猛る炎は消えず。

 殺意は止まず、敵意は散らず。


 行き場のない激情を、こうして在り得ざる舞台にてぶつける他はなし。









 ──星子







 ふと。


 暗中にて荒ぶる御霊を、優しく呼ばわる声一つ。



 直後、闇に沈んだ幼子の周囲が、さらりと絵筆でなぞったように色を取り戻す。



 幼子は女にうずめていた槍より手を離すと、思わず棒立ちとなって天を仰いだ。



 いつの間にか、頭上のみ一円の陽が射し、狭い青空が覗いている。


 それは、旅立ちの日。要石の麓で見た情景と似通っていた。



 呆と霞がかった思考のまま、空の青色を見詰めていると、再び呼びかける声が響く。





 ──星子





 どこか懐かしい、胸に沁み込むような。

 あるいは、締め付けられるような。


 温もりをも覚える呼び掛け。



 それは幼子の精神に一抹の平静を与え、正しい姿へ立ち返る余地を創り出した。




 ──星子よ




 今度こそ。


 己の名を呼ばわっているのだと、幼き御霊は理解した。


 するとたちまち、星子の心象風景は一変し、無残に荒れた森は色めく緑が蘇り、血に濡れた女の姿は草木に呑まれて消えていった。


 全身どす黒く返り血に染まっていた星子自身も、在りし日の清らかな白拍子に元通り。



 星子はついに、己が悪しき夢に縛られていた事を認め、今まさにその楔から解放されたものと知る。



 声が響いて来た方角へ向け手を伸ばすと、見えぬまでも、しかと握り返す力強い感触に包まれた。



 硬く、温かい、武骨な手。



(父上……!)



 星子は声にならぬ声をあげ、意識が光射す場所へ引き上げられてゆくのを、歓喜のままに受け入れた。






 ────







「起きたか。星子や」


 星子が目を開くと、座して白鞘を床に突き立てた白星の声が迎えた。


 以前同様、己が白星の影より半身のみを形成して漂っているのが知れる。


「お、おお……まことに、星子か。星子なのだな!」


 次いで、どこか聞き覚えのある野太い男の声が聞こえ、そちらへ目を向けると、星子は思わず目を見開いた。


 己が父、里長にそっくりな大男が、目前に立って目に涙をためていたのだ。


(父上!?)


 口は動けど、声にはならぬ。


 大声を発したつもりでも、ほんの目の前の大男には届かぬようだった。


「白星殿。星子は今何と?」

「かか。ぬしを父と見間違えたらしいの。まだ寝惚けよるわ」


 二人が交わす内容が飲み込めず、星子は白星へ詰め寄った。


(これはどういうこと? 何があったの?)


「話せば長いの。しかしぬしの声は、直接繋いだわしにしか聞こえぬようさな。いちいち通訳をせねばならぬのは手間よ。なれば、のう」

「ああ。承知した。星子も、しばし待て」


 白星に促された男はそう言い置くと、座敷の片隅の文机へ向かった。


 一枚の紙の札を取り出し、手早く墨をすって筆を執る。

 さらさらと何事かを書き付けて、いそいそと星子の前へ戻って来た。


「じっとしておれ」


 左手の人差し指と中指でつまんだ札を星子の霊体の口元へ差し出すと、右手で印を切りながら、口の中で小さく呪言を唱えた。


 するとどうか。


 手にした札が見る間にめらめらと燃え尽きたように消えてゆき、星子の口内がかっと一瞬熱を持つ。


「熱い!」


 と、思わず出した声に、星子は自分でも不思議そうな顔を晒した。


 それもそのはず、まごうことなき肉声が発されたのだから。


「よし。上出来だな」

「うむ。見事な口寄せなり」

「本人の御霊がすぐ目の前におるのだ。彼岸より呼び寄せるに比べれば、まだ容易い」


 白星の誉め言葉に、男は謙遜しつつも、満更でもなさそうに頷いた。


 男は呪を込めた札を舌と見立てて、一時的に星子へ声帯を与えたのだった。


「改めて挨拶をしよう。おれはお前の父の弟。つまりは叔父の健速だ。会うのは久しいが、覚えておるか?」

「叔父……上?」


 星子は久方ぶりの肉の舌の感触に戸惑いつつ、叔父を名乗った巨漢を見上げた。


 確かに父によく似ている。

 が、よくよく見れば、顎鬚あごひげの有無や、口数の多さ、豊富な表情の変化など、父ではあり得ない点が多く見受けられた。


 そして、その特徴を持った人物にも心当たりがしかとある。


「あ、ああ……叔父上! もちろん覚えております、ご無事だったのですね……よかった、本当に……!」

「ああ。おれもお前だけでもこうして会う事ができて、本当に救われた。そのような姿になってまでも、現世へ留まったお前を、おれは心底誇りに思う」


 触れる事はできぬが、健速はしゃがんで星子の目線に合わせると、肩に手を添えて、涙混じりに言ってみせた。


「私だけ……こうしておめおめと逃げ延びても、ですか」


 陰を帯びて俯いた星子に、健速はそれでも大きく頷いた。


「もちろんだ。胸を張ってよい。白星殿よりおおまかな話は聞いておる。お前は本来散る定めにあった理を、見事にひっくり返したのだ。それが偉業でなくてなんとする」

「かか。世は弱肉強食。なればこそ。過程はどうあれ、生き延びるが勝ちぞ。ぬしのしぶとさには恐れ入るわ」


 二人から続けざまに褒められ、星子は胸へじわりと温もりが広がると共に、目頭にも熱を感じていた。


「……よかった……私、一人になったんじゃなかった……須佐の民は、ほろびてなんかなかった……!」

「おうとも。まだ他にも何人か残っている。これより力を合わせ、皆の仇を取ろうではないか」

「はい……はい……!」


 涙こそ出ないが、身に付いた仕種とは霊体となっても抜けるものではなく。


 しばしの間、星子は叔父の腕の中で鳴き声を上げ続けるのだった。








  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る