八 絶えるもの

 肩に食い込んだ血刀がずるりと抜け、藪の中を転げるようにして父から遠ざかる。


 星子が要石の元に倒れ込むと、緩んでいた時が正常に流れ始めた。


 どくどくと全身が脈打ち、血が怒濤の勢いで失われてゆく。


 しかし星子の意識は父にのみ向けられていた。



 父はその場に留まっている。

 刀を中途半端に差し出し、片足を振り上げた姿勢で。



 間違いない。



 父は刀を振り切っていなかった。


 本来であれば、星子の身はすでに二つに別たれていたはず。


 それを途中で止め、蹴り飛ばす事で解放したのだ。



 ──逃げよ



 父の唇はそう告げていた。


「なんとなんと。これに及んで、未だ御霊みたまが抗いなさるか。まこと剛毅なお方にござりまするな」


 父の頭上より、大仰にして軽薄な女の声が降ってきた。


 目をやると、黒い狩衣をまとった女が、高下駄のまま器用に枝上へ立っている。


「もののふの矜持、まさにここへ極まれり。死してなお、見上げ果てたる心意気。いやはや、天晴れと申す他ありませぬ」


 からからと笑う女の声のほとんどは、星子の耳を通り抜けた。


 捕らえた言葉はただ一つ。


「死んだ。父上が?」


 死。


 幼いながら、狩りや座学を通して、死とはなんたるかをある程度学んでいる。


 しかし呆けた理性は現実を拒んだ。



 父は、今の今まで、動いていたではないか。


 あまつさえ、娘を斬りもした。


 では、あの手に下げた首は。

 偽物だという証は。


 一体何を信じれば。



 蒼白の面でわななく星子を、女は悠然と見下ろした。


「おや。長殿のご息女であらせられましたか。で、あれば。そこな大岩が神器の在処であると。なるほど、なるほど。確かに凄まじき邪気なれば。いけませぬ。いけませぬな、これは」

「父上に、皆に、何をした」


 笑みを広げる女を混沌の元凶と見なし、星子は息を切らせて問いかける。


「はて。わたくし、こちらの方々に縁ある者にてござりますれば。そのつてを頼み、あるべきところへ神器を返還するべく、此方こなたへご案内願った次第」


 そこで言葉を切ると、女は得心とくしんなったとばかり一つ手を打ち、声を弾ませた。


「ああ。それなる御首みしるしはお気になさらず。森へ退避していたところへ、偶々たまたま鉢合わせまして。行き掛けの駄賃として、刈り取って頂いただけにございますれば」


 情報の欠片が揃い、戦慄となって星子の脳髄へ迸る。


 なんと恐ろしい事を、容易く言ってのけるのか。


 父を操るだけでは飽き足らず、その手で家族を討たせたなどと。






 許せない。





 怯えは次第に憎悪と変わり、星子は自然と女を睨み付けていた。

 射殺さんばかりの力を込めて。


「おお、こわや。されど、ご安心めされ。ここまで至れば、最早先導も不要故。すぐにもご家族や里の方々とお引き合わせ致しましょうぞ」


 口の端を上げた女が複雑な手印を組むと、暗闇で硬直していた父の身がぎこちなく、錆び付いたからくり人形の如くに動き出す。


「父上!」


 まだ生きているのではないか。


 一縷いちるの願いを込めた叫びも虚しく。

 一筋の月光が照らした父の姿は朱に染まり、見るも無惨にねじくれていた。


 絶望の深奥に呑まれゆく星子へ、父は真っ直ぐ歩み寄る。

 立っている事さえ不思議な身体を引きずり。



 ──逃げよ



 再度発した父のささやかな言霊も、昏きに落ちた星子の道筋を焚く灯火には足りず。


「……一緒、に……」


 手を伸ばし、口にはすれど、無理であろうと自身で悟る。


 流れ出る血と涙の替わりに満ちた諦観は、幼子の心を圧迫するに十分過ぎた。


「嗚呼。互いに死地へありながら、なんと健気なることか。ここまで呪を重ねてまでも、親子の情は途切れませぬか。まこと、広し、深し、美し」


 うっとりとした女の言葉へ重なるように。


(うむ。かくあるべきかな親子の情)


 突如星子の耳を、高低数多あまたの声が震わせた。


(惜しむらくは。ぬし、もはや死ぬるな)


 失血と落胆で生じた心の弱みへ付け入るように。


(わしと繋ぎし者とうたは久しゅうに。まこと、縁とは儚きものよ)


 いつぞやの不可思議なさざめきが、いよいよ意識が朦朧しゆく星子の頭をかき混ぜる。


 すでに精神の統一ままならぬ星子は、ほとんどを聞き流すのみであった。


 しかし。


(のう。妙案ぞ。どのみち果つるものならば。その身、いっそわしにゆだねてみぬか。されば滅ぶは免れよう)


 やがて投げかけられたその甘言は、幼子の絶望をわずかにとろけさせた。



 幻聴──ではない。



 星子は不意に確信した。


 背後の鳥居より、馴染みある猛烈な妖風が吹き付け身を撫でている。


 里が乱れ、父が死した故か、入り口の結界に綻びが生じたのだ。


(ぬしを器とし、わしが自由を得たらば。もののついでに、血族の仇を討ってやろうぞ)



 仇。



 その単語に、星子は胸の奥へ仄かな、しかし熱き焔が宿るのを覚えた。




 そうだ。


 仇を。討たねば。




(そのまま朽ちるか。わしに賭けるか。選ぶはぬしぞ)




 父を。

 母を。

 妹を。

 弟達を。


 その言によれば、里の民をも。



 残らず彼岸へ追いやって、なお笑い者にしている悪辣外道。


 樹上で傲岸不遜に嗤っている女。


 あれを放置したまま果てたらば、冥土で皆に会わせる顔があろうか。


 取引相手は、美しくも妖しい正体知れぬあの刀。

 須佐が代々封じし魔性。


 しかし、それでも。


 怨敵を成敗できるなら。

 それが叶うと言うならば。


 この死にかけの非力な身体など、鬼にでも魔にでもやってしまえばいい。



 覚悟を決めるとたちまちに、火種はどす黒い憤怒となって燃え上がり、星子の全身を余さず駆け巡った。


 高みより笑みを落とす敵へ震える指を差し、有らん限りの虚勢を張って呪詛を叩きつける。


「地獄に、落ちろ」


(かか。よき啖呵。いざや、よ)


 星子は激情を命の火とくべて、瀕死の我が身を階段下方へ投げうった。


 がつがつと全身を岩が打つも、痛みなどとうに無いものと断じ、転がりながら夢中で岩屋の奥を目指す。


 立ち込めた冷気が、まるで揺蕩たゆたう水のように星子の手足を取り、神棚まで難なく導いてゆく。




 絶対に、報いを。




 眼前に迫った白鞘へと、切なる願いを託して手を伸ばす。


(任せおれ。約定やくじょうぞ)


 右手をがしと握り込むと、星子の魂魄こんぱくは瞬く間に身より引きはがされていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る