九 解けるもの
星子が白鞘を手にするや、岩屋に満ちた冷気がその身をぐるり取り巻き、裂けた左肩よりしゅるしゅると潜り込み始めた。
途端にかちこちと微細な音を鳴らし、傷口が見る間に凍りついてゆく。
己の身の丈程もある刀を担ぎ、神棚に背を向けた頃には、すでに出血は止まっていた。
ほう、と一つ息を吐くと、それのみで空気を凍えさせるような切り風が流れ出す。
激しい精神磨耗の末か、はたまた刀の妖気が成したのか。
今や星子の肩までの艶ややな黒髪は一変。
白鞘へ似合わせるように、初雪の如く真白に染まり尽きていた。
「かか。ようやく得たり。自由の身」
仄かに青が差した唇から、星子の声にして、星子ならざる言の葉が紡がれる。
「器にはちときついか。なに、贅沢は言うまい」
星子に宿った刀の思念は、感覚を確かめるよう、
ぐっと大きく背伸びをしては、首を回してこきりと鳴らし。
膝を揃えて曲げ伸ばしては、その身を前後に反らして筋を
「うむ。舞うだけあって、
星子は視線を階段へ送ると、侵入者へと同意を求めた。
「よくぞ鍛えた。のう、長よ」
膝を崩しながら階段を下る父の骸を、大人びた慈愛のまなざしで迎える娘。
ここに至り、父は精根全て尽き、娘へかける言の葉持たぬ木偶に成り果てていた。
部屋の中央で対峙するや、父はすかさず刀を袈裟に振るう。
「わしの封印、永らく大儀であった」
あろうことか、星子は達人の斬撃を白鞘で軽く横へいなした。
そして体の流れた父へ、目にも止まらぬ三段の突きを放つ。
額、
それが残らず白鞘へ吸い込まれた後、父は糸が切れたように床へ崩れた。
父を操っていたものは、
人の身には陰の気が溜まりやすい部位があり、人が死した後、稀にそれを糧として蟲が生じ、身を鬼と化し動き出す。
無念抱えた屍ほどその傾向が
屍に宿る三尸を支配する事で、意のままに動く人形と成していた。
星子に移った思念は、陰気や邪気との縁が深い。
術の正体を一目で見極め、蟲が住処とする三点を突いて祓ったのだ。
「文句の一つもないではないが。器の手前、
星子はしばし瞑目すると、呪より解放した家族の屍を越え階段を上る。
果たして鳥居の元には、面食らった様子の黒狩衣の女が立っていた。
「なんとなんと。よもや我が術破れようとは、これ如何に」
「かか。所詮小細工よな」
劇的に面変わりした星子を一見し、女の小首が傾げられる。
「はて。これは異なこと。先とお姿が違いまするな。あいや、身に纏う邪気も
「うむ。ぬしを討つを約定に、身を貰い受けてな。どれ、寝起きの運動ぞ。一つ付き合えい」
星子が一歩踏み出すと、女は大きく飛び退いた。
「いえいえ、とんでもござりませぬ。わたくしめ、肉体労働は不得手にござりまして。長殿をあしらいなさるお方の相手など、到底務まりましょうや」
たちまち樹上へひらりと跳び、かつかつと下駄を鳴らして姿を消す。
そして声のみを森に木霊させた。
「いやはや。神器に意思やあるなどと。微塵も存じ上げおりませなんだ。しかしてわたくし、備えあれば憂いなし、を
その言葉に呼応するように。
森の彼方より、地響きのような低く重い音が押し寄せ来るのを星子は察した。
「只今この地には、行き場無き水気が溢れております故。わたくしに利や多く有り。障害あらば、丸ごと呑み込んででも神器を頂戴つかまつりまする」
怒濤の勢いで木々を薙ぎ倒し。
闇ごと全てを呑み込む奔流が、星子の視界の内を跳ねる。
月明かりを反射し迫るのは、森の木々より更に高みを埋め尽くす、暗く赤き流体群。
どこまで死者を使い潰すのか。
女は戦場へ流れた血潮を操り、猛る津波と成したのだ。
「さあさあ。諦めあそばせ。一息にくるんで差し上げましょうぞ」
高笑いが響く中、星子は白鞘の先を地に落とし、目を閉じて一笑に付す。
「かか。それも児戯よ」
少女の目前を塞ぐ赤錆びた洪水が、前触れもなくざばりと左右に割れた。
「は」
女の哄笑がはたと止む。
血の波は要石を避けるように通り過ぎ、星子の身に何ら影響を及ぼす事はなかった。
「なんと。恥ずかしながら、わたくしめ。種も仕掛けも見えずして」
どこからか、ぱしんと
「宜しければ。今一度ご教授願えませぬか」
すると緩やかに凪ぎ始めた赤い流れが再び天高くに立ち昇り、星子の頭上より襲いかかった。
「もし斬ったのだとて。波とは限りなく打ち寄せまするぞ。果たしてその御業、幾度まで繰り出せまするか」
喜色満面な女の声に、星子は短く返すのみ。
「もう要らぬ。とうに縁成った」
その刹那、荒れ狂う
ずるずると地に引き込まれるように失せて行き、数瞬もせぬ内に跡形もなし。
残ったは、倒され乱れた森の木々と、落葉にまみれた大地のみ。
「なんと。なんとなんと」
訪れた静寂を、女の唖然とした声が割る。
「
星子は瞑目したまま、白鞘を地に一度軽く打ち付ける。
ただそれだけの所作で、波打つようにどくんと鼓動が駆け抜けた。
「この地はわしを封じると同じくして、わしと繋がってもおった。土の気脈を使うて水を飲み干すなど、造作もなきことよ」
「あれ。ご無体な」
悲鳴と変わった女の声に、星子は目を開いて微笑んだ。
「むろん、森もな。ぬしがどこに隠れおっても探すは容易ぞ」
たちまち星子の立つ地面がぼこりと隆起し、要石をも見下す高みへ鎌首の如く持ち上がっていく。
そして星子は、眼下に
「はてさて。解せませぬな、この仕打ち。これでわたくしめ、貴殿を保護しに参ったと申しますに」
囚われとなった女は己を棚上げ不平を漏らす。
「そも、貴殿は封じられておられたのでは。恨みこそすれ、里の者へ肩入れなさる理由がおありでござりましょうや」
さらには翻意を狙ってか、星子へ問いをまくし立てた。
「そうさな。自由はなくとも、ここはうつくしく在った。
ふと星子の脳裏に、過去舞いを奉じた巫女達の面が
しかし合間に頭痛と耳鳴りが混じり、鮮明な画像を結ぶ事なく消えた。
永き
思えば、名も。
己が起源もわからぬ。
確かな事は、ただ二つ。
身じろぎ叶わぬ刀という器の中で、悠久の時を過ごしていた事。
そして、今も無駄な抵抗を続けている女を討つが、新たな器の命題である事。
「とまれ、ぬしの
星子は記憶への未練を絶ち、女を冷たく見降ろした。
「あいや、お待ちめされ。わたくしめ、帝よりの使者にございますれば。手を下さば、まことの国賊と見なされまするぞ」
「知らぬ。すでにぬしは敵ぞ」
女の戯言をばさりと斬り捨て、星子は凍える吐息を吹きやった。
見る間に土中より無数の
「先に呑んだ水気を返そうぞ」
「あれ。殺生な。いたや、いたや」
ここに進退窮まり、ついに女の笑みは失せた。
端正な面差しを歪め、苦痛に喘ぎ、とめどなく血泡を吐き出す。
対する少女の精神は最早、それに動ずる事も痛む事もなし。
「須佐への手向けよ。ついえた民の数だけ槍をくれる。せいぜい数えおれ」
「なんと、容赦、なき、御方。まこと、激し、厳し、
鎮守の森の洗礼は、女が完全に息絶えるまで続いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます