六 抗がうもの
きん、と澄み切った音が紅蓮の世界に染み渡る。
地に降り立った長の手には、赤い雫が
振れば飛沫が筋となり、びしゃりと薄く足元を染めた。
次いで羽団扇を握り締めた手首が上空から、放物線を描いて炎の中へ呑み込まれてゆく。
「おのれ、不覚」
術の維持に集中していた兼続は、火中より黒煙に紛れて跳んだ長の太刀筋を見切れなかった。
「よもや、翼なしにこの高みまで至るとは」
血走った目で長を睨み、左腕を庇う兼続。
長は無言のままに、刀の切っ先を頭上の兼続へ向けて揺らす。
それを挑発と取ったか、兼続は鬼もかくやの形相で翼をばさり打ち鳴らすと、幾本もの羽根を矢の如くに射出した。
長が機敏に
徐々にその照準は絞られ、長の身にかすめる場面が増える。
やがて一撃を受けたのか、長は片足を引きずるようにして歩き、刀で防御をし始めた。
好機と見た兼続がさらに攻勢を強めようとした刹那。
がくん、と宙にあった身が足を引かれたように降下する。
「何事」
兼続の困惑は大きい。
天狗は羽根こそ備えているが、空駆ける源は神通力にあり、元より羽ばたきは不要。
その浮力は産まれ備わったもので、人が地を歩くが如く自然な摂理。
己の意思に反して落下するなどあり得ぬ事だった。
「浅羽兼続。其の名と血をもって、大地に繋がん」
兼続は落ち行く高みにあって、地に屹立する男の声を聴いた。
そして男の足元で炎に照らし出される、星型に引かれた図形を認めた。
長は単に逃げ回っていたのではない。
兼続を斬った血を土に染み込ませ、足で引きずり五芒星を描いて陣と成したのだ。
陣の内には兼続自身が打ち込んだ羽根が刺さっている。縁を繋ぐに十分過ぎる程の量が。
今や天狗は翼の概念をもがれ、地に堕ちるを余儀なくされた。
兼続には知る由もないが、長は優れた武人であると同時に、陰陽の理を知る卓越した術者でもある。
名を捉えて縁とするはお手の物。
これが武人同士の尋常な戦であれば、名乗りは順当な礼であったろう。
しかし名とは、魂の宿る器を表す
長が常日頃寡黙であるのも、内外へ安易に縁を作らぬためであった。
そして長は、武人の礼を欠いてでも里を守るべし、という鉄の意志を己に課している。
そういった意味では、全霊をもって当たったのが礼と呼べようか。
かくして兼続が墜落して集中が乱れた事で、天狗火の勢いは目に見えて衰えた。
元より結界が破られた時点で背水の覚悟である須佐の民は、追い込まれても気勢は萎えていなかった。
これにより生き残りは態勢を立て直し、同胞の、里の仇である天狗の群れへ、
ずしゃり。
誰が音頭を取るでもなく、里の広場へ列をなした須佐の兵が、一斉に両足を揃えて剣を中空へ差し向けた。
天狗達からすれば隙だらけであるが、列に加わらずに弓矢で牽制する兵がおり、拮抗が生まれていた。
姿勢を正した兵達は、まず左足を一歩踏み出し、次いで右足をより大きく前へ踏み込んだ後、左足を地に引きずるようにして軸足へ引き付け揃えた。
一拍置いて、今度は右足より踏み出し左足で追い越すと、右足を引きずり左足へ添える。
後は同様に、また左足から前へ一歩。
それが重ねて九歩を数えたと同時、兵達の構えた剣先が振られ、寸分の狂いなく水平に並んだ。
すると、さらりとした清浄な風が、戦場を包み込むように撫でたかと思うと、あれだけ猛威を振るっていた業火の範囲は見る見る内に縮み、元の篝火程度にまで治まっていった。
上空にいた天狗には見えたやも知れぬ。里全体をうっすらと囲う五本の筋が。
風を受けた須佐の民には覇気が満ち、対照に天狗達の動きから精彩が失われる。
たちまちにして形勢が逆転し、翼ある者が次々地に落とされてゆく。
須佐の剣に伝わる厄払いの歩法の内、
本来ならば呪文、鈴や太鼓の音、
それを触媒とし、須佐の民が歩調を合わせて拍子を刻むのみで、侵略者の術を払い、その力を奪うものと成さしめたのだ。
「賊がこれほどの式を編むか。やはり放置できん」
「濡れ衣ぞ」
瓦礫の中へめりこみ、苦境に顔を歪ませ汗する兼続の元へ、長は歩を進めた。
「まこと国を思うなれば、我らは捨ておけ」
「何だと」
「あいや、お待ちめされよ」
兼続が長の言葉に反応を示した時。
わずかとなった残り火の明るみへ、女の声が投げかけられた。
「兼続殿。浅羽が兼続殿。賊の言葉に耳を貸してはなりませぬ。今にも手にした剣で斬られかねませぬぞ」
ゆらりと姿を現したのは、女を追った兵達だった。
「わたくしもこれなる人々に追い回され、生きた心地がありませなんだ。おお、こわやこわや」
女の声はすれども影はなし。
兵達の顔色は悪く、視点は定まらず。
足元すら覚束ずに、しかして長の元へと一直線へ歩み来る。
「あまりに恐ろしゅうござりまして、こうして懐柔する他手立てなく。わたくしめ、己の未熟を恥じるばかりにて。まことにもって、相済みませぬ」
「どこまでも外道が」
内容こそ謙虚だが、ねぶるような響きしかない女の声を、長は怒気を込めた一言で跳ね除けた。
最初は灰を泥人形に仕立てていたが、今は死体を直に操っているのだと長は見抜いた。
術を解いても、最早こと切れている兵達は元には戻らない。
長は心を鬼として、向かって来る全てを斬り捨てる覚悟を決めた。
死体操術の要は頭だと相場が決まっている。
それを知る長は、的確に一刀の元、部下だった者達の首を
「嗚呼。なんたる情け深くも容赦なき太刀捌き。もののふの一念、あまりに強し。まこと美し、尊し、眩し」
女の煽りを無視し、長が兵の最後の一体を斬った時に、異変は起きた。
周囲へ散った死肉の切り口より、どぶどぶと大量の血液が噴出を始める。
「そして、儚し」
女の言が堰を切り、留まる事無く溢れ返った赤い波が、長の身体をたちまちずるりと巻き取った。
手足を呑まれ、水圧で即座に各所をごきごきとへし折られる。
激痛にあえぐ間もなく、鼻から口から血液が流れ込み気道を塞ぐ。
「わたくしこれで、水の気を扱うが
長に声を聴かせるために、狙って耳を封じなかったのだ。
女が口元を袖で覆い、弧を描く
星子。
声にならぬ。言葉にできぬ。
あのやわ手は、もう握れぬのか。
妻。
娘。
息子。
民。
ぴくりともせぬ、全てを取りこぼした手指を呪う。
焦燥に焼き尽くされる長の心を摘むように、女は重ねて告げる。
「はてさて、名乗りが随分と遅れましたな。ここに改めまして。わたくしめ、性を
それを聞き、これ以上無い程に長の眉が吊り上げられた。
「お聞き及び頂いたようで何よりにござりまする。その節は、祖の方々が大層お世話になり申した」
長の憤怒を
「名を只今は、
勝ち誇る慇懃無礼な言を最期、長の視界と意識は赤昏き水底へ沈んで行った。
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