五 襲うもの
日没直後の須佐の里は、にわかに殺気立っていた。
何代にも渡り不破を貫いた結界が、突如前触れもなく解かれたためだ。
折しも鎮守の森へ戻る直前であった星子の父──里長はそれを察知し、即座に周囲へ防衛陣を敷いた。
危急を報せる半鐘が鳴り響く中、盛大に焚かれた篝火が武装した里の兵達を照らし出す。
「さてもさても。熱烈なお出迎え、痛み入りまする」
それは闇の中からじわりと滲み出すかのような、ゆるゆるとした歩みであった。
からころと高下駄を鳴らし、黒い狩衣の女が門前の明るみへ影を引きつつ現れるのを、長は鋭い眼光で見据えた。
里の外壁上には兵がずらり並び、今にも放たんと弓矢で狙っているというのに、どこ吹く風で見つめ返す女。
その白き美貌は、焚かれた炎を吸い込むかのような冷笑を帯びている。
不気味とも思える緊張感のなさは、鍛錬こそすれ、実戦経験に乏しい里の兵達の不安を見透かしているようにも思えた。
まるで油断ならぬ。
長は丸腰の女に緊張を強いられた。
「何用か。迷ったれば麓まで送ろうぞ」
閉ざした門上の長は言いながら、あり得ぬ事態だと心中自答する。
外周の結界は内からでなければ解けない仕組。
出入りできるのは里でもほんの一握り、諸国の情勢を探るために放つ草だけである。
しかし草は申し合わせた日取りにのみ戻る決まりであり、それはまだ先の事だった。
であれば、内通があったと見るべきだが、それこそあり得ぬと長は断じた。
その意図を読んでか。
「ええ、ええ。迷ってなどおりませぬ。この方のお手引きあってまかり越しまして。されどもその名誉がため、ご存命の間は何も語らずを通したる旨、わたくしめがここに証を立てましょうぞ」
袖を上げた女が高らかに澄んだ声を発すると、その陰よりびちゃりと、人の形をした泥の塊が踏み出した。
「外道めが」
兵からかすかな呻きが沸くも、長は一目で女の所業を看破した。
草に選ばれしは、長が認めた使い手揃い。
その同胞を容易く捕らえた上に、惨たらしい破術の核と成す相手の力量と非情さを推し量り、ぎりりと歯噛みする。
「これはこれは、お目が高い。流石はかの
「何を言うか。我らは
女の言葉に内心舌を巻きつつ、長は仮の名を告げる。
しかし女は口元に袖をやって軽く笑った。
「いえいえ、さような
事も無げに言うと、女は居ずまいを正し、かつりと一つ下駄を鳴らす。
「告げまする。昔日に、帝都より神器を盗み出したる安部氏が亡霊。これを誅し、神器を奪還せよ、と。わたくし、
「打てい」
あまりに知り過ぎている。
何者かに関わらず、里に仇為す存在だと確信した長は、女の言葉半ばでためらいなく号令を出した。
応じた兵より雨のように射掛けられた矢は、惜しくも女に届かず。
脇に控えた泥人形が破裂して、間に割り込み矢を呑み込んでいた。
「あれ、使者の口上を遮るとは、なんと無粋なるお方。兼続殿。浅羽兼続殿。黒、黒にござりまするぞ。ご覧の通り、この人々や
女はからからと笑いながら森まで退いてゆく。
「二度言わずともわかると言いますに!」
それを庇うように、翼持つ巨漢がばさりと中空へ躍り出た。
「天津が
「天狗。いかん、火を消せ!」
長の判断は早かった。
しかし複数の巨大な篝火を一瞬で消し去る方法など、異形を前に浮き足だった兵が即座に思い付こうか。
「
兼続と名乗った天狗は天高く叫ぶと、左手で携えた
するとたちまち荒ぶる豪風が周囲を一薙ぎし、石を積んだ外壁をいとも容易く吹き崩した。
多くの悲鳴と共に、退避の遅れた兵が瓦礫諸共高みへ巻き上げられてゆく。
しかし真に恐ろしきはその後であった。
ことごとく薙ぎ倒された篝火が爆ぜ、大音響と共に烈火をまき散らし始めたのだ。
瞬時に付近の建物、人、植物、等々、見境なしに燃え移り、瞬く間に火勢を強めて広がってゆく。
咄嗟に消火を試みる者もいたが、はたけばそこから炎に巻かれ、かけた水は端から蒸発し、手の付けようもない業火噴煙が猛り狂う。
それは、天狗火と呼ばれる神通力。
原初の火の神に連なる一部の天狗にのみ扱いを許される、尽きぬ炎の御業であった。
一度火が付けば、術者にしか止める事叶わず。
沈む夕日が焼け落ちてきたかのように、里を煌々と照らし出す焔の群れは、無残にも壮麗、残酷にして華美。
赤い舌が大地を舐め尽くす、まるで煉獄の如き様相を呈していた。
重ねてその混乱へ乗じて、伏せていた兼続の配下と思しき翼ある者達が、上空より次々と来襲しては、火から逃れた里の兵を斬り捨て、あるいは射抜いてゆく。
仮にも一つの拠点を攻めるに、多勢で囲むでもなかったのはこれがためか。
対人の布陣が通じるべくもない。
「してやられたわ」
長は吐き捨てるも、己の役割を見失う事はなかった。
里の被害は甚大だが、それよりも優先するべきものがある。
神器の
しかし、まずは術者を潰して火を消さねばなるまい。このままでは鎮守の森まで火が回る。
即断した長は付近にいた兵へ女を追うよう手配りすると、間を置かず、火をかい潜り駆け出した。
燃えていない外壁の残骸を踏み台とし、転々と飛び移ると、辛うじて立っていた門の支柱を蹴って宙高く舞った。
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