二 継がれるもの

 かくして継いだ巫女の務めは、星子が思う程に過酷なものではなかった。


 寝床はうすら寒い岩屋の中ではなく、裏手にひっそりと建つ、質素ながらきちんとした小屋があてがわれた。

 古くはあるが畳が敷かれ、寝具に台所も備えており、人が暮らすに不足はない。


 日の出と共に起き、付近にこんこんと湧く澄んだ泉で身を清め、用意された白い水干すいかんへ袖を通す。


 泉の周囲は枝が払われているようで、頭上から降るたっぷりの日差しが、水にきらきらと跳ね回る。


「見よ。似合いぞ」


 父に促され、鏡面の如き水面みなもに映る小さき白拍子しらびょうしを見た星子は、興奮と共に身が締まる思いを抱いた。


 次いで要石かなめいしの下へ向かい、神棚の座で祓いの神楽かぐらを奉納する。


 心構えを整えた故か、初見のように白鞘へ目を奪われる事もなく、父の監督の元、扇子を剣に見立てた神楽を無事に舞い終えた。


 それが済めば朝餉あさげを取り、日中は森の見回りへ出る。


 父に連れられ、地理を覚えながら、結界の綻びなき事をあらためていく。


 星子は初め、森は荒れ放題なものと思っていたが、それは間違いであった。

 縦横に巡る獣道には一定の規則性があり、順に踏み締めていく事で、地脈、ひいては結界を強化するのだと父は言う。


 決して狭くはない森の順路全てが頭に入っているというのだから、星子の父への尊敬の念は、より深いものとなった。


 日が暮れれば小屋に戻り、身を清め、再び神楽を舞う。


 そして夕餉ゆうげを取り、夜が更けるまで剣を振るのだ。



「まずは森の暮らしに慣れよ」


 と父は言った。



 元より星子は、年上の男子に混じって遊ぶ程の活発な娘だ。

 朝に晩に稽古へ明け暮れ、野山を駆けていたこれまでと、さほど変わりない。


 日がな一日岩屋にこもっているものかと構えていた星子にとっては、いささか拍子抜けにも思えた。




 不安がない訳ではない。



 巫女は一度祓いを始めたならば、結界の一部となり、森の外へ出る事叶わぬ。


 しかし余人がみだりに森を出入りすれば、地脈の調和を乱しかねない。


 故に森へ立ち入りを許されるのは、森のことわりを知る長のみとなる。


 家族、母や弟妹ていまいと自由に会えぬのは、七つの少女にとってはやはり辛いもの。


 それでも父は引継ぎが完全に済むまでは共にあり、衣食の補充がため里を行き来する際に、家族の安否と言伝ことづてを届けてくれるという。

 なれば十分、と己に言い聞かせ、懸命に役目に勤しんだ。


 本音は甘えたい盛りとは言え、家のため、国のためと、我が儘を押し込める程度には星子は利発であり、それ故に武家の思想に染まり切っていた。



 十日も経つ頃には、小屋で父と二人過ごす夜にも慣れ始めた。


 よく晴れた日などは格子のついた小窓から、木々の隙間をついて確かな月明かりが筋となって射し込む。

 それを見ては、森の夜は思う程に暗くはないのだと、感慨にふける余裕さえ生まれていた。


 森に人を襲う獣はなく、神域の静謐な夜気は優しく星子を包み込み、疲れた身を深く安らかな眠りにいざなった。


 そうして家の教えと鎮守の森は、緩やかに巫女を術式の円環に取り込んで、自然と役目に没頭させてゆく。



 日課となった神楽についても、常の鍛錬で基礎は身に付いており、一月もすると父の指南は少なくなっていた。



 父曰く、武の道は舞に通ず。



 そも須佐に伝わる剣の型は、舞いを元に形成されたもの。


 それら舞いの拍子、手捌き、足踏み、全てをもって破邪の式と成しており、特別な祝詞のりとまじないの口上を必要としない。


 里の者は男女問わず剣を習う。

 即ち誰もが舞い手足り得る事を意味する。


 鎮守の森は里の中心に据えられ、周りを家々や水路、田畑が囲む形で集落を成しているが、これも地脈の流れを整えるための陣として綿密に配されたものだ。


 巫女の役目に選ばれずとも、土地で脈々と繰り返される人々の舞の力は、張り巡らされた陣を伝って森に流れ込み、神域の源へと捧げられていく。


 鍛えた武は人の精神を悪しきものから守り、外敵への物理的な備えともなる。


 永らく巫女が空座となっていても蓄積した邪気が漏れ出さなかったのは、里の民の営みが、そのまま封印の支えになっているからに他ならない。


 須佐の里は、存在全てが神器を封ずる事に特化された、大規模な結界なのだ。



 そう父より説明された時、星子は封魔の極致を追求した祖先の偉大さへ想い馳せた。



 しかし結界はあくまで結界。集めた邪気を外に出さぬようにするだけのもの。

 今の俗世が乱れているのは、器に入りきらぬ邪気が溢れているためだと父は説く。


 なればこそ。選ばれし巫女たる者の舞をもって、溜まった邪気を減じていく事が肝要なのだと。


 こればかりは天稟てんぴんに頼る他はなし。

 その重責が己にのみ担えるものなのだと、星子は神楽に臨む度に奮起する。


 しかし心の片隅では、子供ながらに特別な役目を授かった事へ、ある種の優越を覚えるのを禁じ得なかった。


 日々妖しくも美麗なる白鞘を前に、地を踏み締め、袖を払い、拍子を刻む。


 舞を奉じながら白鞘を愛でるまなこには、淡く陶酔が浮かぶ事も多々。


 最早立ち込める冷気など微塵も気にならず。


 熱が入れば入るだけ、星子の舞いは切れを増した。

 舞いが冴えればさらにのめり込む。 


 気分が悪かろうはずがない。



 この悦楽を貪る権利は、今この時代、自分一人だけが有している。



 そんな密かな慢心が、星子の胸に芽生えだした頃。


 森の空気にはひやりとしたものが混ざり、木々の葉も紅に色めき始めていた。 


「うむ。見事な舞いであった。もうわしが口出しする事はなかろうな」


 朝の神楽を終えて小屋に戻った星子を、父は目を細めて見詰めた。輝かしいものでも見るように。


「ありがとうございます、父上。ですが、まだまだ」


 上気した頬のままに謙遜し、星子は手拭いに額を流れ落ちる汗を吸わせた。


「向上心や良し。ただ、あまり根を詰めるな」


 父は衣食を運ぶ籠を背負いながら、星子を気遣い振り返る。


「では、わしは屋敷へ戻る。すべきはわかっておるな」

「はい。森を回った後、父上がお戻りになるまで待っております」


 はきはきと答える星子を見届け、父は一度首肯して小屋を出て行った。


 星子が一人で岩屋に入る事を、父はまだ許していない。

 もしも再び魅入られた際に、止める者がいなければ何が起こるか知れぬ故に。


 星子も神楽を舞っていない時分にはあの刀が恐ろしく思え、一人で入ろうとは一度たりとて考えなかった。


 その日も言いつけを守り、すっかり通い慣れた森の道筋を辿って、変わりなきを確認し終えると、泉の水を浴びて父を待つ。


 森歩き後に浴びた水はつんとした感触を肌に伝え、微風にすら鳥肌が立つのを覚えた。


「もう、秋なんだ」


 腕で身を抱くようにして、星子はぽつり呟いた。


 泉に映る自分の顔へ、ひらり一枚の葉が落ちて波紋を投げかけた。


 巫女となってより、はや一つの季節が移ろうとしている。

 春頃の自分ではとても及びもつかない事態となった。


 星子は自分が少し大人になれたものかと自問し、くすりと笑みが漏れた。


 水面に浮いて歪む口が、そんな事を考える内はまだまだ、と言っている気がしたのだ。


「父上、遅いな」


 このところは日暮れも早くなっている。



 日没後、神楽の時刻を迎えても父は戻らなかった。

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