一 起こるもの

一 起こるもの

 里の少女がよわい七つを数える日。


 それは継承の儀を控えた日でもあった。


 家族揃ってのささやかな祝宴後、少女は一人呼び出された。


 事前の説明は何も無い。

 ある場所におもむき、まず適性を確かめるのが段取りなのだ。


 隠れ里の長である父に連れられ、常は立ち入りを禁じられている鎮守の森へ向かう。


 初めて入る場所であるが、不安より興奮が勝った少女は、肩で揃えた黒髪揺らし、勇んで父に続いた。



 過ぎ行く夏の夕暮れ。

 死力を尽くすような蝉の合唱が、森の隅々まで木霊こだまする。


 行き先は、参道すら無き秘奥の社。


 樹齢数百を越える杉の木々が見下ろす中、父と手を繋ぎひた歩く。


 鬱蒼うっそうと繁るやぶをこぎ、獣道へ分け入って。



 軽い疲労を感じて見上げれば、途切れがちな木漏れ日で朱に染まった、いかめしい横顔がある。


 寡黙な父は、滅多に表情を変えることがない。

 やはりその思考は読み取れなかった。


 父はわずかに先行し、無言のまま、空いた右手で藪を払う。

 白い袖はすでに緑の汁で染まり、ほつれが目立った。


 足取りの覚束おぼつかない自分のため、道を作っているのだと理解し、少女は握った手にきゅうと力を込めた。




 武士である父の手は堅い。


 少女と同じ年頃には、すでに真剣を握っていたという。


 日々の鍛練により分厚くなった手の平はざらりと感じられたが、嫌いではなかった。


 自分もこうありたいと、誇りにさえ思う。


 荒れた世では女が武器を持つのも常となり、少女も例外なく稽古に励んでいた故に。



 父の手は武骨だが、触れれば確かに温かい。

 子のやわ手を潰すまいと、不器用にも優しく包み込む。


 顔に出さぬだけで、人柄は振る舞いに出る。


 会話はなくとも、父の広い背を見るだけで少女は安堵を得ていた。



 その心持ちを嬉しむのも束の間。


 父が足を止めるのに合わせて前を向くと、森のただ中に、注連縄しめなわを張った巨大な一枚岩が鎮座していた。


 里一番の長の屋敷よりも上と見える高さに、ただただ圧倒されるばかり。


 どれ程の歳月を経たものか。


 全体が青々と苔むし、いただきからさらに木々が根付いて森に溶け込む様は、それだけで神威かむい足り得る。


 人の手では到底及ばぬ偉容が、西日を遮り、濃い影を二人に落としていた。


 荒い息を弾ませつつ、感動に呆とする娘を、印を切り終え結界を解いた父が再び手で導く。


 巨石の膝元に張り付くようにして立つ小さな鳥居をくぐると、緩やかな下り階段が続いていた。


 岩を荒く削った段差を一歩下る度、少女は汗がみるみる引いていくのを感じ取った。


 岩の内部は残暑の熱気から一転、明らかに寒いと言える程の冷気で満ちていたのだ。


 知らず、腰にしがみついて身震いする娘を一瞥いちべつし、父はその頭を撫でた。

 氷細工でも扱うように、ゆっくりと。



 少女が落ち着くのを待ち、父は声をかける。


「やはり、感じるのだな。お前も」


 言葉少ないながら、少女は言わんとするところが理解できた。


 この尋常ならざる怖気おぞけを指すのだろう、と。


 少女がわずかに顎を引くのを見て、父は視線を前へ送った。


「見よ。あれが要ぞ」


 階段はすぐ先で途切れ、円形の空間が広がっている。


 その光景を一目見て、少女の身は電撃で打たれたように硬直した。



 正面には小さな朱塗りの神棚。


 そこに横たわるは、白木の鞘に納まった一振りの刀。



 鍔も飾りも何もない。


 木目の細い無垢な白鞘が、わずかな湾曲を描いているのみ。



 その単純にして明快な流線の美が、幼子の心をたちまちに魅了した。


 ぞわぞわと吹き付ける、妖気とも呼べる冷風を忘れさせる程に。


星子せいこ。あまり寄るな」


 父の声に、はたと我に返る。


 気付けば階段を抜け、部屋の中程まで歩み出ていた。


「父上。これは」


 星子は振り返り、父の言葉を待った。


 その両手を薄い胸の前に重ね合わせ、ぶり返した寒気に耐えながら。


須佐すさが守りし神器が一つぞ」


 父も部屋に入り、星子を左の裾で覆い庇う。


 その声には苦いものが含まれていた。


「これは現世の陰気、邪気の類いを呼び集め、一つ所にめ置くしゅうつわ。お前のような女子供すら魅入られる魔性のものぞ。悪用されば国が滅ぼう。しかして、破壊も敵わぬ。なればこそ、世俗より隔絶せし我ら一族が、管理と祓いを担っておる」

「それでは、継承とはもしや」

「うむ。今代の巫女の役目を、お前に託さねばならぬ」


 星子の問いに、父は重々しく首肯した。


「見えぬ感じぬであれば、別の者へ任せたものを。よりによってお前とは」


 珍しく、その眉間にしわを寄せて表情をあらわとする。


 深い悲しみが刻まれた面を、腕の中の子へ向けた。


「久しく巫女の座は空いておった。溜め込んだ当世の邪気は濃く、深い。恐らくお前一代では祓い切れぬ。巫女とならば、森を出る事生涯叶わぬであろう」


 嘆きの混じる父の言葉に、星子はしばし首を傾げた。


「父上、何を悲しむことがありますか。お国の大事なのでしょう」


 片田舎とは言え、武家の娘としてかくあるべしとの教育は受けている。


 報国こそ誉れなり、と。


「私も家長の娘として、立派につとめてみせます。ご安心ください」


 親の心、子知らず。


 無知故の正義か、星子はためらいなく言い切った。


「お国を守れば、父上、母上、弟や妹達も、みな安泰なのでしょう? それなら、私は外へ出ずとも平気です」


 健気な。


 父は言葉にならぬ声を呑み込んだ。


「うむ……よくぞ言った。選ばれた以上はやむを得ぬか。わしも腹をくくろうぞ」


 星子の無邪気にして快活な宣言に、父は平時の顔を意識して作った。


 巫女の役目について説明を始める父の声に、かすかな、しかして明瞭な言葉が混ざり込む。


(かか。うつくしきかな。親子の情)


 男とも女ともつかぬ。


 複数の人々が同時に発したかのような、高低に揺れる不可思議な声。


 意図せず、星子は神棚を注視していた。


 白鞘は変わらず佇んでいる。





 仄かに。




 ゆらりと。




 神棚から、薄黒い煙のようなものが渦を巻き──






「星子。どうした」


 再び、父の声に意識を呼び起こされた。


 視界ははっきりとしている。異常は感じない。


「いえ。なんでもありません」


 幻を見たと思い込み、星子は首を振る。


 何故だか、これを口にしてはならぬという思いが胸を支配していた。


(かか。うむ。これはわしとぬしとの秘め事ぞ)


 耳を打つ多重音も、きっと森歩きの疲れから来るものなのだ。


 そう決めつけ、父の言葉に傾注した後は、もう余計なものは聞こえなくなっていた。

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