一 起こるもの
一 起こるもの
里の少女が
それは継承の儀を控えた日でもあった。
家族揃ってのささやかな祝宴後、少女は一人呼び出された。
事前の説明は何も無い。
ある場所に
隠れ里の長である父に連れられ、常は立ち入りを禁じられている鎮守の森へ向かう。
初めて入る場所であるが、不安より興奮が勝った少女は、肩で揃えた黒髪揺らし、勇んで父に続いた。
過ぎ行く夏の夕暮れ。
死力を尽くすような蝉の合唱が、森の隅々まで
行き先は、参道すら無き秘奥の社。
樹齢数百を越える杉の木々が見下ろす中、父と手を繋ぎひた歩く。
軽い疲労を感じて見上げれば、途切れがちな木漏れ日で朱に染まった、
寡黙な父は、滅多に表情を変えることがない。
やはりその思考は読み取れなかった。
父はわずかに先行し、無言のまま、空いた右手で藪を払う。
白い袖はすでに緑の汁で染まり、ほつれが目立った。
足取りの
武士である父の手は堅い。
少女と同じ年頃には、すでに真剣を握っていたという。
日々の鍛練により分厚くなった手の平はざらりと感じられたが、嫌いではなかった。
自分もこうありたいと、誇りにさえ思う。
荒れた世では女が武器を持つのも常となり、少女も例外なく稽古に励んでいた故に。
父の手は武骨だが、触れれば確かに温かい。
子のやわ手を潰すまいと、不器用にも優しく包み込む。
顔に出さぬだけで、人柄は振る舞いに出る。
会話はなくとも、父の広い背を見るだけで少女は安堵を得ていた。
その心持ちを嬉しむのも束の間。
父が足を止めるのに合わせて前を向くと、森のただ中に、
里一番の長の屋敷よりも上と見える高さに、ただただ圧倒されるばかり。
どれ程の歳月を経たものか。
全体が青々と苔むし、
人の手では到底及ばぬ偉容が、西日を遮り、濃い影を二人に落としていた。
荒い息を弾ませつつ、感動に呆とする娘を、印を切り終え結界を解いた父が再び手で導く。
巨石の膝元に張り付くようにして立つ小さな鳥居をくぐると、緩やかな下り階段が続いていた。
岩を荒く削った段差を一歩下る度、少女は汗がみるみる引いていくのを感じ取った。
岩の内部は残暑の熱気から一転、明らかに寒いと言える程の冷気で満ちていたのだ。
知らず、腰にしがみついて身震いする娘を
氷細工でも扱うように、ゆっくりと。
少女が落ち着くのを待ち、父は声をかける。
「やはり、感じるのだな。お前も」
言葉少ないながら、少女は言わんとするところが理解できた。
この尋常ならざる
少女がわずかに顎を引くのを見て、父は視線を前へ送った。
「見よ。あれが要ぞ」
階段はすぐ先で途切れ、円形の空間が広がっている。
その光景を一目見て、少女の身は電撃で打たれたように硬直した。
正面には小さな朱塗りの神棚。
そこに横たわるは、白木の鞘に納まった一振りの刀。
鍔も飾りも何もない。
木目の細い無垢な白鞘が、わずかな湾曲を描いているのみ。
その単純にして明快な流線の美が、幼子の心をたちまちに魅了した。
ぞわぞわと吹き付ける、妖気とも呼べる冷風を忘れさせる程に。
「
父の声に、はたと我に返る。
気付けば階段を抜け、部屋の中程まで歩み出ていた。
「父上。これは」
星子は振り返り、父の言葉を待った。
その両手を薄い胸の前に重ね合わせ、ぶり返した寒気に耐えながら。
「
父も部屋に入り、星子を左の裾で覆い庇う。
その声には苦いものが含まれていた。
「これは現世の陰気、邪気の類いを呼び集め、一つ所に
「それでは、継承とはもしや」
「うむ。今代の巫女の役目を、お前に託さねばならぬ」
星子の問いに、父は重々しく首肯した。
「見えぬ感じぬであれば、別の者へ任せたものを。よりによってお前とは」
珍しく、その眉間にしわを寄せて表情をあらわとする。
深い悲しみが刻まれた面を、腕の中の子へ向けた。
「久しく巫女の座は空いておった。溜め込んだ当世の邪気は濃く、深い。恐らくお前一代では祓い切れぬ。巫女とならば、森を出る事生涯叶わぬであろう」
嘆きの混じる父の言葉に、星子はしばし首を傾げた。
「父上、何を悲しむことがありますか。お国の大事なのでしょう」
片田舎とは言え、武家の娘としてかくあるべしとの教育は受けている。
報国こそ誉れなり、と。
「私も家長の娘として、立派につとめてみせます。ご安心ください」
親の心、子知らず。
無知故の正義か、星子はためらいなく言い切った。
「お国を守れば、父上、母上、弟や妹達も、みな安泰なのでしょう? それなら、私は外へ出ずとも平気です」
健気な。
父は言葉にならぬ声を呑み込んだ。
「うむ……よくぞ言った。選ばれた以上はやむを得ぬか。わしも腹をくくろうぞ」
星子の無邪気にして快活な宣言に、父は平時の顔を意識して作った。
巫女の役目について説明を始める父の声に、かすかな、しかして明瞭な言葉が混ざり込む。
(かか。うつくしきかな。親子の情)
男とも女ともつかぬ。
複数の人々が同時に発したかのような、高低に揺れる不可思議な声。
意図せず、星子は神棚を注視していた。
白鞘は変わらず佇んでいる。
仄かに。
ゆらりと。
神棚から、薄黒い煙のようなものが渦を巻き──
「星子。どうした」
再び、父の声に意識を呼び起こされた。
視界ははっきりとしている。異常は感じない。
「いえ。なんでもありません」
幻を見たと思い込み、星子は首を振る。
何故だか、これを口にしてはならぬという思いが胸を支配していた。
(かか。うむ。これはわしとぬしとの秘め事ぞ)
耳を打つ多重音も、きっと森歩きの疲れから来るものなのだ。
そう決めつけ、父の言葉に傾注した後は、もう余計なものは聞こえなくなっていた。
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