逢魔が刻の一ツ星
スズヤ ケイ
序
伝
始めに混沌在り。
数多の土地を作り、様々に神を産み、民に安息をもたらせども、後に災禍来たる。
まつろわぬ
国津の神々、其を鎮めんと
人。獣。妖。神。
其の前には等しく
ことごとくを自己の血肉と化す凶津星の暴威たるや、
幾星霜の永き戦を経て力削がれ、ついに凶津星地に伏せり。
されども神々をして、其の
其の身を八つに裂き、土地の方々へ
国津の神々の身命を礎に、天津の神より産み出したる至宝をもって、封印の要とす。
即ち、剣、鏡、勾玉。
数えて三種の神器と呼び習わすものなり。
これを人の長に託し、衰えた神々地上より天へ
神在る
人の長、後に戴冠し、帝となりて地を治むる。
帝、土地の名を「
この時をもって、神器の行方ようとして知れず、帝の威光地に落ちたり。
これより先は、いと
「──これにて、
弦を弾く手を止め、
ざわめきと共に散って行く足音の群れへ向け、琵琶法師は深く頭を下げる。
「ありがとう存じまする……」
地べたに敷いたござの上で、銭のぶつかる音がしなくなるまで、伏して謝意を示すのが常だった。
周囲の雑踏が消え、頭を上げようとした琵琶法師の鼻先に、ふわりと空気が流れた。
人の気配。
女人か。
まだ熟れ切る前、水気の満ちた匂いから、若い娘であろうと察する。
しかし、足音もなくいつの間に前へ立ったものか。
「
拍手と共に投げられた口調が、琵琶法師の困惑に輪をかけた。
声は間違いなく年頃の少女といった軽やかさ。
しかしその響きには、どこか老成したような、
「ありがとうございます」
琵琶法師はひとまず頭を垂れておく。
演目が終わった後にわざわざ声をかけてくる者は珍しく、その上奇妙な相手ときた。
さっぱりと意が汲めず、対応に苦慮したのだ。
もしやどこぞの姫ではあるまいか。
体臭とは別に、香木でも焚いたような甘い香りが漂う事から、ふと思う。
いやしかし。城下でもない田舎町に、そんな大層な貴人が来るだろうか。
疑念が沸々とする琵琶法師を気にするでもなく、娘は気安く声を寄越す。
「のう。その話、どこまでがまことぞ」
「……さあ。拙僧も伝え聞いただけにござれば」
各地に散逸した口伝の類を、一つの流れとしてまとめた語りものである。
真偽の確かめようもない。
そう琵琶法師が返すと、娘は途端に興味を失くしたようだった。
「さよか」
ぽつりと明後日に向けて吐いたところへ、突如びゅうとした一陣の風が吹き付ける。
それは、はためかせた着物の隙間へも潜り込み、ねっとり身にまとわりつくかのような嫌悪を抱かせた。
春先とは思えぬうすら寒さが、琵琶法師の背筋をぞわりと撫で上げる。
これは、まずい。
近頃
その先触れとして、決まって不気味な冷風が吹くのだと、もっぱらの噂であった。
よもや、陽のある内に。
それも、これ程人里近くで行き会うとは。
悪寒は
途端に形容しがたい汚臭と陰気が場に満ちた。
姿わからぬでも、間違いなく人の発する気ではない。
その事実が、琵琶法師の嗅覚と思考をさらに鈍らせた。
「匂う」
「匂うぞ」
「人の匂い」
「肉じゃ」
「馳走じゃ」
どやどやと口々に、贄を見つけた歓声をあげ、多数の足音がこちらへ殺到を始める。
琵琶法師はただただ妖気に圧され身動きならぬ。
動けたとて、目の見えぬ身で逃げようがあろうか。
「なんじゃ、じじいか」
「こちらはどうじゃ」
「おなごじゃ」
「うまげなおなごじゃ」
「おなごはもろうた」
「いや、わしのものじゃ」
「なんの、わしがさきじゃ」
琵琶法師は耳を疑った。
こんな老いぼれなど、捨て置けばよいものを。娘は未だ留まっていたというのか。
恐怖に縛られ、逃げよと発する事もできぬ。
あれよあれよと妖気は強まり、回りをぐるりと取り囲む。
「ひさしい馳走じゃ。ここは、なかようおなごをわけようぞ」
「うむ」
「異議やなし」
再び湧く恐ろしげな蛮声の間隙を縫い、娘がさらりと一言告げた。
「わしに目をつけるか。見る目があるの」
微塵の恐れも混じらぬ声に、あやかしどもがげたげたと嗤いだす。
「おう。つよきなおなごよ」
「わしらがみえておって、それな口をたたくか」
「ゆかい。なんと喰らいでがあろう」
「喰らうまえに、相手をせよや」
「なけやわめけや」
「やれちぎれ」
「やれきざめ」
己をいたぶり喰らう算段をされたのを、まるで意に介さぬかのように。
「かか。構わぬ。まとめて相手をしてくれようぞ」
娘は快活な笑い声を立てると、一つ大きく息を吸い込んだ。
それは、聴力に優れた琵琶法師ならばこそ捉えたものだった。
ぱきぱきと、耳奥に突き刺さり来る微細な高音。
娘が吐き出した息吹の波紋に乗り、寸前まであった妖気とは比べるべくもない、猛烈な寒気が瞬時に一帯を占めた。
時までもが凍りついたのだろうか。
見えぬでは確信しようもないが、琵琶法師はそう思い抱かずにおれなかった。
儚くも激しいその音が止むのを境に、周囲の雑音が完全に消えていたのだ。
今しがたまであった、あやかしの気配。
足音。匂い。気の揺らめき。
存在の証明といったもの。
全てが。
まるで端から無かったかのように、しんと静寂が支配した。
「な……何事、が」
自体が呑めず、琵琶法師の声が引きつる。
「望みの通り、相手をしてくれただけよ」
対して何の気負いもなしに、無邪気な答えが降って来た。
「わしが足止めした故に、たかってきた虫であろ。なれば、わしが払うが道理ぞ」
娘は愉快そうに笑うと、いつの間にか取り落としていた籠に銭を戻して、琵琶法師に持たせた。
「邪魔をしたな、御坊。わしは
娘の立ち上がる気配がする。
「せいぜい気を付けい。昔話はどうあれ、よからぬものはたしかにおるぞ」
それを最後に、娘の匂いは消えた。
遠ざかる足音一つ残さぬまま、
己の鋭敏さをすれば、
どれほどの技術、あるいは妖術が成せる
もはや百鬼夜行は頭より抜け落ちた。
恐るべきは、娘の形をした何か。
琵琶法師は救われた身ながら
「……魔と……
微風にさえ吹き消されるような小声を絞り出すと、遅れて激しい震えが体中へ広がって行く。
時刻は折しも黄昏時。
肌に粘り付くような薄闇が、人の領域を侵し始めていた。
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