逢魔が刻の一ツ星

スズヤ ケイ

 いにしえいわく。


 始めに混沌在り。


 国津くにつの神、これを天と地に分け平定す。


 数多の土地を作り、様々に神を産み、民に安息をもたらせども、後に災禍来たる。


 まつろわぬ凶津星まがつぼし、天よりりて、太平の世を乱さんとほっす。


 の者、るのみでを蝕む天魔なり。


 国津の神々、其を鎮めんと奮迅ふんじんするも、力及ばず。



 人。獣。妖。神。



 其の前には等しく塵芥ちりあくたし、かてと成り果てん。


 天津あまつの神これに嘆き、国津の神へ合力ごうりきせんとす。


 ことごとくを自己の血肉と化す凶津星の暴威たるや、天地神名てんちしんめいを束ねて相対し、ようやく拮抗為さしめるものなり。



 幾星霜の永き戦を経て力削がれ、ついに凶津星地に伏せり。


 されども神々をして、其の荒魂あらみたまを全て滅するに至らず。



 其の身を八つに裂き、土地の方々へうずめる事で留めおく他なし。


 国津の神々の身命を礎に、天津の神より産み出したる至宝をもって、封印の要とす。



 即ち、剣、鏡、勾玉。


 数えて三種の神器と呼び習わすものなり。



 これを人の長に託し、衰えた神々地上より天へぬる。



 神在る御世みよは終わり、ここにうつつことわり定まる。


 人の長、後に戴冠し、帝となりて地を治むる。



 帝、土地の名を「日ノ国ひのくに」と名付け、千年の安寧をもたらすも、西の海を渡りし大妖ありて、再び国乱れる。


 この時をもって、神器の行方ようとして知れず、帝の威光地に落ちたり。



 これより先は、いとくらき動乱の時代。


 魑魅魍魎ちみもうりょう跋扈ばっこする、大禍時おおまがときの幕開けとなりぬ。






「──これにて、日出国縁起ひいずるくにのえんぎはじめの段、終いにそうろう


 弦を弾く手を止め、禿頭とくとうの老法師が語り終えると、足元へ置かれた竹籠へいくらかの銭が投げ入れられた。


 ざわめきと共に散って行く足音の群れへ向け、琵琶法師は深く頭を下げる。


「ありがとう存じまする……」


 地べたに敷いたござの上で、銭のぶつかる音がしなくなるまで、伏して謝意を示すのが常だった。


 周囲の雑踏が消え、頭を上げようとした琵琶法師の鼻先に、ふわりと空気が流れた。


 人の気配。


 女人か。


 まだ熟れ切る前、水気の満ちた匂いから、若い娘であろうと察する。


 しかし、足音もなくいつの間に前へ立ったものか。


御坊ごぼう。まこと、よい口上であった」


 拍手と共に投げられた口調が、琵琶法師の困惑に輪をかけた。


 声は間違いなく年頃の少女といった軽やかさ。

 しかしその響きには、どこか老成したような、おごそかなものを抱かずにいられない。


「ありがとうございます」


 琵琶法師はひとまず頭を垂れておく。


 演目が終わった後にわざわざ声をかけてくる者は珍しく、その上奇妙な相手ときた。

 さっぱりと意が汲めず、対応に苦慮したのだ。



 もしやどこぞの姫ではあるまいか。


 体臭とは別に、香木でも焚いたような甘い香りが漂う事から、ふと思う。


 いやしかし。城下でもない田舎町に、そんな大層な貴人が来るだろうか。



 疑念が沸々とする琵琶法師を気にするでもなく、娘は気安く声を寄越す。


「のう。その話、どこまでがまことぞ」

「……さあ。拙僧も伝え聞いただけにござれば」


 各地に散逸した口伝の類を、一つの流れとしてまとめた語りものである。

 真偽の確かめようもない。


 そう琵琶法師が返すと、娘は途端に興味を失くしたようだった。


「さよか」


 ぽつりと明後日に向けて吐いたところへ、突如びゅうとした一陣の風が吹き付ける。


 それは、はためかせた着物の隙間へも潜り込み、ねっとり身にまとわりつくかのような嫌悪を抱かせた。


 春先とは思えぬうすら寒さが、琵琶法師の背筋をぞわりと撫で上げる。



 これは、まずい。



 近頃ちまたでは、夜な夜な百鬼の群れが横行し、出会ったものを貪り喰らうという。


 その先触れとして、決まって不気味な冷風が吹くのだと、もっぱらの噂であった。



 よもや、陽のある内に。

 それも、これ程人里近くで行き会うとは。



 悪寒はじつをもたらし、さほどの時も置かずして、ぞろぞろと多くの者が練り歩く気配が押し寄せる。


 途端に形容しがたい汚臭と陰気が場に満ちた。

 姿わからぬでも、間違いなく人の発する気ではない。


 その事実が、琵琶法師の嗅覚と思考をさらに鈍らせた。


「匂う」

「匂うぞ」

「人の匂い」

「肉じゃ」

「馳走じゃ」


 どやどやと口々に、贄を見つけた歓声をあげ、多数の足音がこちらへ殺到を始める。


 琵琶法師はただただ妖気に圧され身動きならぬ。

 動けたとて、目の見えぬ身で逃げようがあろうか。


「なんじゃ、じじいか」

「こちらはどうじゃ」

「おなごじゃ」

「うまげなおなごじゃ」

「おなごはもろうた」

「いや、わしのものじゃ」

「なんの、わしがさきじゃ」


 琵琶法師は耳を疑った。


 こんな老いぼれなど、捨て置けばよいものを。娘は未だ留まっていたというのか。


 恐怖に縛られ、逃げよと発する事もできぬ。


 あれよあれよと妖気は強まり、回りをぐるりと取り囲む。


「ひさしい馳走じゃ。ここは、なかようおなごをわけようぞ」

「うむ」

「異議やなし」


 再び湧く恐ろしげな蛮声の間隙を縫い、娘がさらりと一言告げた。


「わしに目をつけるか。見る目があるの」


 微塵の恐れも混じらぬ声に、あやかしどもがげたげたと嗤いだす。


「おう。つよきなおなごよ」

「わしらがみえておって、それな口をたたくか」

「ゆかい。なんと喰らいでがあろう」

「喰らうまえに、相手をせよや」

「なけやわめけや」

「やれちぎれ」

「やれきざめ」


 己をいたぶり喰らう算段をされたのを、まるで意に介さぬかのように。


「かか。構わぬ。まとめて相手をしてくれようぞ」


 娘は快活な笑い声を立てると、一つ大きく息を吸い込んだ。



 それは、聴力に優れた琵琶法師ならばこそ捉えたものだった。


 ぱきぱきと、耳奥に突き刺さり来る微細な高音。


 娘が吐き出した息吹の波紋に乗り、寸前まであった妖気とは比べるべくもない、猛烈な寒気が瞬時に一帯を占めた。



 時までもが凍りついたのだろうか。



 見えぬでは確信しようもないが、琵琶法師はそう思い抱かずにおれなかった。


 儚くも激しいその音が止むのを境に、周囲の雑音が完全に消えていたのだ。



 今しがたまであった、あやかしの気配。

 足音。匂い。気の揺らめき。

 存在の証明といったもの。


 全てが。


 まるで端から無かったかのように、しんと静寂が支配した。



「な……何事、が」


 自体が呑めず、琵琶法師の声が引きつる。


「望みの通り、相手をしてくれただけよ」


 対して何の気負いもなしに、無邪気な答えが降って来た。


「わしが足止めした故に、たかってきた虫であろ。なれば、わしが払うが道理ぞ」


 娘は愉快そうに笑うと、いつの間にか取り落としていた籠に銭を戻して、琵琶法師に持たせた。


「邪魔をしたな、御坊。わしはく」


 娘の立ち上がる気配がする。


「せいぜい気を付けい。昔話はどうあれ、よからぬものはたしかにおるぞ」


 それを最後に、娘の匂いは消えた。


 遠ざかる足音一つ残さぬまま、忽然こつぜんと。


 己の鋭敏さをすれば、衣擦きぬずれとて聞き逃すまいに。



 どれほどの技術、あるいは妖術が成せるわざであろうか。



 もはや百鬼夜行は頭より抜け落ちた。

 恐るべきは、娘の形をした



 琵琶法師は救われた身ながらおののき、目が見えぬ事を初めて感謝した。



「……魔と……うた……」


 微風にさえ吹き消されるような小声を絞り出すと、遅れて激しい震えが体中へ広がって行く。


 時刻は折しも黄昏時。


 肌に粘り付くような薄闇が、人の領域を侵し始めていた。

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