三 来たるもの
須佐の里には
鎮守の森を覆うものと、その最奥を封じるもの。
そして、里全体を俗世より隔離するための外周の円。
それらをもって、永きに渡り神器と里の存在そのものを隠し通してきた。
円の外からすれば、敷地内は森の風景と同化しており、見る事も干渉する事も叶わぬ。
知らず人が迷い込んでも、素通りするのみとなる。
今時分、傍目には、秋の到来を告げる紅葉が互いに競うようにして燃ゆる、鮮やかな大森林が広がっている。
高低一つ違うだけで、
「さてもさても、目の保養によき場所なれば」
森を流れる小川を辿っていた足を止め、女は斜陽に染まる景色へ見惚れるように面を上げた。
ゆるりとした黒染めの
腰までの髪と瞳もまた、夕暮れの陽を呑み込む程に深い黒。
衣装と対照的に、息をも呑むような
森にとってはなんとも奇妙な来客だった。
雅な装いは、遠く離れた帝都の貴人そのもの。
しかしてこれ程
影法師のような姿は、周囲の風景へ溶け込むどころか、自ら拒むように際立っていた。
「
女は高さのある黒塗りの一本歯の下駄を難なく履きこなし、小川の半ばから突き出た岩の上へひょうと飛び乗った。
かこん、と小気味良い音が、小川のせせらぎに混じって下流へ染み込んでゆく。
「されど
芝居がかった言葉とは裏腹に、然程の執着も顔に出さぬ。
微笑したまま、右手に持っていた黒い扇を広げつつ、左の
「いざやいざ。当代きっての大仕事へ取りかからん。祖の
左手は軽く拳が握られていた。
その内より、人差し指、中指、親指を順に
「
口ずさみながら、はたはたと扇をあおぎ、粉末を川上へと飛散させてゆく。
「喜びあそばせ。其の先、汝が愛し故郷へ通ず。さあさ、お還り、還れや、
独特な韻を踏みながら散らされた粉は川面へ浮かぶと、女の言葉に従うように、水流に逆らって
「嗚呼。
あおいでいた扇子を止め、顔を覆ってさめざめと泣き真似をする女。
しかして、口元は笑みを崩さず。
粉を撒き終え、手を袖の内に仕舞うと、その行方を目で追った。
さして急流ではないとは言え、川の流れに逆らう粉の様は、明確に天地の法則に反するもの。
女がなにがしかの術を行使したのは間違いない。
果たして時を置かず、距離にしても目を凝らす程でもない場所で変化は起きた。
逆流していた粉が、水面のとある部分を境に、せき止められたように左右へ広がって行く。
「あいや、大当たり」
女は目を細めると、扇を閉じて左の手の平へ打ち鳴らした。
ぱしん、と森の大気を震わすと、高下駄を持ち上げ前へ一歩。
どのような妖術か。
下駄は沈まず、水面上へ突き立った。
そのまま二歩、三歩と、大地を行くが如くの自然さで、粉の元まで歩み寄る。
「兼続殿。
女が軽やかに呼ばわると、大柄な影が一つ、頭上から降って湧いた。
「二度呼ばずとも聞こえております」
やや不機嫌そうな声を投げ、小川の側へ着地し片膝ついたのは、衣装は違えどやはり黒ずくめの若い男であった。
こちらは武装しており、腰には二本の大小、
頭巾の下の鋭い眼つきが猛禽を思わせる偉丈夫で、それを肯定するように、背には鷲に似た翼が一対、雄々しく生えていた。
異形ではあるが、魔性の者にあらず。
本来ならば支配階級として帝都に詰めているはずの天津人も、このような山奥で軽々に姿が拝めるものではない。
「それはそれは、とんだ御無礼を。ともあれ、さあさ、ご覧あそばせ。これぞ結界の境目にございますれば」
女は少しも悪びれた様子のない謝罪を述べ、粉が広がる小川を扇子で示す。
「まことにあったとは。かような辺境まで引っ張り出された甲斐があり申す」
「なんと異な事を。これに及んで、まだお疑いめされていたと。わたくしめは、正直が取り柄で通っておりますのに。やれ悲し」
兼続と呼ばれた男の皮肉げな言葉に、わざとらしく目元を覆う女。
「児戯に付き合わせるために呼んだのでしたら」
「殿方の
眉間にしわを寄せて立ち上がる兼続へ、女が流し目を送ると同時に。
水面を
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