22-1 鏡写し

 …………。


 神経衰弱を開始して、一晩が経った。

 外が朝日に照らされ、温室内も明るくなっていく。


 ソラの声は依然楽しげだ。恐らくソラこそまともな精神の持ち主ではないだろう。


 カズマは朝日が差すと、多少精神的に落ち着いた感覚がして、目眩もだいぶ楽になってきた。


 内心、胸を撫で下ろした。


 それから、いや、精神的に不安定にならなきゃいけないんだったと思い直す。


 ……これは予想以上にきついかもしれない。




 …………。


 それから更に半日が経った。辺りは夕方だ。


 もう丸一日、水と錠剤しか口にしていない。体調はカズマもドッペルも絶不調。


 目眩がきつく焦点が合わない。


 だが、『二人の心が折れるまで頑張ってもらうよ』とソラは神経衰弱を続行した。




 スピーカーの向こうで紙をめくる音がして、ソラが陽気に促した。


『ええっとぉ~。この資料によると、ドッペル君は両親に捨てられてるよね~。そん時の話をするっていうのは? ドッペル君、全部思い出したんだよね?』


 ソラの不躾な声に、ドッペルは怪我をした一瞬のように目を眇めた。


 やがて、瘡蓋かさぶたを剥ぐように語り出した。


「……俺を養護施設に入所させたのは父親だった。それは俺の母親のことで色々あったからで……」


『色々?』


 ソラが口を挟んだ。分かっていて訊いているのは明らかだ。


「……母親が事故に遭って、それまでの記憶の一部と人格をなくして……別人みたいだった。

 俺は変わらず接しようとしてたけど、母はもう俺に愛情を持てなくなってたんだと思う……」


 カズマは意識が朦朧とし始める中、もういいだろ、と言い掛けた。


 こんな話こんな状況ですることじゃない。

 いつかドッペルが打ち明けられるようになるまでは傷を抉るような真似はしてはいけない、したくない。


『君のお母さんは君を捨てて後悔してると思うかい? それとももう君のことなどとっくに忘れて幸せに暮らしてるのかもねぇ。

 どう思う? ……どうあることを望む?』


 ソラの楽しげな声音はいっそ不気味だった。


 ――分かってるくせに訊くな。ドッペルの母親は……。


 カズマの脳裏に、見たことのないはずの光景が瞬いた。


 モスグリーンの壁。窓から海が見えた。机の上に飛び散った黒髪。うつ伏せている女性――。


 ドッペルが辛さを逃がそうとするように唇を噛んだ。

 肩が強張っていることが、カズマにも分かった。


 そして、ドッペルが口を開いた。

 一言一言絞り出すように掠れた息を吐く。


「……俺の母親、死んじゃったんだ……俺の目の前で。

 俺がいた養護施設を調べに行った時、偶然再会して……。向こうが俺に気付いてたかは分かんないけど……俺は気付いた。

 それからクロさんと、母と色々話したりして、母が幸せだったかは俺には何とも言える資格はないけど……母と話すのは、多分、楽しかった……。

 でも、朝になって死んでた。生きることに何の未練も残せない程、絶望し切ってたと思う。

 それを、俺は目の前で……」


 ドッペルの語ること以上に、その声を吐く合間の沈黙や虚ろに揺れる視線が、ドッペルの経験した喪失の大きさを物語っていた。


 ドッペルの母親が死んだ……? 目の前で……?

 それはつい最近……?


 それを聞く前にカズマに浮かんだ光景はもしや……。


 どれ程の絶望だったのかカズマには想像がつかない。

 それでもドッペルは諦めずにいたのか、カズマのために。





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