12-2 海辺の家
クロの家で数日を過ごしたある朝、ドッペルはカーテンの隙間から日が差し込んでその眩しさに目が覚めた。
うーんと一つ伸びをした。
穏やか過ぎる朝だ。
それまでの数日と同じように着替えてから一階に降りた。
ただその日はそれまでとは違っていた。それまでなら廊下から朝食の匂いがしてくるのだが、今日はしない。
首を傾げた時にドッペルのスマホが震えた。ダイヤからのメールだ。
『もう何日も帰ってないっぽいけど大丈夫か? 電車事故があったらしいから、帰れないだろ? 今からその養護施設に迎えに行こうか?』
ドッペルはクスッと笑ってしまった。
車を運転できるのはダイヤだからダイヤからメールが来たのだろうが、電車事故があったことにまで気が回せるのはジロウの方だろう。
二人が自分を、というかカズマだと思っている自分を心配してくれているのが伝わって、くすぐったくなった。
『うん。ありがとう』
と返信してそのまま、でも大丈夫だから、と続けようとした時。
嫌な感じがした。
リビングのドアを開ける。
整理整頓された部屋。
机の上の書類もパソコンもきちんと一か所にまとめられていた。
そして、机に突っ伏している人物がいた。
緩く纏めた髪が書類の代わりにと机に散らばっていた。
死にたい、と考えるようになっていたのはこの頃からだったかしら。
私は何も愛すことが出来ない人間だってことにはさすがに気が付き始めていたわね。
机にうつ伏せているクロの呼吸がとっくに止まっていることに気付いた時、目の前がブレた。
ガクンとブレーカーが落ちる瞬間のように。
実際にドッペルがただ立ち尽くしていたのは数秒のことだっただろう。
こんな時なのに、こんな時だからか、頭が自分の意思とは関係なしに回転し始めていた。
おそらくクロは毒を飲んだのだろう。
外傷が見当たらないし、血の匂いもしない。
どんな種類の毒か特定することはもはや無意味だ。
何で死んだのか、死にたかったからだろう。
そして、死ぬメリットがあったからだ。
『企業でアドバイザーをしていた女性(四十代)が過労により自殺。』
そんなニュースが流れたなら、その企業は警察に調べ上げられるだろう。
ドッペルゲンガー製造計画を世間に暴き出すことが出来る。
ドッペルは机の上の書類に視線を移した。
クロさん、これを持っていけって言いたいんだね。
クロは最初から驚くほどあっさりドッペルに情報を開示してきた。
つまり初めから後のことをドッペルに託す、いいや、押し付けることを決めていたのだ。
ドッペルの中で強い感情が競り上がっては沈み、埋もれては突き上げてきた。
ドッペルがこの家で過ごした形跡をどうこうする必要はない。
自分には戸籍なんてないし、この世に存在するはずのない、もう一人のカズマなんだから。
一通りそれらの判断を済ませ、ドッペルは上着を着て書類を掴み、クロの白い海辺の家を出た。
俯き、足早にただ歩いた。
ぐちゃぐちゃに歩き回った。一時間は歩いたか。
気が付くと養護施設の手前の駐車場に着いていた。
砂利の向こうにダイヤの車が止まっていた。
木漏れ日が風に吹かれて、きらきらと揺らめいた。
「カズマ、……」
車の運転席から片手を挙げてダイヤが呼び掛けてきたが、途中で何かを察したらしく口を噤んだ。
「ごめん、ありがとう二人とも。迎えに来させちゃって」
ドッペルが申し訳ないというニュアンスが伝わるように頭を掻いた。
ドッペルの様子には何も言わず、助手席のジロウが真面目っぽい顔を作った。
「いや、いいよ。全然苦じゃなかった」
「そりゃお前はそうだろ。運転したの俺だし」
いつものようにダイヤが突っ込んだ。
それにドッペルはちょっと笑おうとして、上手く笑えなかった。
一旦ジロウの家に行こうという話になって車が動き出した。
車窓を通り過ぎる、あまりに何でもない景色を眺めていたら、頬を熱い滴が伝った。
慌てて袖で顔を拭った。
震える吐息を抑え込もうと、何とか落ち着こうとした。
悲しいのかな、俺は。
たった数日前に会った、多分、自分の母親だった人を亡くして、それでどんな顔をしているのが正解なんだろ……。
おそらく前の席にいるジロウとダイヤはドッペルが泣いていることに気付いていただろう。
それでも、ドッペルの座る後部座席を振り返ることもなく、何の声を掛けることもなく、いてくれた。
帰りの車は無言だった。
気まずい空気の中で、でもその気まずさをそのままにしていてくれた友人があまりにも温かった。
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