10-1 モモウラ教授

 モモウラは特に親しくもない職場の同僚と飲みに来ていた。


 中学・高校生向けの通信教育の教材を作っている部署に所属しているのだが、優秀なモモウラとこの同僚は周囲から勝手にライバル同士にされていた。


 社会人向けの教材も売り出そうという企画が持ち上がり、軽い打ち合わせのつもりで同僚を飲みに誘った。

 しかし、酒が回ったあたりから家庭の愚痴にすり替わっていった。


 モモウラはテーブルに肘をつき、今にもグラスにおでこをぶつけそうなくらい舟を漕いだ。

 そうしながら、同僚の男が黙っているのをいいことに、ぽつぽつと呻いた。


「……私の娘だがね……、学習障害なんだ。文章を書くことが苦手でね……。

 私とて頭では解っているのだよ、娘は障害でどうしようもないってね。でも、心の中では何でこんな簡単なことが……ただ文を書き写すだけのことでも出来ないのかと腹立たしくなってしまうこともあってね……。

 レンゲは、娘の名前だが、レンゲは一生懸命やっていて、私にもそれは分かる。しかし、上の子が優秀でね、スミレというんだが、元々から優秀で……つい比べてしまうんだ……。親として私は最低な奴なんじゃないかと、いつも……」


 同僚はじっと聞いていて「……そうか」とぼそりと返答した。

 やけに難しい顔をして。


「……俺にも息子がいる。息子はあまり俺に懐いてくれなくてな、息子のことは妻に任せっきりだ。

 ……俺から言わせれば、モモウラはちゃんと娘たちのことを考えているんじゃないかと思うがな……。俺の方が父親として何もしてやれてない……」


 この日の愚痴をきっかけにモモウラと同僚は親しくなっていった。


 モモウラの家に同僚が妻と息子を連れて訪ねて来たこともあり、子供たち同士も顔見知りになった。


 モモウラの娘のレンゲと同僚の息子は同い年で、スミレは八歳年上だったために、親たちが話している間スミレが下の子たちの面倒を見ている構図が多かった。


 そんな関係が半年ほど続いたある時、同僚の男の妻が交通事故に遭ったと知らせが入った。



 十五年近く前、交通事故に遭った。


 クロは病院で目覚めた時、出来事に関係する記憶が所々抜け落ちていた。

 事故で頭を打ったことによる記憶障害だと始めは説明された。


 夫と息子は甲斐甲斐しく世話をしてくれたが、夫は徐々に不気味なものに接するように、よそよそしくなっていった。


 息子は以前と変わらぬ様子で懐いてきたが、クロはどうしても息子を可愛いと思えなかった。


 経済的な事情や多くのことが重なり、息子は養護施設に預けることになった。


 その養護施設を支援していたのが夫の会社だったため、さほど抵抗なく息子を引き渡した。

 以来、息子とは一度も会っていない。


 息子を手放してからクロは夫への愛情も冷め切っていることに気付いた。


 離婚届に手を伸ばそうと考え始めた頃に、夫から事故後の記憶について度々尋ねられた。

 面倒だ、と思いながら波風を立てるのはもっと面倒だと考え直した。


 夫に知能テストを受けてくれと要求された時は苛立ったが、一度だけだと懇願され、しぶしぶテストを受けた。


 夫が何か思惑があることは分かったが、夫そのものにもう興味がなかった。



 事故後、同僚の妻は人が変わったようだった。


 モモウラの知る彼女は穏やかに笑い、夫と息子を深く愛していた。

 モモウラに対しても「クロって呼んで下さいね。職場でそう呼ばれ慣れてるので」と人懐っこい笑顔を向けた。


 同僚の男に彼女が一部の記憶を失っているとの事情を聞いた。


 モモウラは疲れ切って頭を抱えている同僚の肩にそっと手を置いた。


「……事情は分かった。だが、彼女の性格が全く変わってしまったことの説明はまだついていないのだろう? 私も出来るだけ手を貸そう。二人で原因を突き止めないか?」


 同僚は項垂うなだれるように頷いた。





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