9-2 地下室のピアノ


 朝方。

 研究所内には窓がないため朝日が差し込むことも雀の囀りが聞こえることもない。

 LEDライトの白い光が二十四時間降り注ぐだけ。


 カズマの部屋にスミレが訪ねて来た。

 彼女はこの時間帯に来ることが比較的多い。


「カズマ君、気分転換しましょう。許可は取ってあるから」


 スミレに連れ出されて圧迫感のある白い壁に囲まれた廊下を歩きながら、この場は素直に従っておく方が良さそうだとカズマは考えた。


 途中職員らしき人とすれ違いドキリと心臓が跳ねたが、スミレが許可を取ってあると言った言葉は本当のようで、カズマに目もくれなかった。


 地下へと階段を降りた。

 たどり着いた個室は無機質な白い部屋だが、壁の一角が本棚になっていた。


「ここ書斎……?」


「いえ、私の部屋よ」


 あっさりとスミレは言ってのけた。


 あ、なるほど、スミレの自室に連れてこられたのか。


 ……なんで?


 不思議そうにスミレを見るカズマの顔が不思議だと言うようにスミレが首を傾げた。


「取り敢えずこれ。私が預かってたのよ」


 そう言って差し出したのは誘拐された日に着ていたカズマの服と……青のメタル・クマのキーホルダーがついたスマホ。


 カズマは反射で受け取り、キーホルダーをそっと握り締めた。


「……これ、服とかはまだスミレさんに預かっててもらいたいけど、このキーホルダーだけは手元に置いてていいか?」


 スミレは少し考える素振りを見せて「いいんじゃない」と微笑んだ。

 寂しそうに見えたのはカズマの気のせいだろうか。


 スミレは何も尋ねなかった。代わりに、


「ピアノ聴いて行かない? って言ってもあんまり上手くないんだけどさ」


 彼女は遠慮がちにはにかみながら提案した。

 そんな表情も出来る人なのか、とカズマは驚いた。


 ピアノって? とカズマが訊く前にスミレは本棚の横の扉を開けた。


 グランドピアノがぽつんと置いてあった。

 ――扉の向こうがもし風呂場とか寝室だったらどうしようと一瞬焦ったことは内緒だ、絶対に――そこは防音室らしい。


 スミレはピアノの前に腰掛け、カズマは手近にあった丸椅子に座った。


「何聴きたい?」


「俺に曲名とか分かると思ってます?」


「分かんないでしょうねぇ、カズマ君だもん」


「じゃあ訊くなよ……」


 スミレがおどけたのにつられて、カズマはふん、と大袈裟な動きで腕を組んだ。


 スミレがカズマの恋人だったらしいとドッペルから聞いた。

 今ちょっとだけ何で自分がこの人を好きになったのか分かった気がした。


「じゃあ、テキトーに弾きまーす」


「そーしてくださーい」


 互いに覇気のない口調を装った。同じテンポでふざけ合うのが心地いい。


 ピアノの音色が響き始めた。

 温かいが寂しげで心が溶けていくような。


 聴いたこともない曲だ。

 スミレが囁くように歌詞を口遊くちずさむ。

「愛してる」も「好き」も出てこない恋の歌。多分上手い。


『もう茶色くなった押し花を捨てられなくて』。


 その一節だけスミレの声が揺れて、ふとこの光景に、この音たちに聴き覚えがある気がした。


 勘違いかもしれない。もしくは消去された記憶の中にスミレと歌ったことでもあったのか。


 ピアノのポロロンという静かな響きで曲が終わった。


「どうだった?」


 カズマを窺ってしまうことを隠すかのように、スミレは屈託なく訊いた。


 カズマはほんの少し賭けをしてみる。


「……何か懐かしい感じがした」


 スミレが小さく息を呑み、目を伏せた。長い睫毛が瞳に影を落とした。


「そっか……」


 その声は安堵しているようにも嬉しそうにも悲しそうにも聞こえた。


 それからすぐに監視カメラだらけの部屋に戻った。

 それ以来、あれほど表情豊かなスミレを見ることはなかった。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る