3-1 黒い箱

 当時の名前を思い出そうとしても何も浮かばない。

 ただ暗い日々だった記憶はある。


 その施設にはたくさんの子供がいたが、俺は常に孤独を感じていた。




 給食時間はカチャカチャと食器の音が時折聞こえる以外は静まり返っていた。


「もうこれ以上は食べられないです。お腹一杯で」


 俺は施設の先生に申し出た。


「何を言ってるの。残さず食べないと許しません。今週は残飯ゼロの日です」


「じゃあ、食べたい人にあげます。それならいいですか」


「いけません。皆さんのご両親から同じだけの給食費を頂いていますから」


 俺は口を噤んで食事を再開した。

 顔も見たことのない両親の養育費を慮って自分たちは生活しているのだと再認識した。




 施設の子供全員が園庭で遊ぶことを義務付けられている曜日があった。


 炎天下。ケイドロ。


 途中で気分が悪くなり、係の子供に保健室に行く許可を求めたが承諾されなかった。


「みんな我慢して遊んでるのに抜け駆けなんてずるい」


 遊びが終わってトイレで吐いた。

 熱中症になっていたが水道水を飲んで堪えた。




 夕食前の読書の時間。

 俺は子供たちに本を手渡していく施設の先生を引き留めた。


「もっと違う本も読んでみたいです」


「いけません。その本があなた達の年齢に適切だと判断された本よ、我が儘を言わず従いなさい」


「でもこれ昨日読み終わりました」


「何言ってるの」


 嫌悪感を露わにして咎められた。


「他の皆がまだ読み終わっていないでしょう? 全体の進度に合わせなさい」


 でも、と反論しようとして頭を引っ叩かれた。続けて二、三度手が振り下ろされる。


「いい加減にして頂戴! いつもいつもあんたが全体の和を乱すから結局私が責められるのよ⁉」


 少年は頭を覆って屈んだ。

 先生は気が済んだのか立ち去った。


 数人の男子が少年をにやにやと眺めているのに気付いた。

 女子の固まりからくすくすと上がる笑い声。


「先生が言ってたんだけどね、あの子ちょっとおかしいんだって。いつも和を乱すし信じられないって」


それ以外の子供は巻き込まれるのは御免だという風に顔を背けた。


 直接的にもいくつかの悪口が降りかかってきたが全て無視した。


 そのうち、


「出て行けよ! お前がいると先生の機嫌も悪くなるし嫌な雰囲気になるんだから。皆がお前に迷惑してる」


 そうだそうだと賛同する中の一人が手に持った絵本を俺に投げつけた。


 バシンと背中に当たり「痛いッ……」と声を上げた。


 次々と絵本が飛んできた。無関係を決め込んでいたはずの子供もたばになって。


 ガチャと活動部屋の扉が開いて「何をしているの」と先生が来た。


 先生は、ピタリと固まった子供達と部屋の惨状を見て最後に俺を睨んだ。


「また、あなたなの⁉ さっさと部屋を片付けなさい! くだらないことしてないで皆今すぐ食堂に行きなさい!」


 全員が隣の食堂に移動し、俺は一人散らかった絵本を片付けていた。


「あ、ここ破れかけてる……」


 先程乱暴に扱われたからだろう。

 傷を撫で自分の道具袋からセロハンテープを取り出した。


「ごめんな……」


 食堂で他の子供達に給食を配っていた先生が怪訝そうに顔を覘かせた。


「何をぐずぐずしているの」


「これ、絵本破れてたから……」


「そんなことは後でいいの! この愚図」


 手の甲をパチンッと叩かれた。




 ある時、そんな施設の生活から唐突に解放された。

 俺は教授に引き取られたのだ。


 教授の部屋に出入りするのは大学生の女の人だけだった。助手か何かなのだと思う。


 それからの数年は味わったことのない温かな日々だった。

 教授は優しく、頭脳テストで良い成績を出した時などは特に褒めてくれた。


 教授の机に散らばっているレポートを覘き込むと「この論文の意味が分かるか?」と訊かれて、「分かんない!」と即答したら、教授は笑いながら頭を撫でてくれた。


 それが嬉しくて、俺は一生懸命に教授を喜ばせようとした。

 たくさん話し掛けて、ふざけてみせて、頑張って懐いた。


 そして、教授は「手術をしよう」と話し掛けてきた。

 少し怖かったけど、手術をすれば教授が喜ぶことが分かっていたので、「うん」と頷いた。


 手術後、俺は全く別人の男の子の顔になっていた。


 自分のそれまでの名前も人格も思考も思い出せない。

 記憶は所々が抜けているようだ。これは人格形成に都合の良い記憶だけ残したということのようだが……。


 俺の顔がカズマという少年のものだとその時に知らされた。


 詳しい事情は分からなかったが、今までとは段違いに自分の頭が良くなっていた。

 行われた頭脳テストでは平均得点を大分上回る点数だった。学校に通ったことのない自分の成績が、だ。


「成功だ」と教授は喜んだ。


「成績の振るわない子供のドッペルゲンガーを作ることで相対的に成績の良い人間を作れる! 余計な学習教材も使わず、天才を何人でも何百人でも生み出せるんだよ」




 しかし、数年が経つごとに俺の成績は落ちてきた。

 俺は世間では中学生と呼ばれる身分になっていた。


 教授は優秀でなくなった俺に苛立っているようだった。


 ある日、教授の部屋に出入りする助手の女の人が硬いプラスチック製の大きな黒い箱を持ってきた。


「さあ、中に入って」


 何を言われているのか分からなくて怖かった。

 女の人は辛そうに「教授の指示なの。お願い、言うことを聞いて」と続けた。


 無理に手足を曲げ、中に入った。

 外から蓋をされた。

 数十分が経っただろうか。唐突に箱の外から声が降ってきた。


「こいつは駄目だ、失敗作だ。廃棄処分の日程を調節しておけ」


 聞いたことのないほど冷たい教授の声だった。


 足音が遠ざかっていく気配に重なり、助手の女の人が教授を咎めるように何か言ったが、俺の耳にはもう何も入って来なかった。


 心臓が嫌にどくどくと鼓膜を揺らして、現状を理解することを拒んでいた。




 黒い箱が開いた時、俺はある企業に引き取られたと知った。


 そこで初めて「ドッペルゲンガー製造計画」というものを聞かされた。

 説明を受けるうちに、自分は教授に捨てられたらしいと悟った。


 狭いが清潔な個室が与えられ、四年ほど過ごした。


 そこでは本や漫画やアニメを自由に手に取って観賞することが許されていた。

 これまでの自分がどれほど常識知らずだったか知った。


 企業で会う人会う人に疑問を尋ねて回った。

 おどけて、はしゃいでいた方が心が楽だった。周囲も苦笑気味に対応してくれた。


 月に一度、検査を受けていたが、あまり企業の思惑に沿う結果ではなかったようだ。

 ついに重々しく『廃棄処分』の話をされた。


 廃棄処分と言っても、俺の人格や記憶をリセットするという意味だと教えられた。


 その時は特に動揺もなく頷いた。本当に何も思わなかった。


 誰の期待にも応えられないまま捨てられ続けてきたのだ。

 今更、何を思えばいいのか……。




 そんな中、手の平を返すようなことが起こった。


 ドッペルゲンガーである俺と全く正反対の人格を持つ本人、カズマが会社に連絡を取ってきたというのだ。


 企業内は騒然となった。

 会議が重ねられた末に、俺はカズマの元にお試し販売というかなり強引な名目で送り出されることとなった。


 カズマの家に宅配されるための白い段ボールを前に苦々しく笑う自分がいた。


 カズマと過ごす時間が、カズマのドッペルゲンガーとしての最後の記憶になるのだろう。


 笑ううちに泣きたくなった。ぐしゃぐしゃと顔を擦って、いつものようににっこりと笑い直した。





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