1-2 お試し販売
*
ジャーッと水の流れる音で、カズマは目を覚ました。午前二時半。
洗面所を覘くと夜闇に、ドッペルが何度も顔を洗う気配があった。
カズマが手探りで電気のスイッチをつけると、ドッペルは、はっと蛇口を捻って水を止めた。
「こんな夜中にどうしたんだ?」
ゴシゴシと顔を拭うドッペルの背に声を掛けた。
「いやぁ俺、けっこう早起きで」
とぼけようとして、どこか歯切れの悪いドッペルにカズマはピンときた。
ドッペルは執拗にタオルで顔を覆い、鏡越しに目が合う位置のカズマから自身の顔を隠した。
「怖い夢を見たとか?」
カズマ自身もよく眠る環境が変わると悪夢を見た。
一番最近は修学旅行で、それこそ枕が変わってほぼほぼ徹夜した。酷い時はうなされるほどだ。
ドッペルは「まあ、そんなとこー」とカズマの心配をするりと躱した。
次の日の朝――正確には違うけど、二度寝したからその表現でいいと思う。
カズマは玄関口でドッペルを振り返った。
「じゃあ、悪いけど……」
「へいへい」
カズマを追い払うように手を振ったドッペルに再度、「頼んでおくから」と断って家を出た。
今日は恋人との初デートなのだ。
カズマは無意識にシャツの襟元を気にした。かなり緊張していた。
ドッペルを注文したそもそもの目的はこれだ。
ある事情があって親にも友達にも恋人がいるということがばれるわけにはいかない。
だからデートに出掛けている間、ドッペルにカズマの代わりを務めてもらうのだ。
今日は家族全員、出掛ける用事があるので必然的に留守番を頼むことになった。
カズマは彼女と合流し、ちょっとオシャレなレストランで料理が運ばれるのを待った。
何となく彼女との会話が途切れたのでスマホをチェックする。と、
「んなっ」
奇声を上げたカズマに「大丈夫?」と彼女が怪訝な顔をする。
カズマは何とか苦笑いで取り繕った。
「ご、ごめん。一本電話入れてきていい?」
自宅からの着信履歴が数十件入っていた。絶対にドッペルだ。
何があったのかと急いで掛け直した。
用件を聞くと、
『昼ご飯が冷凍うどんしかないよ! どうすんの俺、飢え死にする!』
「……冷凍うどん、食べろよ」
怒りをぶつける前に突き抜けてしまい、疲れがどっとのしかかった。
『え、冷凍のまま?』
「……頼むからお湯で湯がいて食べろ」
『どうやって? 作り方は⁉』
「袋に書いてあるの見ろっ」
つい怒鳴ってしまったが、『あ、ほんとだ。書いてある……』という呟きにカズマは再び脱力した。
説明書を読まない癖はカズマ本体と同じなのだな、とドッペルとの無駄な共通点を一つ追加した。
その後もデート中、何度もドッペルから電話が来た。
『スニーカー洗いたいんだけど何で汚れ落とせばいい? 歯ブラシ?』
「うちに余ってる歯ブラシはない。……えっと、靴箱の一番下の段にたわしがあるからそれ使って。
……って、何でスニーカー洗いたいんだ?」
『いやぁそれが、醤油ぶっかけちゃって。てへっ』
何故醤油がスニーカーにかかるんだ! と叫ぶのは我慢した。
結局デートは散々だった。
表向きは彼女と仲良く買い物をしていたが、着信が来る度イライラがつのった。
家に帰ったらドッペルを叱りつけないと。
どう考えてもカズマの邪魔をしようとしているようにしか思えない。
自分だけ留守番でつまらないからカズマに腹いせをしているのだきっと。
カズマは彼女との初デートをどうにか達成し、帰宅した。
自宅の玄関を開けると心なしか廊下は冷えていた。日が翳ってきたからか。
リビングの灯りが点いていないことが曇りガラスから見えた。
人の気配がない。家族はまだ帰ってきていないのだろう。
ドッペルは……?
慌ててリビングの戸を開けると、ダイニングテーブルの椅子に体育座りをしているドッペルがいた。
「おお、カズマおかえり~」とへらっとにやけた。
一見余裕ぶっているが、カズマには親に叱られないか怯える小さな子供に見えた。
立てた膝に自身の顎を埋めて、カズマを見上げている。
その様子にカズマの怒りがさーっと静まっていった。
気持ちを切り替える合図にふっと鼻から息を吐いた。
カズマはリビングの電気のスイッチを押しながら、
「ただいま……。暗くなったら電気点けなよ」
「あっごめーん。カズマが点けてくれると思って」
ドッペルが割と意味不明なピースをした。それすら叱られなかったことに安堵した照れ隠しの気がした。
ベランダに目を向けるとカズマのスニーカーが干されていた。しみは少し残っているがそれほど目立たない。
うどんを食べた食器は洗われていた。
カズマは分別を間違えているうどんの袋をそっとプラごみ入れに移した。
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