〈10〉

 人の体温を感じた。


 舞衣が翠のことをきつく抱きしめていた。


 翠は腕を回して、舞衣の細い身体を引き寄せ、衝動のままに、頬に口づけをした。


「ごめん。無力で」


 舞衣の肩に顔をうずめて、翠は謝った。


 ずっと誰かに許しをもらいたかった。


 舞衣は何も言わず、翠の頭を撫でた。


 そして、首筋に柔らかいキスをした。

 

 くすぐったくて、温かかった。

 

 胸に何かが迫ってきた。

 

 俺は生き残れるのか、のたれ死ぬのか。

 未来は俺に対して優しいのか、残酷なのか。

 

 すべてはいまだ混沌としていて闇の中だった。ただ、舞衣が優しく微笑んでいた。嬉しそうに翠にキスを返し、翠のことを包んでいた。この優しさは、きっと過去にもあったのだろうが、いつしか記憶から抜け落ちていた安心感だった。


 女とは、安心させてくれる生き物なのだと、翠はこの瞬間、わかった。


 本当に優しいのは、女なのだった。


 母でも妹でも祖母でもない、赤の他人の女。

 

 込み上げてくるものがあった。翠は上を向き、泣きそうになるのをこらえた。


 自分の女となった舞衣を抱きしめながら、いつまでも甘く柔らかい沈黙に浸っていたかった。


 やっと掴んだ居場所を離さないように、きつく抱き寄せるのが精いっぱいだった。


 夕莉。お前ももう、大丈夫だよ。


 翠は手の甲で涙を拭った。そして、舞衣と手を繋ぎ、公園を出て行った。


 舞衣の手は小さくて華奢だった。けれど翠の手を握る力は強かった。翠もまた、痛いほど握り返し、鎖のように繋がった掌は、誰の介入も許さなかった。


 誰も追いかけてこなかった。自分たちに気づかなかった。


 他人であふれた人ごみの中を、翠と舞衣は歩いていった。


 驚くほど気持ちがよかった。ここが、故郷だった。


 翠はふいに馬鹿笑いをしたくなった。


 ちゃんと満たされていたことに気づけなかったあの日々を、生まれて初めて、愛しく思った。


 自分がそう思っていられるのなら、あの子もきっと、生き返るだろう。

そう信じている。


 気がつくと舞衣も笑っていた。街中のざわめきが、心地いいリズムのように、耳に浸透していった。


 翠は、確かめるように足を踏みしめて、彼女と一緒に、家へと帰っていった。



 ただいま。待たせてごめん。





    完





*作中、桜庭一樹さんの小説「無花果とムーン」の一文を引用致しました。



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きっと明日はいい天気 泉花凜 IZUMI KARIN @hana-hana5

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