時々、犬がやってくる

結城光流

時々、犬がやってくる

 この家には。

 時々、犬がやってくる。



 自分がなにものか忘れているらしい犬がふらりと迷い込んできて、しばらく居つく。

 犬はあちこちを彷徨って、まだ戻ってくる。

 忘れものをしてしまったから戻らないといけない。

 そう言い残して(なぜか言葉がわかるのだ)いなくなった犬は、しばらくするとまた現れる。

 犬はそうやって、時々姿を消してはまたやってきて、軒下に陣取る。

 家に入ってきたらと声をかけてみたが、上がるのは気がひけるのか、軒下から動かない。

 物置になぜかあったドッグフードを与えてやると、まるで何かを待つようにじっと見上げてくる。


「お座り」

「お手」

「伏せ」

「待て」

「よし」


 許可が出て初めて餌に食いつく。

 どこかの誰かがしっかり仕込んだようだ。

 きっといい飼い主だったんだねと口にすると、なんとなく寂しそうな、悲しそうな目になった。

 犬はまたふらりといなくなった。

 近くにいるのはわかるのに、姿が見えなくなる。

 ふと、どこにいったのか、初めて気になった。




 家を出て、門を開けようとして、手を止める。


 こんな門、うちにあったっけ?


 なんだかおかしい。


 犬はどこに行った?


 門にかけた手が、いやに細い。

 肉が落ちて骨張っている。

 手首もこんなに細くなって。

 どうして。…そうだ。


 ちゃんと食事を。

 していない。


 いつから食べていない?


 犬に食べさせて、それで食べた気になっていた。


 ここはどこ?


 知らない家にいつからいるの。


 表から、激しく吠える犬の鳴き声が聞こえた。

 それとは別の唸り声も。

 争うような気配。咆哮、唸り、悲鳴。

 犬が危ない。

 名前を呼ぼうとして、出てこないことに苛立つ。

 犬は、犬の名前は。


「………………!」


 叫んだ声が、世界を割った。



    ◇    ◇    ◇



 追いかけるようにのばした手が、瞼を開けた目に映った。

 肉の落ちた指。

 周りを見ると、白い壁、白いカーテン。

 傍らに家族がいた。

 母が泣いている。兄が肩を震わせている。


 なに?


 散歩中に、ひき逃げにあったのだという。

 ちぎれたリード、血塗れの私。

 犬はどこにもいなくて、血溜まりだけが残っていたそうだ。

 自動車に轢き逃げされたと、警察は言っていた。

 でも犯人はまだ見つかっていない。





 夜。

 だんだん思い出してきた。

 自動車じゃない。

 何か、得体の知れない大きなものに追われて、捕まりそうになって、犬がその前に立ちはだかった。

 撥ね飛ばされた犬を抱えて逃げ込んだ林の奥に門があって、その中に入って力尽きた。


 それが、あの家だ。


 犬は、何度もやってきた。

 私の無事を確かめに。

 忘れものとは、あの得体の知れない何かを追い払うための口実。

 自分がなにものか忘れていたのは,犬ではなくて私。

 思い出したらあの不思議な家にいられなくなる。

 犬はあの家に入らなかった。

 あの家は、私を守るための砦だったから。

 犬は、砦を守る番犬をしていたのだ。


 あれはどうなった。

 犬は。

 悲鳴が耳の奥に甦る。


 犬は――。






 退院して自宅に戻った夜、月明かりの中に、ぽんと黒い影が降りてきた。

 片耳をなくして足を引きずった、傷だらけの犬が、そこにいた。

 犬は私を見つけると、半分ちぎれた尻尾を振って、くわえていたものをぽとりと落とし、誇らしげに一声、わん、と鳴いた。

 わんと鳴いた犬に駆け寄った私は、痩せてあちこち傷がハゲになっている犬を抱きしめる。

 わん、わん、と犬が鳴く。


「シロウ……!」


 白かったはずなのに土と血で赤黒い毛並みになってしまったシロウを抱きしめて、私はわんわん泣いた。





 シロウがくわえていたのは、鋼のような毛に覆われた尻尾らしきものだった。

 そういえばお前は猟犬だった。

 あの何かがなんだったのかはわからないまま。


 代わりにシロウは軒下から格上げされて、家に上がれるようになった。

 あの家がどこにあったのかはわからない。

 どんなに探しても見つからない。



 片耳をなくしたシロウは、今日も私と散歩をしている。




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時々、犬がやってくる 結城光流 @yukimitsuru

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