8章 右方と左方

第31話 青き狼と黒獅子

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 初夏を思わせる穏やかな午後。車窓を流れる景色は清々しく、休日の電車には家族連れの姿が多く見られた。笑顔が溢れる穏やかな空間で、ひとり電車に揺られながら玉置訪花の事を考える。ハルは、職員室で盗み見た住所を頼りに訪花の自宅へと向かっていた。


 雪のように白い肌、闇色の黒髪に寒々しい瞳をもつ少女。玉置訪花、見た目は理知的な美少女であるが、素性については調べるほどに謎は深まるばかりで人物像がつかめなかった。


 出席簿を見ると毎日出席していることにはなっていた。しかし、実際に彼女に会うことは叶わない。同じクラスの生徒に聞いても「あれ? さっきまであそこにいたのに」という具合でその所在が全くつかめなかった。確実に存在することになっているのだが、意識されない。彼女は誰の目にも留まっていない。校内の訪花は、まるで空気のように存在していた。


 ハルが通うのは変哲もない公立高校である。通う生徒の多くは自宅から近いという安直な理由でこの学校を選んでいた。

 訪花は四つ駅を経た隣町に住んでいた。自宅は最寄り駅から更に数キロを歩く。成績も飛び抜けて優秀で運動も出来ると聞いた。訪花は間近にある進学校に通って当然の人物である。そんな彼女が今の高校を選んで入学してきた訳は。不相応な高校を選んだ理由は一つしかない。おそらく、彼女は入学試験を受ける前からこの殺人を計画していたのだ。


「たしかこの辺りだと……」

 住宅街を抜けると家の数も疎らになってきた。駅からも随分と歩いた。


 ――あの辺りのあれがそうなのか?

 郊外といっていいほどに開けた場所に出ると少し先の田畑の中にこんもりと盛り上がるように茂る木々の群れを見つける。その小さな森の側にポツリと一軒、人家が見えた。ハルは思わず「へぇ」と感嘆の声を上げる。

 見えているのは一般的な住宅ではなかった。敷地はかなり広く、塀に囲まれた家屋はどこぞの旧家を思わせた。祖先は豪農あるいは武家といったものだったかも知れない。


 外塀に沿って少し歩くと屋根付きの門が見えた。

 黒犬の警告を無視して踏み込んできている。いつ何が起こってもおかしくはない。緊張で固まる頬を叩き門へ近づいていく。


「腹をくくれ。僕はここに、喧嘩をしに来たわけじゃない」

 ハルは拳に力を込めた後にフッと息を吐き肩から力を抜いた。


「いい度胸だ。小僧」

 予感も何もなしに声を掛けられ身の毛がよだった。息を飲んで振り向くと、そこに毛足の長い黒の大型犬がいた。その姿は、あの日に出会った獅子よりもかなり小さく、どこにでもいるようなペットのなりをしていた。


「黒麻呂さんですね」

「おう」

 黒麻呂は短く答えた。


「訪花さんにお願いがあって来ました」

「お願いとは笑止、飛んで火に入る夏のなんとやらではないのか」

 黒麻呂がニヤリと笑う。


「訪花さんは、いや、雨の陰陽師は今どこに?」

 ハルは嘲るような視線を真正面から受け止めて黒犬を見返した。


「ほう、お前、俺が恐ろしくはないのか?」

「別に」

「命が惜しくはないのか?」

「べつに惜しんでなんかない。今はまだ、殺されるわけにはいかないけど」

 淡々と話すがこれは目一杯のはったりであった。

 目を細めて鼻で嗤う黒犬。負けじとハルは腹に気合いを込めた。のっけから相手に飲まれていたのでは話を先に進められない。訪花の側に化け物がいることは承知の上である。


「小僧、やはりお前は面白いな」

「雨の陰陽師はどこです。僕は彼女にお願いがあって来た。教えて頂けませんか」

 

 挑むように言葉を吐き出す。すると黒麻呂が射竦いすくめるように眼を向けてきた。ハルも獣の威力を受け流して見返した。必死であった。


「ほう、俺の睨みを受けて、まともに返してくるのか」

「色々あったんでね。すこし慣れたのかも知れない」

「……慣れた、か。そう言うか」

 黒麻呂は目を伏せ笑んだ。ハルは黒犬の体から立ち上る威勢が少し弱まったことを感じ取っていた。


「彼女はどこに」

「訪花は留守だ。しかしちょうど良い。少し話をしようではないか。お前に聞きたいことがある。ついてこい」

 黒麻呂が行き先を示すように鼻先を振った。ハルは頷いて了承し、訪花の家に隣接する森へ誘う黒犬の後を追った。おそらく、向かう先に安全などないだろう。だが、殺すつもりならば見つかった時点で命がなかったはずである。まだ殺されていないのならば、そこには生かしている理由も何かあるはずだ。

 

「神社? ここは神社なのか……」

 森の入り口を見ると朽ちた鳥居があった。


「どうした、ここまで来て怖じ気づくのか」

 黒麻呂が振り返って笑った。

 

「ここは……」

 薄暗い森の中に入る。頬をすり抜けていく草の匂いもひやりとしていた。

 雑草に覆われた石畳の先に老朽化した社があった。建物の形はどうにか保たれていたが、しめ縄や紙垂しでなどは見当たらず、風化を見せる柱や梁は枯れ木を思わせるように白い。開け放たれた戸の奥には御神体なども見当たらなかった。


「我らが社だ」

「あなたがここの神様ということですか」

「あなたが、というのには少々語弊があるな」

「語弊? 違うのですか」

「まぁ急くな。話せば長くなる。それよりもだ」

 黒麻呂は話しながら真の姿である獰猛な黒い獅子の姿を出現させた。


「やはり怖じぬか」黒麻呂は呆れるように溜め息をつき次いで問いかけてきた「蒼樹ハル、お前は、何者だ?」

「何者だと聞かれても、答えようがないのですが」

「水郷の姫、あの真神のことだが、あやつがお前のことを『雨の陰陽師』だと嘯いていることは知っている。だが――」

「雨殿は訪花さんだといいたいのでしょう、異存はありませんよ。僕は僕だ。僕は蒼樹ハル。それ以外の何者でもない」

「そうだな。我らは、あの玉置訪花が雨殿であるとの啓示を受けた。だからお前が『雨の陰陽師』ではないと知っている。だが」

「だが?」

「お前が何者であるのかが分からない」

「だから、何度も言ってるでしょう。あの鬼に喰われそうになった時も今も」

「うむ、それはそうなのだがな。はいそうですか、とはならんのだ」

「何故?」

「何故、か……。その話を詰めるならば、そいつとも話さねばならぬのだがな」

「そいつ?」

「出てこい、真神の姫」

「真神? 姫?」

 黒麻呂は出てこいと呼んだがハルには真子を連れてきた覚えはない。いったいどういうことなのかと思って黒麻呂を見ると視線が自分の足下に落ちていた。


「黒麻呂さん、今日は真子と一緒ではありませんよ」といった矢先にハルの足下につむじ風が起こり青銀の毛皮が現れた。


「黒の王よ、雨様に何用か」

「真子! どうして君が」

「蒼樹ハルよ、真神は常にお前の影に潜んでいるのだよ」

「僕の影に?」

「常に側に張り付いている真神の目的は命。そうだよな、真神の姫君よ」

「真子が、僕を殺そうとしている?」

 驚いたハルは戸惑いのままに真子を見た。


「……ハル様」

 目を合わせた真子がスッと目を逸らす。


「真子、そうなの? 黒麻呂さんが言っているのは本当のことなの? でもどうして」

 尋ねたが真子は口ごもったあと下を向いたまま沈黙した。


「ザマはないな。なんという情けない姿。お前、本当にあの真神の姫なのか? それでも左方を守護する神獣だと言えるのか?」

「さほう?」

「雨の陰陽師おんみょうじ、右方には風神を、また左方には雷神を従えたりき」

「それは!」

「ほう、聞き及んでいたか、ならば話は早い。右方とは我らを差す。そして左方とは、そこにおる真神どもを差す」

「黙りなさい! 黒の王! 穢れにまみれた者に雨様の右方を名乗る資格はございません!」

「穢れねぇ、確かに犬神どもは穢れを請け負う祟り神であるが、我らをその者らと同列に語るのはどうかと思うぞ。それに我らは犬ではない、獅子だ。我ら『拒魔こま』は歴とした神使である」

「それは御託というものでしょう。八百有余年前、邪に落ち、世に恐怖と荒廃をもたらせた者が言って良い言葉ではありません!」

「ほう、ならば、無益にそこの小僧を殺そうとしたお前はどうなるのだ? 真名を偽ってでも人を騙し、殺めようとしたお前はどうなるのだ? それこそ、神の名を語る資格を問われることだぞ」


 黒麻呂は真子を見下すように言い含めた。


「言っておくがな、あの戦、我らは本意ではなかったのだぞ」

「な、何を今更!」

「お前はまだ生まれていなかったから知らぬのだ」

「その事は、ちゃんと学んでおります!」

「学ぶか……。学ぶとは、聞かされたということ、それが真実とは限らないだろう」

狛神こまがみふぜいが世迷いごとを! 悪鬼とともに邪に落ちた者の言葉などに迷う私ではありません!」

 光る毛並みを逆立てて真子は黒麻呂を睨んだ。


「やめておけ、見れば分かる。今のお前では遊びにもならん」

「私とて眷属。ここにおられる雨様の加護により一矢くらいは報いて見せます」

「なるほどな。その小僧を殺さぬは、そういうわけであるか。しかしな真神よ、そいつは、蒼樹ハルは雨殿ではない」

「いいえ! ハル様は雨の陰陽師です」

「困ったやつだな。おい、小僧、こいつに教えてやれ」

「ハル様」

 真子が戸惑う眼で覗き込んでくる。ハルは首を横に振って答えた。


「そ、そんな……」

「真子、残念だけど僕は雨様じゃない。僕の影にいたのならば、さっきの会話も聞いていただろ?」

「玉置某が雨様と……」

「そうだよ、彼女が雨の陰陽師――」

「し、しかし、それはそこの者が勝手に申しておるだけのこと」

「真子、雨様は他にいるんだ。今はここにいないけど、雨様はもうちゃんと存在している。そして黒麻呂さんはその雨様の側に仕えている」

「……ハル様」

「ごめんよ真子、もう少し早く君に伝えるべきだったね」

「でも、それでもどうして……。雨音女あまおとめを失い、雲華の水鏡も失われたというのに、なぜ……」

 真子は歯がみをして俯いた。その後、涙を溜めた目で黒麻呂を睨んだ。


「その雲華が教えたのだ、諦めろ」

「なん、だと。黒の王よ、今何を、何と言いましたか!」

 真子の身体から怒気が迸る。


「はて、俺は今、何かおかしな事を言ったか?」

「雲華と」

「それがどうしたというのか? ようやく手元に戻ったあれは、元々我らが神器である。それが――」

「やはり、お前達だったのか……」

「お前達? 何のことだ?」

「我らの里を襲い、里から神器を奪い、そして里を封じた」

「はて、知らぬがな」

「惚けるな。あのような真似が出来る者など、そうはおらぬ。お前になら出来るだろう。犬神や仲間を率いて我らを襲った。なるほどこれはあの戦の続きというわけか」

 

 小さな狼が天を仰いで吠えた。その瞬間、真神の周囲を霞が覆う。

 その霞の中で真子の双眸が青の煌めきを放った。無数のいかづちがその体躯の周囲を駆け巡るように乱れ飛んでいた。


「今ここで、討たせて頂きます」

 大型の獣の姿になった真子が黒麻呂を睨み付けていた。

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