第30話 古の記憶

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 ――その日も、合戦の音をかき消すほどの重たい雨が降っていた。


 銀杏の巨木の前に立ち、黒く垂れ込める雨雲を恨めしく見上げながら遠き昔を思い出す。それは仙里が胸に抱き続けている忌まわしきいにしえの記憶。


桔梗ききょう、もういい、ありがとう」 

 それが彼の最後の言葉であった。


 今はもう歴史に埋もれてしまっているが、遠い昔に黒鬼と人間との間に一つのいくさがあった。

 確か文暦ぶんりゃく元年(一二三四年)のことだったと思う。

 あの日から凡そ八百年の時が流れていた。いつの頃であったか季節までは覚えていないが、その光景は現在に至っても記憶の中に強く焼き付けられている。


 帝より遣わされた精鋭揃いの討伐軍に、大峰おおみね兼五郎けんごろう義親よしちかと彼を慕う白拍子しらびょうし桔梗ききょう御前ごぜんの姿があった。


 桔梗という名は仙里の本当の名ではない。白拍子とは平安から鎌倉にかけて起こった歌舞うたまいや、その舞手のことを指す。その出で立ちは、かの九朗判官義経に添っていた愛妾の静御前が、源頼朝の前で恋歌を舞った姿を思い起こせばよい。


 遊女の如き白拍子の同行に疑問を持つ者は帝の軍勢の中に一人もいなかった。

 理由は二つある。うちの一つは桔梗が神通力に秀でており、武者十人(勿論それは本気の力の尺度ではない)にも数えられる力の持ち主だと認知されていたから 。ざっくりといえば使えるものは何でも使おうということだ。


 もう一つの理由は、この軍勢には帝の懐刀であった陰陽師どもも参加していたのだが、その陰陽師の中には巫女の姿も在ったので、桔梗のように女装の者が混じっていたとしても特段に驚く事にはならなかったということである。


 桔梗の素性を怪しむ者はいなかった。彼女が力を振るったとて、他にも化け物じみた力を使う巫女が在るのだからそれに紛れてしまえば疑う者は誰一人もいない。本気さえ出さなければ目立つことも無く、その上に出自正しい彼女達の陰に上手く隠れてしまえば正体云々などはどうとでもなったのである。


 ただし正確を期して言えば、桔梗の正体を知る者があの軍勢の中に誰一人もいなかったという訳ではない。一人いた。その事情を知る唯一の人物こそ、桔梗が慕っていた大峰兼五郎義親という侍であった。

 桔梗というあやかしがあのように人間の側に立ち、あのように戦に赴いていた要因も実を言えばその大峰兼五郎義親にあった。


 帝は、強者つわものに一級の武具と馬を与え、懐刀であった陰陽師も遣わした。それは秀絶しゅうぜつで極まれる軍勢であった。

 血気盛んに進軍する軍勢。戦は三日三晩を要したが帝の軍勢は黒鬼の徒党を都から追い出すことに成功する。彼らは疲労をものともせず直ぐに追撃を開始した。

 その後、帝の軍勢は数日のうちに黒鬼の徒党を追い詰めた。既に味方もかなりの損傷を受けていたのだが、彼らが武士の気概を失わせる事はなく、軍勢の士気は落ちなかった。


 最後に独り残った黒鬼の首領を武者達が囲う。刃を構える猛者達のうちの誰かが「やあい、打ち取れ!」と声を上げると、皆が応じて一斉に飛びかかった。

 無論、天下の宝刀を授けられていた大峰兼五郎義親は一先に飛び込んでいった。桔梗も獅子奮迅して刀を振るう義親に続いた。


 一心に太刀を振り敵方の首領と切り結ぶ義親。桔梗も呪を駆使して援護の攻撃を繰り出した。


「これで終わらせる!」


 義親の誇らしげな言葉を聞いた。見ると義親の太刀は鬼の首領の胸を刺し貫いていた。その様子を見て桔梗も少し気を緩めたのだがしかし、次の瞬間に悲劇が起こる。


「嫌ぁーーー! 義親様!」

 

 喉が掻き切れる程の叫びだった。 

 腹にめり込み背を突き抜ける黒鬼の血濡れた赤い腕を、桔梗は震えながら見ていた。

 義親は苦痛に顔を歪めていた。食いしばる口元からとうとうと血が流れ出ていた。

 それでも、血を吐き出した義親の眼光は曇らなかった。彼は更に強い意志を瞳に表した。


「首級は挙げさせてもらう!」

 止めどなく溢れ出す血に構うことなく義親は叫んだ。顔を見れば満足げに笑みを浮かべていた。


「義親様! 義親様!」

「桔梗! 俺に構うな! もういい、ありがとうよ」


 桔梗に向けて言葉を投げた義親は気合いと共に腹から鬼の腕を引き抜き、鬼の胴から太刀を引き抜いた。義親は残った力を振り絞って太刀を鬼の頸根くびねに当てて首をはねた。


 鬼の首領が崩れ落ちる。髪を掴んで首級を掲げた大峰兼五郎義親も宝刀を握りしめ立ったままで往生していた。

 だがこの時、義親の手にぶら下がった鬼の首が今際の際で言葉を残す。


「これで終わりではない。お前達の好きにはさせぬ」


 鬼が笑った直後、義親の身体から抜け出た魂が光を放った。高く上った魂魄は上空で六つに分かれ方々へと飛び去ってしまう。


 こうして黒鬼討伐は終わるのだが、桔梗はその後に散り散りに飛び去った義親の魂を探し求め彷徨う事となる。

 合戦より五十年後、桔梗は苦労の末に魂魄の全てを手に入れるのだが、その時に魂魄を全て集めたところで呪いを解くには至らない事実を知る。愛する者の魂を集めても人の姿を留められるのは束の間のこと。魂魄は僅かに三日しか形を保つことが出来ず、三日が過ぎれば桔梗の手の中からすり抜けるようにして再び飛んでいってしまうのだ。


 義親の魂を集めることは雑作も無かった。現にこの八百年間に幾度も、それこそ数えきれない程、義親の魂を集めることが出来ていた。

 しかし、そのいずれの時にも呪いの解法は成らず義親を救うという望みは叶わなかった。

 雨の陰陽師に纏わる雨音女の伝承……呪い解法を知ったのは、今からもう何百年前の事になるのだろうか。労苦を重ね全てを賭してそこに辿り着いたはずであったのだが忘れてしまった。――でもまぁ良い。時期などは無意味であるから覚えていても仕方がない。

 ただ、その解法の手段を知った時に、酷く嘆いてしまったことだけをなんとなく覚えている。無理だと諦めようとしたことを覚えている。


 わずか三日間だけ寄り添うことの出来る愛しき者。

 愛しき者は三日が過ぎればまた居なくなる。

 集めては消え、消えては集める。

 桔梗は時を彷徨うようにしてその業を繰り返した。

 ――義親様……。

 仙里は細く呟いた。

 何十回、何百回、飽きもせずこれまでと同じように慕情を募らせてそれを繰り返してきたが、もはやその数は覚えてはいない。


「妖が人を愛する事など稀な事。妖が人から愛される事なども、また、稀な事。もちろん、私があなた様以外の人間を慕う事など……それこそありえないのでございます……」


 名も知らぬ社の中で巨木を見据えて立ち、「嗚呼」と小さく息を吐いた。嘆きの言葉がけむのようにふわりと漂い雨の中へと溶けて消え去る。仙里は手を伸ばし巨木の幹にそっと触れた。己が見つめる先に感じているのは慕う者の魂の残り香だった。

 時は移ろい、人の世の営みも変わった。重たい雨は変わらず天から大地に落ちてくる。自然のことわりは時を経ても何ら変わりがなく……。


 ――仙里は、ゆっくりと眉根を寄せた。

 

「そうか、あの時の、あれが……」

 何も変わらなかった数百年の時の流れに諦めにも似た感情を抱いていた。だがしかし、潮目は変わった。確かにあの時に変わった。

 その者は、突如として目の前に現れ、因果の中心に据え置かれた。

 何の力も無いただの人間だった。それなのにいつでも荒事の中心に姿を見せる。


「蒼樹ハル。……あやつはいったい何者なのか」

 思案するまま目を細める。この分岐点へと向かってくる因子がきっと過去のどこかにあるはずだ。仙里は遠く記憶を手繰った。

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